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探偵とタブー
都心から急行電車で一五分ほど行ったところにある街、五が丘。駅前の大きめのデパートにベビーカーを押している人や、パンパンのエコバッグを抱えながら慎重に歩く人がいる、いわゆるベッドタウンだ。
だからか、小さいけれど美味しいと評判のお店もたくさんある。例えば、洋菓子店。俺はこのとき、洋菓子を売っている店にしてはいかつい名前のパティスリーがあるということを、初めて知った。
年が明けて数日。俺がエメラルド探偵事務所に着いたとき、探偵こと、竹井希杏が所長である緑川綾子さんからなにやら頼まれごとをされていた。緑川さんは自分のデスクの椅子に腰かけ、探偵はその机の正面に立っている形である。
「パティスリーかわらにシュークリームを取りに行ってくれる? もうお金は払ってるから」
緑川さんはそう言って探偵にぺらりと紙を渡した。注文書のようである。
それにしても、なかなか変わったお遣いだ。買い忘れた牛乳や小麦粉なら分かるが、シュークリームである。
しかし、頼まれた探偵は平然と「分かりました」と答えていた。
たまらず俺は会話の輪に入った。
「シュークリーム、ですか?」
「あら、根津さん」
緑川さんは自分のデスクに肘をついている。
「お遣いでシュークリームは珍しいと思ったの?」
俺はぎくりとした。緑川さんは一流の探偵である。今は所長として端艇らしい調査の仕事はしていないが、洞察力は流石に鋭い。
「はい。お好きなんですか?」
「ええ。特にかわらのシュークリームは別格。一回食べたら、これ以外は食べられない」
「そんなにですか?」
「そんなによ。あ、そうだ。せっかくだし、希杏と一緒に行ってきたら?」
「え?」
「いいわよね、希杏?」
緑川さんは応接間で出掛ける支度をしている探偵の方を向いて訊いた。俺もつられてそちらに向いた。
「はい。根津さんがいた方が助かるので」
言いながら探偵は鞄に手を突っ込んだ。
「じゃあ決まりね。頼んだわよ、根津さん」
そう緑川さんに言われて、俺はそちらに向き直った。
「くれぐれもシュークリームの箱、落とさないように」
「そんなに注意力散漫ではありませんよ」
「これは失敬」
そう言うと、緑川さんはウフフと笑って、パソコンの画面に視線を移した。
一方の俺はさてと、と再度探偵の方を向いた。じゃあ行くぞ、と声をかけようとしたが、探偵は鞄の中に手を突っ込んだままゴソゴソと中を漁っていた。顔はしかめっ面である。
しばらくゴソゴソしたあとで、探偵も俺の方を向いた。
「ごめん、根津さん。スマホを自分の部屋に置いてきちゃったみたい。取ってくるわね」
探偵はそう言うと、事務所の奥にある階段を駆け上がっていった。俺は行ったことがないが、この事務所の二階は緑川さんと探偵の生活スペースになっているらしい。
「あ、そうだ、根津さん」
俺が階段を見上げていると、緑川さんが突然呼んだ。俺は彼女の方を向いた。
「何ですか?」
「言い忘れてたことがあって。今の希杏にはタブーがあるの」
「タブー、ですか」
「そうよ。危うく地雷、踏まないようにね」
シュークリームの箱を落とさない俺でも、人の内面の地雷を上手く回避できるほどの注意力はない。
「それって一体……」
「根津さん!」
一番大事なところを緑川さんに訊こうとしたとき、タイミング悪く探偵が自分の部屋から戻ってきてしまった。
そして、探偵は鞄に取ってきたスマートフォンを鞄のポケットに入れると、行くわよ、と俺の腕を引っ張った。
探偵のタブーってどんなことだろう?
