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探偵と相棒刑事
急行電車で一五分ほど行ったところにある街、五が丘。
警視庁捜査一課に異動してきたばかりの俺、根津圭一は、自分が所属する倉石班の班長である倉石英一郎さんに連れられて、東京暮らしの長い俺でも知らないこの街に降り立った。
というのも、今日は俺が捜査一課の刑事として初めて仕事を任せられる日でだった。そして、その内容はどうやら「特殊任務」らしいのだ。
刑事の特殊任務と聞くと、ある犯罪組織の幹部を追う張り込みや危ない現場に乗り込むための研修なんかを思い浮かべるだろう。もちろん、俺もそのようなドラマチックな任務を想像した。
そんなワクワクとした緊張を味わいながら、俺は倉石さんに連れられて五が丘駅に到着したのである。
駅前には割と大きめのデパートが建っていて、その前の歩道にはベビーカーを押している人やパンパンのエコバッグを抱えながら慎重に歩く人がいる。犯罪組織や危ない現場というより、安心安全なベッドタウンという言葉の方がこの街には似合う。
「おい、根津。こっちだ」
そう呼びかけられて、俺は倉石さんについていく。デパートも気になるが、そんな所で油を売っている場合ではない。
駅から真っ直ぐ伸びる大通りをしばらく歩いてから、倉石さんは脇道に入った。そこは住宅街である。上京したばかりの田舎者が東京駅に降り立ったときのような足取りの俺に比べて、倉石さんには土地勘があるようだ。
しかし、これだけ似たような建物ばかりが並んでいると、自分がどこを歩いているか分からなくなってしまう。
「おう、ここだ」
倉石さんは突然そう足を止めた。目的地に到着したようである。
俺は自分の現在地を改めて確認した。今まで歩いてきた所とは景色にあまり変化はない。
そのようにあたりを見渡していると、見慣れない看板が目に入った。看板と言ってもそう大きなものではなく、自分の腰ほどの高さである。
そこには『エメラルド探偵事務所』と書かれていた。
もしかして、探偵事務所が目的地か! いいや、間違っているに違いない。
俺は倉石さんを呼び止めようと「あの……」と言いかけたが、そのときにはもう遅かった。倉石さんがドアの横に設置されたインターフォンをすでに押していたのである。
「警視庁の倉石です。うちの新人を連れてきました」
そう呼びかけると、インターフォンの奥から「はーい」と返事が聞こえて、通話が切れた。
俺はドアの真正面に立つ倉石さんの少し後ろに立って、人が出てくるのを待つ。この建物の外観は隣やお向かいさんと似たような感じだが、ドアは古めで重そうな鉄製である。もしかしたら、見た目以上に古い建物なのかもしれない。
そんなことを思いながら待っていると、ドアが開いた。定期的にちゃんと手入れをしているのか、その古くて重そうなドアは不快な音も立てず、スムーズに開いた。
そこから出てきたのは女性だった。いかにもキャリアウーマンという感じのかっこいい女性である。
「あら、倉石さん。どうも」
「どうも。所長は相変わらずお綺麗で」
「いやねえ。お世辞なのは分かってるんだから。立ち話もアレだから、中へどうぞ」
その女性はそう言うと、俺と倉石さんを中に招き入れた。
彼女は外見だけではなく、中身からキャリアウーマンらしい。俺は話し方や仕草からそのような分析をした。
俺たちは彼女に案内されるままに事務所の中に入って、来客用のソファに座った。
女性は「ちょっと待ってて」と給湯室らしき部屋に消えていった。
俺は事務所内を見渡した。所長に案内されたのは応接スペースで、俺たちの正面には本やファイルが詰まった本棚が壁に沿って立っている。また、奥を見ると、ホワイトボードと会議用の椅子と机が置かれている。普段はあそこで仕事をしているのだろう。そして、そのあたりから上に階段が伸びている。もしかすると、上階はここに所属する探偵たちの居住スペースなのかもしれない。
