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一瞬の出来事でなにが起きたのか理解しきれないでいた。と言うよりは、当然「まだ来ていない。部屋を出ていないだけなのだろう」と思い、ヒムラは車に乗り込み、そのまま鏡と共にマチと千葉の戻りを待っていた。
けれど車に戻ったのは千葉だけで、呆然とするヒムラと鏡の様子に千葉もまた、なにが起きたのか理解はしていなかった。それでも車の中にマチがおらず、二人の様子がおかしいことを察した千葉がすぐさま乗ったばかりの車を降りて来た道を戻り、部屋を確認しに向かった。その、千葉の行動に弾かれた様子の鏡もドアに手をかけた所でヒムラに振り返り、「僕が降りたら車の鍵をかけて出ないでください」と言い残し、千葉の行動に続きアパートの敷地内を駆けた。
やがて部屋から出て来た千葉が鏡に声をかけたが、鏡が大声で返答しながら、首を振った。この時点でヒムラは彼らの言葉が耳に入らなかった程、恐怖で頭の働きが自覚出来ていなかった。なにが起きて、今どうした状況なのかも、あの瞬間のヒムラにはなにもわからなくなっていた。
マチの専門は、生業は、科学や医学で説明のつかないおかしなものの対処、解決。
つまりそれは、マチ自身もそうしたものに巻き込まれることが、前提としたものである。
ほら、言わんこっちゃない。常に案じていたことが、今日は、起きてしまった。
千葉と鏡が幾ら探しても、アパートの中にも敷地にも、近隣の住宅やその道にも、マチの姿は見当たらなかった。
千葉と鏡が珍しく深刻な面持ちで話し合い、まずはヒムラを自宅へ帰すのが先決としたが、ヒムラはそれを拒んだのを覚えている。そのヒムラに対して「マチ君が家に帰った時に対応をして欲しい」と千葉が言った言葉は、落ち着いた時間に考え直すと常套句であったことにも気が付いたが、その時点でのヒムラに責任感と役割を持たせるには十分な言葉であった。
千葉と鏡に送られて自宅へ戻ったヒムラであるが、そこでもまた、今度はヒムラを一人にしておくわけにも行かないと千葉に促されてカケルに連絡を取った。
状況を説明するにはヒムラはまだ混乱しており、結局は千葉と代わって説明をしてもらう羽目となったが、交代した途端に話しがスムーズに進んでカケルの帰宅も決定の運びとなった。
仕事でこの土地を離れていたカケルだが、運よく今回は海は挟まない場所にいたお陰で深夜までには戻ってくれる。その間、千葉と鏡はマチの捜索にあたるが、後程、カケルが戻って来る前には一度家に寄るからと家を後にした。
千葉と鏡が、ということは、彼らの同僚は動かさないということなのだろうとヒムラが気づけたのは、帰宅してから四時間は経過した頃だった。時刻は十七時を回った。マチが消えてから、六時間は経った。それでも未だに、マチからの連絡はない。試しにマチのスマートフォンに発信してみたが、それはあの駐車場で既に千葉が試していた通り、繋がらずに終わった。
春とは言え、この時間は既に外は暗がり、もう一時間半もすると完全な闇となる。ここまで気が付かなかったが、ヒムラは何故か我に返ったように照明をつけた。瞬時に明るくなる住み慣れた家に、主の姿だけがなかった。
これでは事件と同じだ――
喉が締まるような感覚にヒムラが堪えがたくいると、足元で黒い毛玉がこちらを見上げているのに気が付いた。三角の耳をぴんと張って、長い尻尾をゆらゆらと、ほんの少し寝ぼけ顔のそれははっきりとヒムラに告げた。「だいじょうぶ」と、一言。
※
元々マチが住んでいた家にヒムラが同居を始めて二年になる。マチの家はメゾネット型のマンションで各部屋の仕切りが殆どない。リビングダイニングを過ぎて奥に数段下がった一部屋にマチ、更に奥、階段を挟んでスキップフロアの左にヒムラ、右にはカケルとそれなりに分けてはいるが前途の通りに仕切りと扉がない。ヒムラが増えた時点で各フロアに仕切り代わりのロールスクリーンが設置されたが、殆どいないカケルのフロアは常に開け放ったままである。
その部屋に、今は荷物が置かれていて、部屋の主も珍しく家にいる。スーツ姿の二人とダイニングテーブルを囲み、けれど発せられているのは暖かな団欒の言葉ではない。
