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自宅で食事をしていると、視界が暗転する。
訳も分からず、何が起こったのかも理解できない。
次に意識が戻った時は、俺は救急隊員にストレッチャーで病院の中へと運ばれていく自分を上から眺めていた。
泣け叫ぶ母とせわしく動く病院の看護師と救急隊員。
大丈夫だよ、と母に触ろうとしたら、するりとその手は母を通り抜けてしまう。
何度声をかけても、何度触ろうとしても、誰一人として全くこちらに気づいく様子がない。
なんとなく、これは察してしまう。
俗にいう幽体離脱。
肉体と魂が離れて、俺は今生死の境にいるのだ。
眺めることしかできない俺はただただ、自分の体が『手術室』と書かれた部屋の中へ入っていくのを見守ることしかできなかった。
母は手術室の前に備え付けられている革張りのベンチでただ、ただ泣いてばかりいた。
廊下には母の気持ちのように頼りない蛍光灯の光と、ただ、手で顔を覆った親の泣く声が木霊する。
「ご家族の方ですか?」
母親は顔を上げる。
二十代の若い男性。綺麗に整髪された黒髪に、銀色の眼鏡をかけており、そのおくには優しい印象の瞳がのぞかせる。
清潔感漂う白衣に、名札には「最上(もがみ)」と記されていた。
親は立ち上がり、男性医師に縋り付く。
「先生! 息子は、息子は大丈夫なんですか!」
「お母さん、落ち着いてください。彼は今、一刻を争う状況です。大丈夫。適正な処置をすれば息子さんは助かります」
最上先生はゆっくりと、親の気持ちを考えて冷静に話す。それを聞いておちついたのか、泣くのをやめた。
「本当ですか?」
「はい。必ず私が息子さんを助けて見せます」
おー、なんて頼りになりそうな医者なんだ。これならひょっとしてたすかるかもしれないな。
そんな事を考えていると、女性看護師が血相を変えてこちらに向かって走ってくるのが見える。
「最上先生大変です! 急患がもう一人増えました!」
「なんだって! 空いている先生は?」
「それが、もう手が空いている先生は一人も・・・・・・非番の先生もこちらにくるのに二時間はかかる、と」
「患者の容体は?」
「急性の盲腸炎です。すぐに処置しないと、命の危険が」
「何てことだ、私もすぐに手術に入らないといけないというのに」
なんだか騒がしくなってきたな。
俺は文字通り雲の上の存在なので、そのやりとりを聞いているしかできない。先ほどまで気持ちが落ち着いていた母親も、オロオロしている。
「別の病院に搬送を!」
「無理です、間に合いません」
「だが、こちらも医者の数が足りないんだぞ?」
「それが・・・・・・安楽先生がこちらに来てます」
「なんだって! あの、安楽先生が!」
最上先生が動揺している。
まさか、あの人が・・・なんてつぶやいているが、そんなにすごい先生なんだろうか? テレビなどで言う神の手を持つ先生とか?
また一人新しい女性看護師が慌てた様子でこちらに向かって走ってくる。
「安楽先生が来ました!」
走ってきた女性看護師が、今来た廊下の方角を指さす。
廊下の曲がり角からカツーン、カツーンと靴の音が響く。大きな人の影が壁に映し出され、物陰から姿を見せた。
白髪で頭頂部は抜け落ち、地肌が丸見え。顔は年輪のように深く皺がきざまれ、その目は虚ろ。手は干物のごとく干からび、新品の白衣が際立って見える。
立つのもやっとなのか、杖を突いて歩いていた。
やってきた看護師がその爺さんの元に駆け寄り、完全に介護の状態で最上先生の前まで連れてこられる。
「安楽先生、お久しぶりです。お元気ですか?」
「おおう、元気、元気じゃ」
枝のような右腕を見せながらガッツポーズをとる爺さん。かろうじて元気の間違いだろ。
「安楽先生は現場を離れて早十年経ちますが、本当に執刀されるおつもりですか?」
「何を言っておる、たかだか十年のブランクなぞ無いも同然じゃ」
おい、待て。十年仕事してない人間にそんなこと任せるな。
「わかりました。では安楽先生にはあとからくる患者さんをお願いいたします。私はこの手術室の患者を執刀するので」
ふー、やっと手術するのか。早いところ元に戻りたい。まぁ、後から来る患者には悪いけど、あんなへぼ爺さんに執刀してもらったら、どっちもポックリ逝ってしまいそうだからな。
最上先生が手術室へと入ろうとした時。
「待て。その患者、わしがやる」
このジジイがわけの分からないことを言い出した。
はぁああ! 何言ってるんだこのジジイ! 今はボケる時間じゃないぞ!
「なぜ、この患者さんを?」
「ワシはな・・・・・・早く帰りたいんじゃ」
ふざけろ、クソジジイ。
そんな理由で俺の執刀認められるか! やめろ、絶対やめろ!
クソジジイを叩いたり蹴ったりするが、むなしく空を切るばかり。
「本当になされるおつもりですか? 後から来た患者さんなら私も終わり次第応援に駆け付けることも可能です。しかし、今からとなると」
「なんじゃ、ワシの腕を疑っておるのか」
「安楽先生は非常に高齢。手術の時間が長いと体力的にも不安が」
「バカを言うな! さっきまで家で焼酎二本飲んどったわ」
まさかの飲酒運転コース。
絶対やめろ! ブランクある上に酒飲んで手術とかコイツ完全に俺を殺す気だろ!
母親はもうあまりのショックでベンチで気絶していた。
ジジイに押され気味の最上先生。頼む、お願い、譲らないで。
「しかし・・・・・・」
「ワシを信じろ。お前を育てたワシのうでを」
「安楽先生」
「ワシが嘘を言ったことがあるか、もずく」
「いえ、もがみです」
ダメだコイツ。早く何とかしないと。
「ワシにさせるか、させないかハッキリせい!」
最上先生は苦しむように眉間に皺を寄せていた。
いや、迷うなよ。なんでこんな取り扱い危険物に執刀させようとしてるんだよ! 頼むよ!
神様、お願い! 最上先生に執刀をさせてあげてください!
それは数秒の時間だった。けど、俺にとっては一生のように長い、とても長い時間に感じられた。
やがて、憑き物が落ちたように晴れやかな笑顔の最上先生は
「わかりました、お譲りします」
それが、この世で聞いた最後の言葉になった。
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