「お待たせ」
俺が一通り部屋を観察したころ、所長が飲み物を持ってきてくれた。どうやら中身はコーヒーのようだ。カップがそれぞれの前に置かれる。
「さて、今日は捜査協力のお願いってわけじゃなさそうね。倉石さんのお顔が穏やかだもの」
そう言いながら所長は俺たちの正面のソファに座る。
「当たりです。今日はうちの新人を連れてきました」
すると、倉石さんは俺の足をコンコンと軽く蹴った。名乗れ、という合図らしい。
「初めまして。警視庁捜査一課倉石班に配属された根津圭一です」
俺はまだ慣れない肩書きを噛まないようにゆっくりと、かつ不自然にならないように気を付けながら自己紹介をした。
「根津さんね。意外とハンサム。よろしく。わたしは緑川綾子、ここの所長よ」
緑川さんは言った。
「倉石さん。彼が新しい担当ってことね」
「はい。よろしくお願いいたします」
倉石さんは頭を下げる。それを横目で確認した俺もそれに続いた。
しかし、「担当」とは何だろう? 頭を下げたものの、俺はその内容を知らなかった。
特殊任務のことは捜査一課に異動が決まったときから聞いていた。決まったときというか、二、三年前から出てきた話で警察の中では結構有名な話だった。
倉石班の新人には「特殊任務」が任せられる。そして、その任務はまるで僧の修行のようで、逃げ出す人もいるらしい……。俺はいろいろな人からこの
「特殊任務」の話を聞かされて、細かい部分はその時々によって異なるが、決まって誰もがそんな都市伝説を話すかのような口調で「特殊任務」について言っていた。
しかし、その詳細な内容は誰も知らなかった。あまりに苦しい任務だから経験者が言うのを拒むのか、任務を完遂してもなお、箝口令が敷かれているのか。そのようなことまで誰も知らないのである。まあ、俺がこの話を聞いたときはすでにこれは都市伝説化していたから、詳細な内容などないと思っていて聞かなかったのだ。
ところが、現実に倉石班の班長に連れられて見知らぬ街の探偵事務所にいる。そして、「担当」だの、「よろしくお願い」だの、知らない間に話が進んでいる。
ここまで内容を知らされないなんて、これは本当に苦しい「特殊任務」なのかもしれない。
俺は何も知らずに頭を下げながら、ひそかにそんな恐怖心と戦っていた。
そんな俺をよそに倉石はさっさと頭を上げて、「あの子は?」と所長に聞いた。
あの子とは、誰だ?
また登場した知らない言葉を聞いて俺も頭を上げた。
「今日は学校なの。でも、もうすぐ帰ってくると思うわ。今日、倉石さんたちがいらっしゃることを伝えてるから寄り道しないで帰ってくると思うけど……」
そう言いながら、所長は壁にかかった時計を見た。時間は一六時を回ったところだ。
あの子は学校に通っているのか。俺は短い会話で得た情報を整理した。
しかし、より分からなくなった。学校に通うということはまだ一〇代だろう。一〇代の子がこの探偵事務所に一体どんな関係があるのか。今抱えている案件の関係者か。それとも社会科見学に来ている学生か。
いいや、倉石さんが知っているのだからずっと何年もここに関係しているのだ。じゃあ、以前受けた案件の関係者で、ここにときどき遊びに来る子なのか。はたまた、もっと単純に所長の子供である可能性もある。所長はだいぶスタイルもよくて肌もつやつやして若々しいが、実年齢はきっと学校に通う子供がいてもおかしくないはずだ。
俺は勝手にそう結論付けて納得した。
そのとき。
突然、事務所のドアが開いた。
「ただいま戻りました」
そこにいたのは黒いブレザーを着こなしているメガネをかけた少女だった。
さっき、倉石さんと所長が行っていた「学校に通うあの子」とは彼女のことか。俺の頭の中の疑問が解けた瞬間だった。
彼女はブレザーの下には赤いカーディガンを着ていて、チェックのプリーツスカートは当然膝上の、今どきの女子高校生という感じだ。ただ、メガネをかけているからなのか、聡明そうだ。
