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玄関を出て駅に向かう私はいつの間にか風の匂いが、夏から初秋の香りに変わっている事に気付いた。だけど、それ以外はいつも通りの朝の光景だ。急ぎ足で駅に向かう。いつもの場所で、いつものあの落とし物を目にする。
私は、いつしかその不思議さにも慣れていた。
もうどれぐらい続くのだろう?
「本当に一体誰が?」そんな事も思わなくなっていた10月の始めだった。
私は、毎朝会社への出勤時に最寄りの駅を週に5日、月曜日~金曜日まで使用する。就職して3年目の私にはもうおなじみの駅だ。
家から出て、アパートの裏の公園を通り、5分程歩いた先に駅がある。駅の改札に行くには階段を下りて更に1~2分程歩かなければいけない。
私がそれに気づいたのは9月の初めだった。
いつも通りに会社に出勤しようと、駅に向かい改札へ行こうと階段を下りていた時、それが目に留まった。
透明のビニール袋に入った何かが階段の途中に落ちている。
「何だろう?」近寄って見てみた。
私は一瞬、「えっ!」と驚いて何故かそのあと「ふっ。」と吹き出し笑いをしてしまった。
袋の中にはまぁまぁ大きめのおにぎりが入っていた。
「えっ、何で?おにぎり?」
最初は誰かがお弁当用のおにぎりを落としたのだと思っていた。
でも、不思議な事に私はその日以来毎日大体同じ場所でそのおにぎりを見た。
コンビニの一番小さいサイズの透明なビニール袋に1つだけ大きいおにぎりがサランラップに包まれて入っている。
恐らく塩むすびだろう。海苔も何も巻かれていない。
そして、そのおにぎりは私が会社から帰って来る時間の7時頃には姿形を消している。
私は最初は、誰かのイタズラだろう、と思っていた。
まさか、学生のイジメとかだったらどうしよう。
何よりも食べ物を粗末にして。と少し嫌な気分になっていた。
でも、あまりにも連日続くものだから私はもはや、そのおにぎりを見届けてから出勤するという事が当たり前になっていた。
駅の階段のおにぎりは私の生活の一部になっていた。
そんな私はそのおにぎりのとある法則にまで気付いていた。
ある日、土曜日に休日出勤を頼まれたことがあった。
気が進まなかったけど、まぁ、滅多にないことだし休みの日は結局お昼まで寝てだらだら過ごす事になりがちだからたまにはいいか。と受け入れた。
そして、その日普段通り駅に行った時に気付いた。
「あれ!今日は無いっ!!」
そう、土曜日だからなのかいつもの”あいつ”がいない。
「えっ、平日だけ?」と私は思ったが土曜日の朝の時間に滅多に駅を利用する機会がないので確信を持てずにいた。
ところが、また別のある日曜日。
友達に誘われて、写真の展示会に行く事にした。今話題の写真家の個展で、並ばないと入れないぐらい人気らしかった。友達は別の子と約束していたらしいが、ドタキャンが入ったため私を誘ってきた。
私も写真には少しだけ興味があったのだが、その個展は人気で朝・昼・夕方の時間帯で何組かのグループに分かれて入らなくてはならなかった。
私の友達は朝一番のチケットを持っていて、私はその日会社に行くよりも30分も早く起きなければいけなかった。
会場に着いて「眠いよ~」という私に友達は「一日有効に使えていいでしょ?後で美味しいランチ行こうよ」と言った。
「まぁ、そうね…。」と言って、私はハッとした。
そういえば、今日の朝あまりにもボォーっとしてて無意識だったけど「今朝来るとき、見てない!」と思った。
そうだ、日曜日だから気が抜けていたけど、今朝は階段のおにぎりが無かった。
私はきっと週末は無いんだ。と思った。
でも、確信が持てなかった私は翌週わざわざおにぎりがあるのかないのか確かめに行った。土日、連日共に目覚ましを掛けて会社に行く時間とほぼ一緒の時間に家を出てコンビニに行くついでに駅までおにぎりの存在を確認しに行った。気分はまるで探偵だった。トレンチコートとハンチングがあれば身に着けているところだった。
そして、確信した。
「やっぱり、週末は無いんだ!!」と。
私は我ながら何をやっているのだろう?と思ったが何故か気になってしまった。
「本当に何の為に、一体誰が?」という事を。
そうして月日は流れ、私は11月から会社で始まる新しいプロジェクトの一員となる事になった。
年末まで続くこのプロジェクトは、私にとって昇格に繋がる嬉しい機会だったが、私のスケジュールはタイトになりつつあった。
今まで9時45分を目指して出社していたのだが、毎日1時間も早く出社し、準備に明け暮れ帰宅の時間も8時や9時になる事が増えた。
そして私は出社時間を変えたことで駅の階段のおにぎりを見たり見なくなったりする日がある事に気付いた。
でも、忙しすぎて若干そんな事はどうでもいいと思うようにもなっていた。