俺はパティスリーかわらに行く道でそんなことをぐるぐると考えていた。そんなこと、横を歩く探偵に訊けば一発で判明するのだが、内容は何たってタブーだ。「今の君には聞かれたくないことがあるんだろ」なんて訊いて、地雷のある場所を正確に踏むわけにいかない。さて、直接聞かず、どうやって彼女の地雷の場所を見つけようか。
いや、俺には心当たりがあるな。
俺はふと思い出した。それはこの間のクリスマスに事件捜査をしたとき、知ったことだ。
探偵には両親がいないということ。
あのとき以降、俺はこの話題は口にしていない。それはデリケートな部分だと思ったからだ。俺だってそれなりのデリカシーは持ち合わせている。
よし、地雷の場所は分かったぞ。あとは踏まないだけだ。
そんなことを考えていると、探偵が口を開いた。
「本当に根津さんが来てくれて助かるわ」
「それは良かったけど。それにしても、シュークリームを受け取りに行くなんて、君もパシリみたいなことをやるんだな」
「もう慣れたわ。毎月のことだし」
「毎月!」
俺は目を丸くした。しかし、探偵は平然と答えた。
「そうよ。定期購入してるの」
「洋菓子屋にもそんな制度があるのか」
「お得意様用の裏サービスね。まあ、うちはかわらのパティシエが所長に恩があるってことで特別扱いを受けてるの。聞いた話によると、かわらの店舗も所長の紹介で見つけたらしい」
「へえ、すごいな、緑川さんは」
「本当。わたしも探偵を続けていれば、それだけのコネクションを作れるかしら」
そんなことを言っているうちに、探偵は立ち止まった。見上げると、そこにはポップな字体で「パティスリーかわら」と大きく書かれた看板があった。
探偵はここよ、と指さすと、自動ドアを通り抜けていった。俺も後に続く。
「いらっしゃいませー!」
店内に入ると、居酒屋かと思うほど威勢のいい挨拶で迎えられた。その声の元であるショーケースの方を見ると、そこには金髪ツンツン頭の若い男性店員が無邪気な笑顔で立っていた。この店のユニフォームであろう白いシャツとソムリエエプロンは似合っていない。頭にはちまきをして、尻ポケットに伝票のバインダーを刺していれば似合うのになあ、と思った。
「こんにちは、角田さん」
探偵は大声に怯えることもなく、ショーケースの前に立った。すると、角田と呼ばれた彼は振り向いた。
「お嬢! いらっしゃいませ」
そう言うと、彼の視線は俺に向けられた。それにすぐに気付いた探偵は紹介してくれた。
「こちら、探偵の仕事でお世話になってる警視庁の根津圭一さん」
すると、角田さんはそうでしたか、と表情を和らげた。
「この度はご来店ありがとうございます」
「どうも」
一通り挨拶を終えると、探偵はコイントレーの上に注文書を置いた。
「いつものですね」
注文書を取って見た角田さんはそう言うと、首を後ろにひねって厨房を見た。俺も彼越しに奥を見てみると、そこではパティシエが忙しそうにバタバタと働いていた。
「ちょっと、待ってくださいね。今日、注文が重なって、バタバタしていて。でも、もうちょっとで落ち着くと思うんで、良かったら座って待っていてください」
角田さんはそう手でショーケースの脇にあるイートインスペースを勧めた。
「分かりました」
探偵がそう返事をすると、俺たちはそのまま、勧められたところに座った。俺と探偵は向かい合う形である。
探偵は席に着くなり、テーブルの脇に立ててあったメニューを取って、テーブルに広げた。
「せっかくだから、食べようかしら。根津さんもここのケーキ、食べてみたいでしょ?」
探偵は俺を見た。
「ああ、そうだな」
俺がそう答えると、探偵はテーブルの上でメニューをくるりと回転させ、俺の方に差し出した。
「君はいいのか?」
「わたしはもういつもので決まってるから」
そう探偵はメニューの真ん中のロールケーキを指した。
一方の俺はメニューを眺めた。メニューにはケーキの名前や値段とともに美味しそうなケーキの写真が載っている。今日のお目当てのシュークリームや小さな瓶に入ったプリンなんかも含めて、十種類以上。結構バラエティー豊富だ。
しかし、俺はケーキ屋で迷うことは滅多にない。なぜならば、もう頼むものが決まっているからだ。