「あら、希杏。おかえりなさい」
所長は言った。そして、それに続くように、倉石が「お久しぶり、希杏ちゃん」
「お久しぶりです」
「あの事件のときはお世話になったね」
「こちらこそ、ありがとうございました。あのときは警視庁の捜査を間近で観察できて、勉強になりました」
「それなら良かったが、うちの捜査員は君に到底及ばないと思うよ」
「いいえ、そんなことありません。やはり、経験値というものが違いますから。それに、捜査員を率いる倉石さんの貫禄とリーダーシップは到底私の追いつけるものではありません」
「ははは! 君は警視庁にいたらすぐに出世するタイプだね」
「いつもそう言って下さるけど、残念ながら私に出世欲はありませんよ」
希杏と呼ばれたその少女はそう言いながら倉石と親しげに笑っている。
俺は、彼女はただ倉石さんと知り合いであるというわけではない、と察した。しかし、この会話からでは二人の関係を表す明確な言葉は見つからなかった。よく大人同士の関係では明確な名前を付けることが出来ない関係というものが存在するが、今回の場合はそれではない。単に関係が不明なのだ。確かに知り合いという名前は当てはまってはいるが、どうやらそれでは不十分なようである。ところが、あの会話は親戚のような親しさの相手とするものではない。どちらかというと、プライベートよりパブリックである。
俺が二人の関係の謎に心の中でうなっていると、希杏ちゃんが、
「あなたが倉石班の新人さん?」
と訊いてきた。
俺はまさか自分に話を振られると思っていなかったから、驚いて、
「えっ……はい」
と、体を震わせて返事をした。
「初めまして。私はエメラルド探偵事務所の竹井希杏。たまに警察の捜査に協力するときに倉石さんにはお世話になってるの。よろしく」
そう言って希杏ちゃんは手を差し出す。
「よろしくお願いします」
突然のため口だったり未だに彼女の正体が分からなかったりして、俺は若干この流れにおいていかれ、定型文を発声するのが精一杯だった。
しかし、それを横で見ていた倉石さんはまるでお見合いで自分の息子がお嫁さん候補と親しくしているところを見た父親のように優しく微笑んでいる。「顔合わせは済んだな。根津、特殊任務だ」
俺はその声で希杏から手を離し、倉石さんの方に向き直った。
「今日からエメラルド探偵事務所の窓口係になってもらう。つまり、この竹井希杏探偵と組むんだ」
「はい……えっ?」
「よろしく頼む」
これが特殊任務だったのか。
それより高校生探偵と組むとはどういうことだ! 聞いていないぞ! まあ、窓口係ならきつそうな仕事はなさそうだと思って、俺は勝手にほっと胸をなでおろした。
そのとき、倉石さんのスマートフォンが鳴った。電話がかかってきたらしい。
倉石さんはすみません、と緑川さんに一言断りを入れると、部屋の隅に行って電話に出た。倉石さんは腰に手を当てて渋い顔でうんうんと頷いている。
倉石さんはすぐに行く、と相手に伝えると電話を切った。
「すみません、所長。私は警視庁に戻ります」
「あら、そうなの」
「根津のこと、よろしくお願いします」
そう言うと、先に失礼します、と倉石さんは事務所を出ていった。
「根津さん、私たちも行こうか」
「え?」
俺が反応したとき、すでに自分の腕は希杏ちゃんに引っ張られていた。
「依頼人は坪倉祐奈さん。恋人の浮気の場面を押さえてほしいという、いわゆる浮気調査の依頼ね。それで今日はその恋人の船戸京介さんがその相手と会うという五が丘ホテルで証拠写真を撮るわ」
希杏ちゃんが俺を連れ出したのは一緒に調査をするためだということは外に出てから分かった。事務所を出発すると、彼女は俺に依頼内容を説明してくれたのである。
「警察の捜査に協力する君でも浮気調査はやるんだね」
頭の混乱がやっと落ち着き、俺は希杏ちゃんに訊いてみた。
「ええ、もちろん。警察に協力するって言っても、そんなのすべての仕事の一割にも満たないわ。エメラルド探偵事務所に来る依頼のほとんどが今回のような浮気調査かペット探しよ」
