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ガタン、と大きな音がして目が覚めたのは殆ど明け方に近い時間だった。音に目覚めてから寝ぼけ眼でスマートフォンを確認して早朝四時十三分。きっとカケルが起きたのであろうと、もう一度枕に頬を埋めようとした所で、階段を挟んだカケルの部屋から自分を呼ぶ声が聞こえて、頭が一気に覚めた。
飛び起きると足元の黒猫がごろりとベッドを転がった。構わず階段にまで出ると、正面にカケルの姿があり、「あれ? ヒムラ君じゃなかった?」と、首を傾げていた。ヒムラはもう一度、今度は世界から迎えにやって来たような、晴れやかな目覚めを感じた。
ほんの数段の階段を飛び降り、マチの部屋に出た。そこには姿がない。リビングへ進み、キッチンも確認したが、いない。慌てて一階の玄関を確認すると、そこにはあった。マチの靴が、確かにあった。
二階へ駆け上がり、ヒムラはカケルと目を合わせた。するとカケルの、あの穏やかな笑みが、キッチンの奥、浴室へと、向いた。
そこには今しがた風呂を上がったばかりなのであろう、濡れた髪を頬に張り付けたマチの姿が、あった。
それはこの二年間、ヒムラにとって当たり前の日常として、必ずあった姿だった。
ヒムラは喉からこみ上げる感情で詰まり、声の一つも発せられなかった。
感情で塞がれた喉がひくつつ。嗚咽がこみ上げて、堪える為に強く、唇を噛みしめた。
「おかえり」
何事もなかったかのように、カケルが声をかけた。疲労の所為か、いつもより反応の遅いマチは漸く気が付いた様子で、それでも尚、反応は鈍かった。
カケルを見た後、疲れ切った、開ききらない目がヒムラを捉える。そしてもう一度カケルを見て、状況を察したようだった。
「今帰った」
低く平坦な声が、疲れ切った調子で、囁いた。
ヒムラが堪らず俯くと、正面に立つカケルが小声でマチをからかい、マチが生返事をする。まるで当たり前の日々が、今、戻った。
※
行方不明になってから五日目の早朝、マチが戻った。なにをしていたのか、話してくれても理解は出来ない。けれど事件としての報告は必要というマチと、マチの無事を知らせなければというヒムラの使命感で朝、六時に千葉への連絡を試みた。すると予想通り、ものの二十分で千葉と鏡が合流した。
流石にこの時間では千葉も鏡もスーツではなく、よく考えれば初めて見る、千葉は思いのほか清潔感のある部屋着姿で、鏡に至っては寝間着のままだった。
マチを見るなり鏡の、その大きな、釣り目がちな猫目は涙でいっぱいになり、全てに濁点が付いた「すみません」を何度も何度も繰り返した。反して千葉は何故にそこまで平静でいられるのか、長い付き合いとは恐ろしい。なんとものんびりとしたあの、間延びした口調で、「おかえりー」とマチへ向かっていった。疲労困憊なマチは拒否する余力もなく、その余りの体格差で千葉の体に吸収されているようにすら見えた。
朝方、ヒムラとカケルが起きたあの音は、マチが着ていた服を洗濯機に入れた際の音だった。回し忘れたままの中身をヒムラが確認した時が、酷かった。あの日着ていた服が、血まみれで放り込まれていたのだ。
上半身だけならまだしも、下半身分も血まみれだった。混乱するヒムラと、若干混乱するカケルと、疲労困憊で話す余力もないマチで、収集がつかなかった。
その原因と事件の報告、両方を簡素に済ませたマチの言葉は、「犯人に捕まった時に反動で鼻血が出た。犯人はわかった、もう同じような事件は起きない、以上」と、五日分をたったそれだけでまとめて終わった。
慣れたもので、特に誰も異議を唱えるわけでもなく、全員が明るく「そっかー」とでも言い出さんばかりであった。
最早マチが無事であればそれでいい、ヒムラと鏡に至っては顔面にその文字が浮かんでいても、おかしくはない程だった。
数日経った頃、また俵武尊と同じ大学の生徒が行方不明となったとニュースで流れた時、ヒムラはほんの少し察しがついて、マチにあの日の真相を問うた。マチは一言、「身から出た錆」と答えたが、ヒムラにはそれだけで十分、理解が出来た。
きっと、きっとそういうことなのだろうと。
身勝手に生きた、だから、身勝手に、結果が起きた。自分の存在が必ず誰かの力で成り立っていることを考えもしなかった彼等から、出た錆の結果なのだと。
202020327
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