「俺、モンブラン」
俺がそう言うと、探偵は目を見開いた。
「お目が高いわね」
「え?」
「モンブランはこの店の看板商品で、来たお客さんはみんな買っていくの」
そう言われて、俺は店内をぐるりと見渡した。入ってきたときは気付かなかったが、窓ガラスにもショーケース脇の壁にもでかでかと貼られている。こんなにも派手にアピールされているんだ。きっと美味いに決まっている。
俺はメニューを閉じ、テーブルの脇に挿すと、「すみませーん」とショーケースの奥に声をかけた。
すると、すぐに角田さんがやってきた。手許のメモの支度を終えるのを少し待つと、俺は注文を伝えた。
「ロールケーキとモンブランで」
角田さんははいよ、とさらさら手許のメモに書いた。
「かしこまりました。少々お待ちください」
そうやはり威勢よく言うと、角田さんはさっとショーケースの奥に入っていった。
「ねえ、根津さん」
角田さんの気配がなくなると、探偵は話を切り出した。
「ん?」
「わたしの両親のこと、所長に訊いたの?」
突然の質問だった。
「訊いてないけど。どうして?」
俺は顔をしかめた。
「だって、クリスマスのときホテル佐々木で言ってから、何も訊いてこないから」
それはタブーだからだ、とうっかり言いそうになったが、俺は地雷の場所を知っていて踏む馬鹿ではない。
しかし、探偵は引き出そうとしてくる。
「気になってるんでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
俺は口ごもった。
「訊きにくいのは分かってるわ。でもね、気になるなあ、うじうじ、ってされたくないの。そもそもこの話はわたしにとってタブーじゃないしね」
そう探偵は何ともない顔で笑った。
タブーじゃないだって! 何てことを言うんだ。じゃあ、俺は何のために気になるなあ、うじうじ、ってしていたんだ!
まあ、そんなことを彼女に言っても仕方ない。そう思って、俺も平気な顔をした。
「それに、根津さんには知っていてもらいたい。わたし、根津さんとの間に壁は作りたくないの」
探偵は真っ直ぐ俺を見た。
そんな彼女を見て、訊きづらいとかタブーとか思っている場合じゃないな、と俺は思った。彼女が知ってもらいたいと言うならば、俺には知る義務が生じるのだ。
「じゃあ、話してくれよ。俺ももう、うじう(、、、)じ(、)したくない」
「分かったわ」
探偵がそう頷いたとき、失礼します、と威勢のいい声が聞こえた。横を見ると、そこにはトレーの上にモンブランとロールケーキを載せて持ってきた角田さんが立っていた。やはり、居酒屋みたいだ。
「モンブランはお兄さんで、ロールケーキはお嬢ですね」
角田さんはそう確認しながら、それぞれの前にケーキとフォークを置いた。
「以上ですね。伝票、テーブルに置いておきます。それではごゆっくり!」
そう言いながら角田さんはバインダーを置くと、ショーケースの方に戻っていった。
「美味しそうね」
探偵は少し前のめりになって目の前のロールケーキを見ながら呟いた。ふわふわしていそうなスポンジの中に白いホイップがこれでもかというほど入ったケーキは、ピンクを基調とした可愛い花柄の皿に乗っている。
「そうだな」
俺のケーキは、茶色のマロンクリームが高く巻かれ、その頂上には剥いた栗が乗っている、絵に描いたようなモンブランで、これも可愛い花柄の皿に乗っている。
「いただきます」
俺たちは丁寧に手を合わせて、フォークを持った。
俺は山を横から崩してフォークに乗せて、口に入れた。口の中に栗の甘さがふわっと広がった。ねっとりとしたマロンクリームの甘さは濃い。
咀嚼しながら正面を見ると、探偵もロールケーキも口に入れたところだった。美味しいわね、ともう次の一口をフォークに乗せていた。
「これはね、所長から聞いた話なんだけど」
探偵は次の一口を口に入れる前にそう話を始めた。俺は目線をケーキから彼女に移した。