「そうなんだ」
「うちは警察の下部組織じゃないから。それに報酬も特別たくさんってわけではないし」
「それは申し訳ない……」
「報酬の安さは根津さんのせいじゃないわ。まあ、倉石さんに『もっと上げてあげてください』って遠回しに言ってくれてもいいんだけど」
そう言うと、希杏ちゃんは楽しそうに笑っていた。
他人の不幸を調査していて不謹慎だが、希杏ちゃんは探偵という仕事を楽しんでいると俺は感じた。現役高校生の探偵というからてっきり所長である緑川さんの仕事を手伝わされているものだと思っていたが、実は彼女自身がやりたくてやっていることなのかもしれない。いや、きっとそうだ。まだ、彼女がどのような経緯でこの仕事をやることになったのかは知らないが、少なくとも今は楽しんでいる。それも友達とバカな話をしている“楽しんでいる”とは違う。警察官という仕事をやってきた俺でも感じたことがあるように“仕事を楽しんでいる”のである。彼女は年齢こそ高校生だが、きっと緑川さんと同い年ぐらいの感覚を持ち合わせている。
俺はそう考えて、勝手に彼女を尊敬した。
すると、希杏ちゃんがねえ、と俺に話しかけた。
「根津さんは自分がどうして捜査一課に異動できたかとか話さないのね」
「どういうこと?」
「ほら、所轄署で残した功績とか、警視庁に知り合いを作ったとか」
「どうしてそんなことを君に話すの?」
「知らないけど、今まで窓口係になった人たちはみんな話してたから」
「そうなんだ……」
知らなかった。窓口係の最初の仕事は過去の功績を彼女に話すことだったのか。
「根津さんはどんなことをして捜査一課に異動できたの?」
まるで就活のコツを聞く後輩みたいだな、と思いながら俺は自分の功績について所轄署にいたころを振り返った。
最初から刑事課を希望していた俺は運良く希望通りに配属された。そこでは任された仕事をすべて真面目にこなした。また、ベテラン刑事にくっついて、聞き込みや張り込みのコツなど毎日いろいろなことを吸収していった。やがて、自分にも後輩ができて、彼らに立派な背中を見せるために刑事としてのスキルを変わらず磨いた。しかし――
「俺には目立った功績はないよ。それに警視庁に知り合いもいない」
「そんなわけない。隠さなくていいの。あなたが自慢してた、とか誰にも悪い噂広めないから」
「隠すも何も、本当にないんだよ」
「本当に?」
「ああ。もちろん、所轄署の刑事課にいたときも犯人を逮捕することはあった。でも、どれもちまちましたもので、上層部にアピールできるような大きい手柄じゃない」
「じゃあ、どうして根津さんは捜査一課に異動できたの?」
「それは……俺にも分からないんだ」
これは本当のところだった。所轄署に配属が決まってからは必死に手練れの先輩にくらいつくのが精一杯だった。とんでもない大きな手柄を立てようなんて思う暇はなかった。
そんな中、俺は突然上司に呼ばれて異動を伝えられた。その先はあの花形、警視庁捜査一課である。自分には一生縁のないと思っていた場所だ。ところが、青天の霹靂。俺はある日、あのかっこいい赤いバッジをスーツのジャケットの襟につけることになったのである。
「でも、一つだけ心当たりがあるんだ」
「どんな?」
「俺の生真面目すぎるところだ」
「それ、自慢?」
「まさか。欠点だよ。俺の周りには出世欲があって何とか上手くできるだけ苦労をしないでキャリアを積む奴がたくさんいた。上司の言うことをさっと聞いて適当に熟して、自分が出世できるように根回しもしておく。俺にはそんな器用なことはできないんだ」
俺がそう言うと、希杏ちゃんはそうねえ、と頷いた。
「根津さんって学校の掃除の時間に先生が教室からいなくなっても、きちんと掃除をするタイプだったでしょ?」
「え?」