カケルがこの家に戻ったのは夜十時頃。千葉と鏡が訪れたのがそのほんの少し前。ほぼ同時に集まった彼等は顔を合わせるなり今日起きたことの説明、報告、相談を始めたが、ヒムラは自分自身がまだ混乱している自覚もあってその会話に参加するのを控えていた。今しがた詳細を知ったカケルより、現場にいた自分の方が余程状況を理解しているはずだが、だからこその混乱が未だ落ち着かずにいる。
なんのことのないはずの千葉の言葉にもカケルの言葉にも、過剰に反応してしまいそうになるのをぐっと堪え、我関せずに居ようと、膝に乗せた黒猫の背中をずっと、撫で続けていた。
「とりあえず、状況も理由もなんとなく理解出来たので、大丈夫です。一応ですが、千葉さんと鏡さんはこの後もマチが出て来るまでは、一応、探してあげてもらえますか?」
「まあ、そうだよねえ。そうなるよねえ?」
話が切りあがる寸前で、カケルと千葉が言い合わせて納得するが、ヒムラと鏡はわけがわからず、彼らを訝しんだ。
「何故、一応なのですか? 検討がついているということですか?」
「だって」
鏡の言葉に千葉がその長い腕を広げるいつもの仕草をしてカケルに同意を求める視線を向けた。と、同時にカケルがヒムラに、その、いつも通りの平和な表情を向け、あの王子たる所以そのままの声音で続けた。
「だって、ヒムラ君。マチ君だよ? 原因がなんであれ、マチ君をどこかに閉じ込めたか連れ去ったかなわけだよね? じゃあ、マチ君はその〝犯人〟をどうにかするまで、自分から出て来ないよ。マチ君だよ?」
「そう、マチ君だよ? ヒムラ君」
口々に強調する言葉に、ヒムラは暫くはなんて薄情な言い方をするものかと感じたが、強調で促されたまま想像すると、まさしくその言葉通りの映像が頭に浮かんだ。
それは鏡も同じだったようで、気が付いてしまった鏡は口を真一文字にしたなんとも言えない表情で千葉を見て、言った。
「死人が出る気がします」
横真一文字の唇から漏れ出すような言葉の繋ぎ方は妙にコミカルな様子ではあったが、本当にそうなってしまいそうな気が、ヒムラにもしていた。
心配と不安ばかりが先走って、対象があのマチであることを忘れていた。そうだった、マチだ。何故そんなことも頭から抜けてしまったのか。
マチだ、マチだぞ。繰り返し浮かび上がるマチの姿は心配にはほど遠く及ばない。する必要もなく、恐らく原因を「いてこまして」出て来なければ気が済むはずもない。
ヒムラは自身から熱が引いていくような感覚をはっきりと感じた。我に返る、まさに、これにつきた。
あの、あのマチを閉じ込める、或いは連れ去るとは、行った者が人間であろうがなんであろうが、自殺願望ではないか。
だが、ということはだ。行った者、或いは現象、物、は、マチのことをなにも知らない、という事実が、同時にはっきりとした。
「まあ、死人が出ちゃった場合は? なんかそれなりにどうにかはなってくれる、でしょう!」
力強く言った千葉の一本締めのようなその仕草で、本日の会議は終了となった。
ヒムラは本当にマチを探すよりも変死体を追った方が近道な気さえもしたが、心配は消えたものの未だ怒りは収まらない。その〝犯人〟について情は湧かないので探してやる義理もない気がしていた。
この日は日付を跨ぐまで家にいてくれた千葉にも鏡にも感謝した。彼らの独特なその空気感が、ヒムラの不安や恐怖、緊張感を上手く融解していってくれたように思う。
彼らが去った後はまさに嵐が過ぎ去った後のようにはなるが、後処理の中和はカケルの存在が行ってくれた。いつも通りだが、こんな時にもマチを信じていつも通りに過ごせるカケルの存在は有難い。
慌てふためき、不安がるばかりの自分と違って、「対マチ」への、恐らく「正しい」対処をとれる彼らのようにこの環境に慣れるまで、まだまだかかりそうだ。
マチが見つかるまでか、本人が自ら帰って来るかするまで、本当の意味で安心出来ることはないが、けれどし過ぎることはない。
不満は本人と顔を合わせてからぶつけることにして、待つしかないこの時間は出来る限り平静に努めよう。それがマチと暮らす身として最善の在るべき姿なのだろうと、ヒムラは改めて実感した。
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