「エメラルド探偵事務所を設立して間もないころ、所長のところに一人の依頼人が来たの。その人はタオルにくるまれた生後間もない赤ん坊を抱いていた。それでね、こう言ったの。「この子の生みの親を捜してください」。もちろん、当時も人探しの依頼は受けていたから、所長は名前と住所と連絡先を聞いてから、詳しい話を聞こうとした。けれど、その依頼人はとにかく「この子の生みの親を捜してください」しか言わなかったんだって。今だったらね、そういう怪しい依頼は受けないんだけど、そのときの事務所は設立したてで、事務所を続けていくお金も信頼もなかったから、所長は受けることにしたの。所長がそう決断すると、依頼人は本来調査が終わったあとに払うべきお金と、手掛かりとして連れてきた赤ん坊を事務所に置いていった。それから、所長は真面目に調査をしたわ。赤ん坊を世話しながら、五が丘の端から端まで走り回って。でもね、一週間、二週間と経っても有益な情報は得られなかったの。それで、依頼が来てから一か月が経っても、何一つ進展はなかった。そこで所長は途中報告をするために、依頼人に連絡をしたの。でも、繋がらなかった。教えてくれた連絡先は嘘だったのよ。もしかしてに懸けて、教えられた住所に行ってみたそうだけど、そこには全く別の人が住んでいて。名前も訊いてみたけど、知らない様子だったみたい。それで、そのまま二〇年が経ったってわけ」
じゃあ、その赤ん坊が、今目の前でロールケーキを頬張っている彼女というわけか。
探偵は話し終えると、またロールケーキを口に入れた。
「それから君の親や依頼人から連絡は?」
「あったらここにわたしはいないわ」
探偵はさらりと言った。
「でも、わたしも所長も何となく見当は付いてるの。あの依頼人が生みの親だったんじゃないかって」
「え?」
だとしたら、その依頼人は人の心を持っていない。
「所長は依頼人と連絡が取れなくなったときにもうそう思ったって言ってた。だから、わたしの名前に竹井って付けたんだって。依頼人の苗字が竹井だったから。まあ、下の名前は所長が考えて付けてくれたんだけどね」
探偵は重そうなことを何とも簡単に言った。言った本人はロールケーキをまた口に入れている。
一方の俺は、フォークをさらにコツンと置いた。いくらタブーじゃないと言われたって、ケーキなんて呑気に食べる気がしなかった。
つまり、彼女は捨てられたんだ。嘘を言って、高い金を払ってまで自分の元からいなくなってほしいと思われてしまったんだ。タオルにくるまれた赤ん坊のころの話だからまだ物心付く前のことで覚えていないだろうが、緑川さんから話を聞いたとき、彼女はどう思ったのだろう。きっと今の俺よりずっとものを食べる気がしなくて、引きこもりたかった気持ちだったかもしれない。
「そんな厳しい顔しないでよ、根津さん」
俺の様子に気付いた探偵が明るい口調でそう言った。
俺は顔を上げる。
「さっきも言ったけど、この話はタブーじゃないの。根津さんだって小学生のときの話を聞かせてって言えば聞かせてくれるでしょ。それと同じよ」
「どうしてそう言えるんだよ」
俺は思わずそう訊いた。しかし、探偵の答えは何ら難しいことではなかった。
「だって、今のわたしはみんなが思ってるより不幸じゃないもの」
「え?」
「五が丘っていう良い街に住めて、素敵な人たちにも出会えた。所長はもちろん、警視庁の倉石さん、小説家の青砥さん、友達の真以奈……当然、根津さんもね。素敵で良い人生よ。でも、もしあのとき依頼が来なかったら、すぐに親が見つかっていたら、人生はきっと今とは全く違っていたわね」
探偵はそう手許のロールケーキを見つめた。もう一口しか残っていない。
「言うなれば、わたしの人生はこのロールケーキみたいなものね」
「ロールケーキ?」
「ええ。王道じゃないけど、わたしの中では一番美味しい」
そう言うと、探偵は残った一口をフォークに乗せて口に入れた。ほんのり赤らめた頬が揺れる。とても美味しそうに食べた。
そこで俺は話に夢中で全然食べていなかったことに気付き、ペースを上げた。このモンブランは甘みが強くなく、そこそこのペースでも嫌にならない。食べている最中、「手伝おうか?」と探偵に言われたが、もちろん断った。こんなに美味いモンブランを人にあげてたまるか。
食べ終わると、俺たちは二人で席を立ち、ショーケースの前に戻った。すると、すぐに奥で作業をしていた角田さんが出てきた。