「ほら、学校の掃除の時間ってちゃんとやる人とやらない人とはっきりとした差が出るじゃない。根津さんの言うところの器用な人は先生が教室から出ていった瞬間から掃除道具を投げ出して教室の真ん中でぺちゃくちゃおしゃべりしだすでしょ。でも、ちゃんとやる人は先生が見えなくなっても黙々と掃除するの」
「まあ、確かに」
彼女の言う通り、自分は黙々と掃除を熟す生徒だったな、と俺は思い出した。また、今思い出すと教室の真ん中でまるでおばさんの井戸端会議のようにおしゃべりをしている人もいた気がする。
そうやって考えると、やっぱり俺は生真面目だ。
現役高校生の彼女も同じ思いを持っているのかもしれないな、と俺は親近感を持った。
すると、そのとき。希杏ちゃんのスマートフォンが鳴った。
「はい、エメラルド……」
名乗ろうとしたところで彼女の声が途切れた。電話の相手は、俺にも聞こえてくるような大きな声を出して彼女を圧倒している。
「はい……承知しました。今すぐに参ります」
そう言って彼女は電話を切った。
「根津さん。五が丘ホテルに祐奈さんがいるみたい。急ぐわよ」
そう言うと、希杏ちゃんは俺の腕を引っ張って走り出した。
五が丘ホテルは五が丘駅の近くにあるホテルだ。俺たちが到着したエントランスからはガーデンチャペルのアーチが少し見え、結婚式場もあるほど大きなホテルであることがわかる。
しかし、それはあとで気づいたことで、今はそこで起きていたことに飛び込むことにいっぱいいっぱいだった。なぜなら、そこでは男女二人のカップルと一人の女が何やら言い合いをしていたからだ。
「あんたが京介の浮気相手ね!」
「ちょっと落ち着けよ、祐奈!」
「私はずっと京介に尽くしてきたんだから! あんたなんか!」
そう祐奈が京介とカップルになっている女に掴みかかろうとしたとき、希杏ちゃんが走り出し仲裁に入った。
「祐奈さん!」
希杏ちゃんが祐奈を引き離した。
「何よ!」
勢いよく希杏ちゃんに引っ張られた彼女からはブレスレットや指輪などのアクセサリーがぶつかるジャラジャラという音がした。どれもとても高価そうだ。
二、三歩後ろにいた俺は彼女の全身を見てみたが、全身ブランドものでコーディネートされていた。それも、アパレル系にあまり詳しくない俺でも名前を知っているような超有名ブランドである。これを全部購入したのか。
「落ち着いて下さい! 話しましょう!」
希杏ちゃんがそう言い、その場にいた俺たち五人はホテルの中庭に移動した。着席したのはピクニックで使うようなガーデンテーブルである。しかし、今はそれにそぐわない明るい雰囲気ではない。
重々しい空気の中、最初に口を開いたのは祐奈に掴みかかられていた女だった。
「あの、あなたは?」
希杏ちゃんを不思議そうに見てそう訊いた。
「私は祐奈さんから浮気調査の依頼を受けた探偵です。エメラルド探偵事務所の竹井希杏と申します」
だいぶ違和感のある状況だが、希杏ちゃんは冷静に制服のポケットから名刺を出す。……っていうか、あったのか名刺! 俺は少し嫉妬を覚えた。
「はあ……」
女は納得しきらない様子でその名刺を受け取った。
「あなたは野崎美玖さんですね。勝手に調査をしていたことをお詫びします」
希杏ちゃんは未だ状況が把握できていない美玖に調子を合わせることなく、頭を下げた。
「また、祐奈さん。浮気現場を写真に撮ることができず、すみません」
希杏ちゃんは祐奈の方に体の向きを変え、また頭を下げた。
「でも……」
そう言いながら頭を上げた希杏ちゃんはもう申し訳なさそうな顔はしていなかった。
「私が本当にそう言うべきなのは、美玖さんに、かもしれません」
「え?」
そう怪訝な顔をするのはもちろん祐奈だ。
「祐奈さん、その服、とてもいい匂いがしますね」
希杏ちゃんは突然に話題を変えた。
「香水ですか?」
「いいえ、私はあまり香水が好きではないの。きっと、柔軟剤ね」
「そうですか。――ちなみに、美玖さんと京介さんもいい匂いがします。お二人、香水は?」
「いいえ、僕は……」
「私もつけません」
