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探偵と小説家
都心から急行電車で一五分ほど行ったところにある街、五が丘。この街は実にさまざま顔を持っている。
私鉄五が丘鉄道の五が丘駅北口前には大きなバスターミナルがある。そして、その先の商店街を抜けると、自然豊かな山につながっている。反対に、駅の南口に降りてその先をずっと行くと、海に出るらしい。まるで神奈川県の鎌倉みたいだ。
俺は土の上り坂を歩きながらそんなことを考えていた。
しかし、こんなところに行くなら俺に連絡をくれた時点で山に行く、の一言ぐらいほしかった。てっきり調査に出かけるものだと思って、普段通りスーツで来てしまったではないか。
俺は疲れて足許を見るたびにそんなことを思っていた。伸縮性のない革靴はつま先が当たって痛い。
今日山に来たのはもちろん理由がある。エメラルド探偵事務所の所長である緑川さんの知り合いに会いに行くのだという。そこに行って具体的にどんなことをするのかは分からないが、きっと人脈を維持するためにときどき挨拶に伺うのだろう。
ところが、前を歩く探偵こと、竹井希杏は涼しい感じでひょいひょいとリズミカルに登っている。まだ大学生という若さなのか、この街に住んでいるという慣れなのか。どちらか判別がつかないが、俺を待ってくれる様子がないことは確かだ。
彼女は今年入学したばかりの大学生で、五が丘のエメラルド探偵事務所にいる探偵だ。俺は捜査一課に配属されたその日に探偵の世話役に任命され、それ以来彼女とコンビを組んでいる。最近では今日みたいに捜査以外でも呼び出されることもしばしばある。
ふと前を見ると、若干探偵と距離が離れていた。俺は引き続き彼女において行かれないように、歩くスピードを緩めないように気を付ける。
「駅前の和菓子屋さんが開いていて本当に良かったわ」
探偵はつま先の痛い俺に構わず、そんな話をする。
探偵は片手に和菓子屋の袋を持っている。今日行く先への手土産だ。彼女の話によれば、手土産を持っていくときはいつも決まった洋菓子屋のケーキやクッキーを買うらしい。
しかし、いざ今日行ってみると、店のシャッターは閉まっていて休業日という札がかかっていたのである。
「いつも行く店なら、休業日ぐらい調べておけよ」
「臨時休業だったのよ。それに最近、あまり行っていないから、そういう情報を聞けなかった」
「そんなの言い訳だ。開いていない可能性も考えてだな……」
「うるさいな。結果的に美味しそうな羊羹が買えたんだからいいじゃない!」
そう言うと、探偵は緩い坂道を駆けだした。
「おい!」
俺も慌てて追いかける。
こんな初めて来た場所で彼女の姿を見失ったら大変だぞ。
俺はつま先の痛さをこらえながら、必死に彼女を追った。
坂を上り切ると、そこは平地になっていた。俺は膝に両手をつき、肩で息をする。
「もう疲れちゃったの?」
探偵はそう言いながら、俺の前で仁王立ちして腕を組んだ。多少肩が動いているものの、さほど息は切れていないみたいだ。やはり、若さと慣れは甘く見てはいけない。
探偵はくるりと体の向きを変え、俺に背中を見せてすたすたと前に歩いて行った。
息がだいぶ整った俺は上体を起こし、到着した場所を眺める。
ここは山の中腹の開けた場所で、目の前には大きな家が建っている。それも二階建て。車庫があってもおかしくない規模だが、ここまで車で来られそうにないから、なくて当然だ。
探偵はそんな建物の威圧に臆することなく、ドアの前に立ってインターフォンを押す。古めの鈴の音がした。
俺は小走りで探偵の横に並ぶ。
『はい』
音が鳴るとすぐにインターフォンから声がした。若い男の声だ。
『エメラルド探偵事務所の竹井希杏です』
『ああ、希杏ちゃんね。今開けるね』
そしてすぐにドアが開いた。そこから出てきたのは声の通り若い男だった。背の高さは俺と同じぐらいだが、体の線は細い。彼はインドア派なのかもしれない。
彼は目の前の知らない人を警戒している。
「こんにちは」
探偵は彼に丁寧に挨拶をする。
「こんにちは、希杏ちゃん」
男はそう返す。
俺も何か言わなければ。でも突然「初めまして」と言い出すのはガツガツしていると思われそうだ。
そんなことを思っていると、探偵はそれを察してくれて、
「こちらは根津圭一さん。よくお仕事でお世話になってるんです」
と、紹介してくれた。俺は「初めまして」と頭を下げた。
すると、男は警戒心を解いてくれたようで笑顔で「そうだったんですね。初めまして。僕は青砥湊と言います」と自己紹介してくれた。
「こんなところで立ち話も寒いですから、上がってください」
そして、探偵と俺は青砥さんの案内でリビングに通された。
入って左側にはカウンターキッチンとダイニング、右側にはテレビとソファが置かれている。正面の庭へと続く窓は大きく、吹き抜けの天井まで続いている。俺の安月給では到底買えないような立派な家だ。