「すみませんね、お嬢。シュークリームご用意できたんで」
「いいえ、今日のロールケーキも美味しかったです」
そう言いながら、探偵は鞄から三つ折り財布を取り出し、ジャラジャラと小銭をコイントレーに出した。
一方の角田さんはそれを慣れた手つきで数え、「丁度ですね」とレジに入れた。
「実は今度、ロールケーキをちょっとリニューアルすることになったんですよ。お嬢の言ってた通り、生クリームをちょっと濃厚にするんです」
角田さんは口許に手を当てて内緒話というポーズを取った。
「嬉しい! もっとお客さん増えちゃいますね」
「二人で店回してるのに、困るなあ」
そう言いながらも、角田さんは目を細くして笑っていた。たとえ目が回るほど忙しくなっても、店が繁盛するのは良いことだ。
角田さんは先ほどのケーキと今から受け取るシュークリームのレシートを探偵に渡すと、「今出すので、外で待っていてください」と再度奥に入っていった。
角田さんがいなくなるのを見た探偵は俺に「ね、ロールケーキの人生にも楽しい変化が待ってるでしょ」と囁いた。
俺と探偵はエメラルド探偵事務所への帰路に就いた。冷たい北風が吹き付けている。手袋やマフラーをしてくれば良かった。
しかし、それより、である。
「探偵、このために俺がいた方が助かるって言ったのか?」
今、俺の両腕には結構な重さがのしかかっている。いくつも箱を重ねているから、顎を上げないと前も見えない。
しかし、横を見ると探偵は台車を使って悠々と歩いている。
「そうよ。ただあのお店を紹介するために連れてくるわけないでしょ」
悪人だ、と俺は心から思った。
「しかし、シュークリームをこんなたくさん買うなんてな」
俺は体勢を整えながらそう言った。
実は俺たちが苦労して運んでいる十弱の箱の中にはぎっしりシュークリームが入っているのである。全部で五十個は入っている。……てっきり、一つや二つだと思っていた。
「毎日二、三個は食べるのよ」
探偵は真っ直ぐ正面を見ながら、楽そうにガラガラと台車を押している。
「君も?」
「そりゃあこんなに美味しそうなものが近くにあったら、一切手を付けないなんて有り得ないでしょ」
俺は彼女の何倍も劣った頭で考えを巡らせた。
このあとこれらのシュークリームは緑川さんの許に届けられる。こんなにたくさん買うほど好きで仕方ないのだから、冷蔵庫にしまう前に一つぐらいは食べるだろう。そのとき、当然探偵も近くにいるだろうから……。
「これから帰ったら食うのか」
「ああ、そうなるかもしれないわね。でも、大丈夫よ。お腹は空かしてあるから」
探偵はそう片手でポンと腹を叩いた。
「やめとめって。一日に何個もケーキ食ってると、いい加減太るぞ」
その瞬間だった。横でうるさかった台車のガラガラという音が急に止まった。俺は後ろを振り向いてみると、探偵はキリっとこちらを向いていた。口角はへの字に下がり、頬を膨らませている。
「根津さん、それ、タブー!」
探偵は体をくの字にして、響くほどの声で叫んだ。
俺は思わず首をすくめた。
「タブー? それが?」
「そうよ、思いっ切り地雷よ! 最近、お気に入りのズボンがちょっときつくなっててショックだったの! もう、見事にピッタリ外さずに踏んでくれちゃって」
探偵はぷりぷりしながら、横を通り過ぎていく。台車は引いていなかった。
「おい、シュークリームどうするんだよ」
「根津さんが持ってきて! わたしは走って帰る。太った探偵があなたの希望通り、カロリー消費するんだから喜びなさいよ!」
そう叫ぶと、探偵は真っ直ぐ走り出した。タッタッタッという靴音が住宅街に響く。
俺は持っていた箱を、すでに台車に乗っている箱の上に重ね、駆け足で押した。
「おい、待てって! 悪かったよ!」
「嫌よ! この罪は重いんだから」
箱が落ちないように台車を押す俺は、身軽な探偵には当然追い付けない。探偵の姿はどんどん小さくなっていった。
結局、あのあとリニューアルしたあとのロールケーキを買って、ようやく許して貰えたのは別の話である。
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