「そうですか。じゃあ、この匂いは祐奈さん同様、柔軟剤ですね」
「ちょっと。あなた、何が言いたいの!」
祐奈が鋭い目で希杏ちゃんをにらみつける。しかし、彼女の方は余裕そうな表情だ。
「実は祐奈さんと京介さんで匂いが違うんです」
「それはそうよ。恋人だからって同じ柔軟剤を使っているとは限らないわ」
「その通りです。いくら親密でもそこまで一緒ということは考えにくいです。しかし……、京介さんと美玖さんは同じ匂いがしました」
「え?」
これもまた祐奈だ。そして、京介と美玖の匂いを嗅ぐ。
「そ、そんなの偶然よ! 同じ商品を使っている可能性もあるわ」
「そうですけど、私はお二人が同じ家に住んでいると推測します」
希杏ちゃんは至って冷静にそう言った。
「言い換えれば、浮気をされていたのは祐奈さんではなく、美玖さんの方だったんです」
すると、祐奈がバンッとテーブルに手を叩きつけながら立ち上がった。
「そんなの証拠はないわ!」
「ええ、物証はありません。しかし、そのあなたの動揺は結構な証拠だと思いますよ」
そう彼女はより祐奈を追い詰める。そして、彼女はそんなに耐えられる人物
ではなかった。
「もう、分かったわよ! 私がいなくなればいいんでしょ、いなくなれば!」
祐奈はぷりぷりして、そのまま言葉のとおりいなくなってしまった。そして、嵐のような彼女に追い詰めた希杏ちゃんを含むその場にいた全員があっけにとられてしまったのである。
希杏ちゃんと俺が帰路に就いたころには、日はもう傾き、住宅街の家々の間からちょうど差し込むオレンジ色の光がとてもまぶしかった。
「あーあ。探偵料、取り損ねちゃった」
あのあと、結局祐奈はあの場所に戻らず、彼女に料金を請求することができなかったのである。
「京介さんが代わりに払うって言ってくれていたじゃないか」
「依頼人ではない人からは受け取れない」
「でも、特殊なケースだろ」
「うちは秘密主義を徹底しているから、依頼人以外から報酬は受け取らないの。まあ、それでも所長はご丁寧に始末書を書かせるけど」
「そんなものを書くのか」
「嘘。たった二人の事務所で書くわけないじゃない」
そう言う彼女はとても楽しそうだった。
「ねえ、根津さん」
希杏ちゃんが唐突にそう呼び掛ける。
「根津さんは生真面目すぎるところが自分の欠点だって言ってたでしょ」
「うん、言った」
「私は、それは違う気がすると思う」
「え?」
「さっきの祐奈さんだって私たちに嘘をついていたけど、最後はバレて京介さんと別れるという最悪の展開になってしまった。そして、何も嘘なんかなかった美玖さんは、浮気はされていたけど最後にその相手はどこかに行ってしまった」
「何が言いたいの?」
「不器用な方が良いってこと。器用な人よりゴールまで時間がかかるかもしれないけど、最後にはきっと良い結果が待ってる」
彼女は器用そうに見えて実はそうではないのだ、と俺は思った。顔は当然変わっていないのに、最初に会った数時間前とずいぶん印象が変わった。
希杏ちゃんと俺は住宅街を突き進み、探偵事務所への道と五が丘駅への道に分かれる角に着いた。
「根津さん、今日はありがとう。こんなに楽しかったのは初めて」
「こちらこそ。勉強になった」
「そう? それは良かった。――あのさ、そんな根津さんに一つお願いがあるんだけど」
「お願い?」
「私のこと、『探偵』って呼んでくれない?」
「いいけど……名前じゃなくていいんだ」
「うん、ずっと夢だったの。相棒の刑事さんに『探偵』って呼ばれるの」
「変な夢だな」
「いいでしょ。叶えてよ」
「分かった。――探偵」
すると、希杏ちゃん、改め探偵は恥ずかしそうに笑った。
「実際に言われると照れるわね」
「じゃあ、止めるか?」
「いいえ、続けて」
夕日に当たる彼女は言った通り、本当に楽しそうであった。
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