「青砥さん。駅前の和菓子屋さんの羊羹です」
探偵は廊下を抜けたところで、持ってきた手土産を渡す。
「ありがとう」
青砥さんは紙袋を受け取って中身を覗いた。「珍しいね、和菓子は」
「実は、いつもお菓子を買う洋菓子屋さんが休業日だったんです」
「そうだったんだね。実は和菓子の中だったら羊羹が一番好きなんだよ」
「それなら良かったです」
探偵はちらりと俺を見て笑う。「良かった」と伝えたいみたいだ。俺も頷いて反応した。
「そうだ、希杏ちゃん。書斎を見るかい? 最近新しい本も買ったんだ」
「ぜひ!」
「鍵は開けておいたから、自由にどうぞ」
「ありがとうございます!」
そう言うと、探偵は立ち上がって廊下へと消えていった。
一方、俺はどうしていいか困っている。
すると、キッチンに入っていく青砥さんが俺の様子に気付いてくれた。
「根津さん、そちらにお座りください」
青砥さんはそう言いながら、ダイニングチェアを勧めた。
俺は「はい」と勧められたとおり、その椅子に座った。クッション部分が柔らかく、日々激務をこなしている俺の腰に優しい。
「根津さん、コーヒーにミルクとお砂糖は入れますか」
カウンターの向こう側から青砥さんが尋ねる。
俺はその両方をリクエストした。
それからしばらく待つと、青砥さんがマグカップを二つ持って台所から出て、俺の前に座った。
ちらっと見えた青砥さんのマグカップの中身はブラックコーヒーだった。
「僕は以前、エメラルド探偵事務所で探偵について取材させていただいたんです」
青砥さんは突然話を始めた。
「え?」
「希杏ちゃんとの関係です。根津さんに話していなかったなと思いまして」
「ああ、確かに聞いていませんでした」
彼には独特のリズムがあるみたいだ。不思議な人である。
しかし、取材となると、依頼人でも情報屋でもなさそうだ。
「ご職業は?」
俺は訊いた。
「小説家です」
意外な答えだった。しかし、芸術家か。それならあの独特のリズムも理解できる。
「すごいですね」
「いいえ、そんなことは。もっとすごい方はたくさんいらっしゃいますから」
そして意外にも謙虚だ。
そういえば、この部屋に本はない。ダイニングテーブルのわきにあるマガジ
ンラックには料理本も見えるけど、付箋や折れているページがあるのを見ると、飾り物ではなさそうだ。
小説家なら大きな広間にでかでかと立派な本棚を置いて、そこにまるで勲章のように自分の本を飾っていそうなものだ。実際、捜査で自称小説家の家に入ったときには、巨大な本棚に堂々と自身の作品が置かれ、賞を獲ったときの新聞の切り抜きまで飾ってあった。
「ところで、根津さんは警視庁捜査一課の刑事さんなんですよね」
軽く部屋を眺めていると、青砥さんが訊いてきた。
「はい、そうです」
「今日はお仕事でこちらに?」
「いいえ、今日は非番なんです」
「それなのにスーツを?」
「これは……探偵に呼ばれたからてっきり調査だと思って……」
「でも蓋を開けてみればこんな山に連れてこられた、というわけですね」
「はい」
「根津さんは真面目な方なんですね」
青砥さんはそう言って、優しく笑った。「予想通りでした」
「予想通り?」
「ええ。いつも希杏ちゃんからあなたのことをよく聞いているんです。捜査一課の中ではまだ若手、ときどき捜査会議に寝坊して班長に叱られる、捜査一課に配属されてからは色恋から縁遠い、好きなケーキはモンブラン、目覚まし時計は十個近くセットしている、そして、刑事のくせに推理が不出来」
あいつ、そんなことまでベラベラと。モンブランが好きとかは別に構わないけど、推理が不出来は余計だろう。まるで俺が劣った警察官みたいじゃないか。まあ、だからと言って優秀とも言えないが。
正面を見ると、青砥さんはやはり優しく笑っていた。とりあえず、俺を馬鹿にしている感じではない。
「希杏ちゃんはあなたに心を開いているように見えます」
青砥さんは手許のマグカップを傾けながらそう言った。
「青砥さんには心を開いていないんですか?」
何となくそんな気がして、俺は少し飛ばしたことを訊いてしまった。
しかし、青砥さんは表情を変えずに返答した。
「ええ、きっと。その証拠に彼女は僕に敬語を使っています。僕とあなたは同じぐらいの年なのに」
俺ははっとした。確かに青砥さんの言う通りだ。それもこれは青砥さんに限った話ではない。探偵は誰に対しても敬語を使うのだ。依頼人にはもちろん、普段からお世話になっている情報屋にも、物心ついたときから一緒にいるはずのエメラルド探偵事務所の所長にさえも敬語で話す。
探偵が敬語を使わないのは、俺にだけだ。
何だか青砥さんに恥をかかせてしまったと思って恐る恐る正面を見た。
しかし、彼は変わらず優しい顔をしていた。
「僕は良かった、と思ってるんです。今までの希杏ちゃんは孤独だったから」
さっぱり意味が分からない。
青砥さんはそんな俺の様子に気付いたのかどうか分からないが、話を続ける。
