センス・オブ・ワンダー

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センス・オブ・ワンダー

 しばらくそうして樹に背中をあずけていると、不思議に心が落ち着いてきた。心なしか、あの恐ろしい「何者か」の視線は遠ざかっていくように思える。ステファンはホーッと息をつくと、ありがとう、と思いを込めて巨大樹を見上げた。  しんとした空気の中で、何かが静かに動く音がする。それは自分の鼓動かも知れないし、この巨大樹の鼓動かも知れない。ステファンは、樹の幹に耳を押し当ててみた。  よく聞こえないな。  当たり前だ、自分のしていることが可笑しかった。人間とは勝手が違うのだ、分厚い樹皮の奥を流れる音を聞こうと思ったら、何か道具が必要に違いない。  それでも目を閉じて、じっと耳に神経を集中した。ゴツゴツした幹の内側では、今この瞬間にも、樹の根っこから吸い上げられた水分が力強く走っているに違いない。そのイメージを思い浮かべた。  と、意識が上へ上へと引っ張られる感じがした。それは樹の水分や養分が運ばれるより早く、どんどん加速して上へ上へと向かう。  何だろうこの感覚は。  どのくらいそうしていたのか、いつの間にかステファンは自分がはるか上空にいて森を見下ろしているのを知った。  何が起こったんだろう、と思うひまもなく視界が走り始める。いや、自分自身が動いているのだ。アトラスの背で運ばれるより速く、軽く――風になって森の上を自在に飛んでいた。 「遅い遅い! 雨雲に追いつかれるよ!」  聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。振り返ると、赤い影が木々の間を駆けていく姿が見える。エレインだろうか。 「待って、エレイン、待ってよ」  追いていかれまいとしたが、急に身体がくるんと丸まってしまい、それ以上飛べなくなった。その間にも赤い影はつむじ風のように駆け抜け、どこかへ行ってしまった。  丸く、まあるく。ステファンはどんどん変化し、やがて自分がごく小さな水滴になってしまったのを感じた。  水滴となり、空気中の水分を取り込んで膨らみ、さらに膨らみ、重さに耐えられなくなって森の上に降った。降って葉の上を転がり、幾重にも重なった枝の上で跳ね、そして地面へ。  地面の上は柔らかい苔でおおわれている。落ちたステファンは、今度は自分が木の葉よりも平べったく、薄く、どこまでもどこまでも広がっていくのを感じた。広がりながら、苔の上に、腐葉土の下に、大地を走る樹の根に、幹に、そして枝にも葉の一枚一枚にも、目に見えぬ小さな存在が動いているのを、まるで自分の身の内で起こっていることのようにはっきりと感じ取った。  ――生きている。いっぱい、いろんな者たちが生きている。ああそうか、さっきの鼓動は巨大樹だけのものじゃない。この森全体の鼓動だったんだ――  身体じゅうが温かくなってきた。と同時に、再び強く樹に引き寄せられる感覚を覚えた。  突然、頭の中がしんと冴え渡って、ステファンは目を開いた。ほっぺたにごつごつとした樹皮の感触――さっき樹の鼓動を聞き取ろうとしたのと同じ姿勢のままだ。  そっと樹から身を離し大きく息を吐いた。今のはなんだったのだろう、風や水滴になった時の感覚がまだ鮮明に残っている。  手のひらを見つめ、ひっくり返してしげしげと見ても、いつもの自分と何も変わらない。けれど今までにない澄んだ血が体中の血管を走りたがっている気がした。  折り重なった緑の葉の隙間から、木漏れ日がさし始めた。もう雨は止んだに違いない。 「ええと……ありがとう!」  今度は声に出して礼を言うと、両手でしっかりと巨大樹を抱きしめた。  ステファンは振り向いた。森が、さっきとは違って見える。  誰も居ないどころではない。いたるところに、何かの鼓動が踊っている。あれほど怖いと思った「何者か」に、急に呼びかけたくなった。 「――おおい!」  彼らに近づきたくなって、ふと思い付き、長靴を脱いでみた。五本の指と足裏全体に、ビロードのようにふかふかとした苔のあいだから、ひんやりした水気と一緒になにか澄明な気配が立ち上がる。それらはステファンの足を護るようにしっかりと包み込んでくれた。くすぐったいような、懐かしいような変な感じだ。うん、とうなずいて、森の中へ歩き出してみる。 「やあ、クモ。やあ、カタツムリ」  オーリの口調を真似しながら、目に触れる者に片っ端から声をかける。  頭上でアカゲラが甲高い声をあげた。陽がさすのを待っていたかのように、木の洞から茶色いリスが顔を出している。 「やあキツツキ。やあ茶色リス。イモリに、ダンゴムシに、ええと」  両手を広げ、森の匂いをいっぱいに吸い込む。ここに居る全ての者達の名前が知りたい。 「おおい! おおおーい!」  何と呼びかけていいのかわからないまま、駆け出した。さっきのように逃げるのではない、むしろ近づきたかった。あの「何者か」たちに触れたかった。ステファンは体中を声にして力いっぱい叫び、走り、ジャンプした。時折木の根に足をとられて転んだが、構わず起き上がっては走り、地面を蹴ってジャンプ、またジャンプした。さっき風になった時のように。水滴となって葉の上を跳ねたように。そして……  いきなり何かにドンと突き当たって、息を切らしながら目を見開いた。 「お帰り。案外早かったな」  オーリが笑みを浮かべてそこに立っていた。 「先生……!」  ステファンはさっきの不思議な出来事をオーリに告げようとした。が、口の端から飛び出したのは、全く別の言葉だった。 「先生、ぼく知りたい! もっといっぱい知りたいんだ。教えてください、ぼくの力って何? 魔法って何!」 「よし、合格!」  オーリの水色の瞳が力強く頷いた。
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