花の下

8/13

2人が本棚に入れています
本棚に追加
/43ページ
その刹那、黒い揚羽蝶が僧侶の身体をすり抜けて、池の中央に舞って行くのが見えた。風に池の水面が波立つ。 すり抜けた? いや、黒い衣に止まっていたのかもしれない。 蝶の行方を追ったが、一度目を離したら花の色に飲み込まれて、蝶も僧侶の姿も見失ない、其処には、連なる枝垂れ桜が思い思いに風に揺れいるだけだった。 呆然とその場に座り込んでいると、何処からともなく、また黒い揚羽蝶がすぐ目の前に現れて、ゆっくり舞って行く。 風の中に読経が聞こえているような気がした。 桜の樹の下の僧侶。 黒い揚羽蝶。 池に映る一面の桜色。 残像が眼の裏側に貼り付いていた。 家に戻ると、直ぐに今日写した写真のデータを見直す。 コマ送りしながら愕然とした。 あの、ひときわ大きな桜の樹も、僧侶の姿も、一枚も撮れてはいなかった。 波立つ池と黒い揚羽蝶だけが点のように浮かんでいる。 確かに何枚も撮ったはずなのに、何度見直しても同じことだった。 鼓動が速くなり、僅かに寒気を覚える。 そして、何か口惜しい。 空の水色、池の緑。桜色のグラデーション、若い僧侶の黒い法衣…。 確かに見た筈の絵を思い浮かべ、桜が散る前にもう一度行かなくてはと思った。
/43ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加