「彼女はたくさんの人と関わりがあります。依頼人ばかりではなく情報屋もいるでしょうし、僕みたいな取材もあるかもしれません。でも、希杏ちゃんはその誰にも心を開けていなかったように見えました。彼女は秘密を多く持ったり人を疑ったりする探偵ですからね。そう簡単にペラペラといろいろなことを話せないんだと思います」
皮肉だな、と俺は思った。
探偵は探偵の仕事が好きだけど、それにのめり込めばのめり込むほど、自分はどんどん孤独になっていってしまうのだ。でも、探偵は鉄壁だ。骨の髄まで探偵だ。孤独から救い出そうとしても、彼女の方に隙がない。だから青砥さんのように遠くから憐れむことしかできないのだ。
「でも、彼女には秘密を抱えなくてもいいような関係の人がほしかったとも思うんです。すべてを開放できる相手が」
「それが俺だったんでしょうか」
「はい、きっとそうです」
「じゃあ、何で俺だったんでしょうか。俺は至って平凡ですよ」
「そうでしょうか。刑事という職業の類似性もあると思いますが、一番の理由は根津さんの人となりだと思うんです」
「人となり?」
また意外な言葉である。彼は思いもしないことをよく言う人だ。
「ええ。希杏ちゃんと関わる多くの人は、彼女が若いのにとてもしっかり者で優秀な人だから、変に距離を取ってしまうんです。そしてたまにそれが行き過ぎて、彼女に反発する人もいます」
反発という言葉に、俺は探偵と出会ったときに聞いた、これまで組んできた刑事たちのことを思い出した。確か彼らも自分よりも遥かに優秀な彼女に反発してコンビをすぐに解消してしまった。
「でも、根津さんは違いました。変に距離を取ることも、反発することもしなかったんです」
「俺はそんなこと意識していませんけど……」
「ええ、そうです。あなたは希杏ちゃんと“普通”に接しています。だから、今まで変な距離感ばかりを経験してきた彼女にとって、その“普通”がすべてを開放できるポイントだったんです」
何か、俺、褒められてる?
真面目とか予想通りとか平凡とか言われたからこれまであまり褒められている気がしなかったが、俺は青砥さんにとって結構な高評価を貰っていることに気づいた。
「だから根津さん、希杏ちゃんのずっと近くにいられるのはあなただけなんです。僕は他の多くの人と同じで“普通”にはできなかったから」
すると、青砥さんはテーブルに置いていた両手を膝の上に置き、姿勢を正した。
俺もつられて背筋を伸ばす。
「これからもよろしくお願いします」
そう言って青砥さんはテーブルの板に額をくっつける勢いで頭を下げた。まるで娘を嫁にやる父親みたいだった。
「何が『お願いします』なんですか?」
不意に声がしてそちらを向くと、いくつかの本を抱えた探偵が壁際に立っていた。
「ああ、えっと、それはな……」
こんな「孤独な探偵を俺が救った」なんて話を聞かれたらかわいそうだし、俺も恥ずかしい。
俺が返答にまごついていると、いつの間にか顔を上げていた青砥さんが涼しい顔で、「新作の話だよ」と答えてくれた。
「新作ですか」
「もうすぐ出版されるから、ぜひ読んでくださいって」
「そうだったんですね。では私もぜひ読ませていただきます」
「ありがとう」
ふー、助かった。
俺は気づいているかどうか分からないが、青砥さんに目礼しておく。
「ところで書斎には気に入った本はあったかい?」
「はい、三冊ほど。また次に来たとき返します」
探偵は青砥さんに持ってきた本を見せた。確かここへ来たとき「新しい本がある」と青砥さんが言っていたけど、探偵が持っている本はどれも読み込まれているもので、新しいものはないみたいだ。
「分かった。でも、急がなくていいから」
「ありがとうございます」
探偵は本をトートバッグに入れた。どうやら俺の知らないうちに持ってきていたらしい。
「じゃあ、行こうか、根津さん」
「ああ」
俺たちは帰り支度を済ませると、玄関に向かった。
青砥さんは玄関まで見送りに来てくれて、「次はもっと楽しい話をしましょう」と俺に言ってくれた。確かに次はお菓子や本の話をしたい。
「ねえ、根津さん。さっき、本当に青砥さんの新作の話をしてたの?」
帰りの山道で探偵がそう話しかけてきた。
「そうだよ」
「じゃあ、どんな話だって?」
「さあ。そこまでは教えてくれなかった」
「そっか、残念。発売されたら一緒に買いに行こうね。青砥さんの本をとても推してる本屋さん知っているから」
そう言う彼女はとてもオープンな気がした。それは青砥さんが「すべてを開放できる」と言われたからかもしれない。
でも、それでも良い。実力足らずの俺が彼女の役に立てるなら。
「そうだな。そのときは案内頼むぜ」
発売はいつだろう。調べて予定を空けておこう。
俺たちは夕焼けの山道を下る。街には光が灯り始めている。俺たちはもう孤独ではない彼女の街に下りていくのだった。
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