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※ 「っ!?」  驚き、慄いた男が鏡を袋に戻そうと視線を落とした瞬間、波打つ鏡面から人の左腕が伸びた。その手は瞬く暇もない早さで男の喉を掴み上げ、反射的に男の手から鏡が落ち、洗面ボウルの中で落ちたコインのように、回った。  ぎり、ぎりと男の喉を締め上げる腕はやけに青白く、しかし、赤黒い血で濡れ、照っていた。  苦しさと恐怖で、男は声にならない悲鳴をあげるがどれもが短く、最早空気を吸い上げる呼吸音と変わりはなかった。  嫌でも視界に入る目の前の鏡は未だ波打ち、その中央から伸びる白い腕が男の喉を締め上げている。  やがて波打ちが落ち着き、僅かな揺れだけになると、その奥にいる人影を浮かび上がらせた。伸びる腕とは正反対に真っ黒なその人影は、照る血が動く口元を浮かび上がらせるのみだった。 「どこで手に入れた」  低く地を這う声は、直接脳に響いているかのように、現実味がなかった。 「何人やった」  問いかけと共に、喉の締め付けがほんの少しだけ緩んだのが、痛みの差でわかった。けれど男が言葉を発せられるわけもなく、未だ小さく短い悲鳴が続くのみだった。  男には黒い人影にしか見えない、見えないはずだが、この人影が自分に向けている目が焼き付く程にわかった。暗闇に浮かぶその目は瞬きもしない。一寸たりとも逸れることなく、こちらを見ていた。 「直接聞く。もう、時間もない」  直後、男の喉を絞める力が急激に強まり、男の視界は一瞬にして白みがかった。呼吸が詰まり、喉の下は冷たく、喉から上は破裂しそうな程、熱くなった。  死ぬ、死ぬ。  思うものも一つのみ、男がそればかりを頭に浮かべる内、男の顔は鏡面に沈み、波打つ音と共に、体ごと消えていった。黒く揺れる、鏡面の中に。 ※  あの日、いつものメンバーで集まった飲み会に別段変わったことはなかった。いつも通り不快な会話内容に不快な飲み方、不快な行為、いつも通りだった。  その中で変わったことと言えば、それは自分自身が感じる危機感の度合いと言えた。  あいつはその中で最も弱い立場か、なんとなく、最も自分が気に入らない順番で目星をつける。そして最低ラインにいた一人を、総出で〝いじり倒す〟。とてつもなく悪趣味な、やり方で。  あの日の居酒屋で目をつけられたのは殆ど会話もしたこともない、〝誰か〟だった。名前も知らない奴が、フィーリングで集い、増えていた。その〝誰か〟が、今日の犠牲だった。  煽りに煽って、信じられない量の酒を、飲ます。行動はどんどん悪質になって、場所などお構いなしに、〝誰か〟の服を脱がしにかかった。脱げ、脱げと、わけのわからないコールがかかる。  他の客があげる悲鳴と、店員の静止の声。阿保のコール、わけのわからない煽りの言葉。  名前も知らない〝誰か〟は、酔い散らかしてなんのことかもわかっていない。真っ裸になった自分がなにをしているのかも、なにをされているのかも。あいつや、その場にいた何人かが、その様を撮影する。動画か写真かも、わかったものではない。  明日は我が身、明日は我が身。背筋が凍るような、吐き気がした。  店から追い出されるまま、居酒屋を後にした。そのままいつものコース、カラオケに流れて、いつも通り、朝まで騒いだ。  調子の良いあいつは、その流れで自宅に何人かを泊めるのが習慣だった。酒で酔いつぶれて寝てしまうその瞬間まで騒ぎ倒していたいのか、単に一人が嫌だったのかもしれない。本当は自分が一番、危機感を感じていたのだとしたら、本当に頭の悪い奴だと、心底思った。  自分ともう二人がその流れで、あいつの家に泊まった。本当に寝落ちるその瞬間まで騒ぎ倒した。  一時間程、全員が寝静まった。  そうして時間を見計らって一人を起こして、寝たふりをした。起きてしまった一人が自分と、もう一人を起こす。寝たふりを続けて、起きた二人が文句を言いながら、先にこの家を出ていった。  残ったのは自分と、〝こいつ〟のみ。  二人が去った後、暫くしてこいつを起こした。そろそろ起きた方がいい、大学休みすぎだろう、気遣った風の言葉に、何故か気を良くしていた。  こんな時に限って機嫌良く目覚めて、阿呆で、笑えた。どんどん気遣って、言葉をかける。そうして促した、鏡のある、洗面所に。  〝馬鹿〟が洗面所に立って、わけのわからない言葉を発しながら顔を洗っていた。口に入った水で咳き込んで、文句を言っている。自分が喋りながら水を浴びていることにも気が付いていない。  馬鹿が、馬鹿が。背後で鏡を用意して、顔を上げるのを、待った。  そうして顔を上げた馬鹿だけを両方の鏡に映した。洗面台の鏡と、この〝鏡〟とで合わせ鏡になり、その馬鹿だけを挟んで、映した。  その瞬間洗面台の鏡が〝壁側から〟割れて、粉々の破片が床に散らばった。  〝あいつ〟の姿は、そこにはもうない。 「ばーか」  なんと気分の良いことか。  これで人生が守られた。大学生活も、その先の人生も。思い出しては苦しめられることも、社会的に死ぬこともなくなった。  自分の人生を守った。この馬鹿からの害を防いだ、守った。  なんと気分の良いことか。
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