私は、新プロジェクトにやりがいを感じていたものの、さすがに疲れてきたなぁと思っていた。
その日はより早く8時半には出社するつもりでいたが、起き上がる事が出来ずにプロジェクトリーダーに「すみません、調子が悪いので9時に出勤します。」と連絡を入れた。リーダーはとても出来た人で「こっちは大丈夫だから、無理しないで。」と返ってきた。この人の元で働けるのは有難い。と感謝しながらやっとベッドから起き上がり、準備をして眠い目をこすりながら駅に向かった。
出社時間が変わったので、学生とよくすれ違うようになった。
「そうか、学生は皆もっと早起きして学校行くんだっけ?大変だな…。」と思っていた。
でも、その日は駅に行ったのはもう8時半間近なので駆け足で登校する学生達がほんの数人目に入っただけだった。私は心の中で「走れー。急げー。」とエールを送っていた。
駅に着いて改札に向かおうと階段をいつものように下りていると、まだ取り残された学生が一人だけいたようで、こっちに向かって上って来る。細くて華奢で長い髪をおさげにした幼い風貌の女子高生だった。急いで慌てる様子もなく、ゆっくりと階段を上ってきて、下りていく私とすれ違った。
私は「えらくマイペースな子だな。遅刻してもいいのか?」と思いながらその子を横目で見送った時に、「ん?」と思った。
その子は背中に背負っていたリュックとは別に肩から布製のトートバッグを掛けている。そして私とすれ違う際、その子はトートバッグの中に手を入れて何やらガサリと取り出す素振りをした。一瞬だけチラリと見えた”それ””は女の子のバッグの中から少しだけ姿を現した。この2か月程ずっと私が見てきたもの。見覚えのあるものだった。
私は、階段を下りきったところで歩みを止めて振り返ってみた。
女子高生はトートバッグから出してきたビニール袋に入った”それ”をサッと階段に置いて、その後こちらを振り向くこともなく素早く走り去っていった。
私は、また駅の階段を上っていきそのおにぎりを拾い上げた。
おにぎりはまだほんのり温かかった。見た目通りずっしり重かった。駅を出て女の子を探した。するともう遠くの方に学校の方向へ足早に走り去っていく彼女が見えた。
「あ、あの子だったんだ…。」
ようやく、毎日の落とし物の持ち主を見た私は少し茫然としてしまい、その日は何だか集中力にかけていた。プロジェクトリーダーも「やっぱり体調悪そうだよ。今日は早めに帰りなよ。」と言ってくれた。
私は「はい、ありがとうございます。ではお言葉に甘えて。」と言ってその日は定時で帰宅した。
私はその日の夜、何だか見てはいけない物を見てしまったのではないだろうか?という気分と共にいた。
今まであの落とし物の持ち主は何度か想像した事があったけど、あまりにも予想外だった。
「あの子、何か特別な問題でも抱えているんじゃないかなぁ…?」
「何かしてあげた方がいいのかしら?」等と私の変な正義感や責任感のようなものが芽生え始めた。
昔から周りの皆に言われていた。
また、「そんな事引き受けてきてー、あんたは正義感が強すぎるのよ。」等と。でも、居ても立っても居られない気分になった。
私は「よし!」と一つ覚悟を決めてからその日眠りについた。
翌日も昨日と同じぐらいの時間に駅に向かった。駅の入り口の階段に着き、落とし物を確認する。
「今日はまだない。」
私は暫く階段の前を行ったり来たりしてみた。8時20分を過ぎる頃、昨日のように彼女の姿が見えた。階段の下からこちらへ向かって上って来る。
私は深呼吸をして平静を装い昨日と同じようにすれ違った。
そして私は階段を下りきったところで立ち止まり、くるりと振り向く。
彼女は案の定、バッグからビニール袋を取り出してそれをそっと階段の隅へ置こうとしている。
そこで私は声を掛けた「ねぇ!!待って!!」と。彼女は驚いて、動きがピタリと止まった。私は急いで階段を上って彼女の方へ向かった。
その瞬間、彼女も走り出した。
「えっ、ちょっと待って!!ねぇ、ねぇ」と言って追いかける私、彼女は「すみません。」と何故か誤ってひたすら逃げようとした。
私は「違うの!ちょっと聞いて、ねぇ、あのさ!!そのおにぎりもらっていい??」と叫んだ。
私の一言で彼女はピタッと足を止めて初めてこっちを見た。息切れをしている私は前かがみになりながら彼女の方に近寄って行った。改めて彼女を見てみると、色白の顔に栗色の大きな瞳と少し茶色いふわふわとした髪をおさげにしていて、透明感のある子だった。
私は勇気を出して喋りかけた。
「ねぇ、毎日置いて行ってるよね?おにぎり。どうしたの?」と聞いた。
彼女はうつむいて「欲しいならどうぞ、でも、美味しいか分らないですよ。」と言って大きなおにぎりをこっちに差し出した。
私は「えっ、いいの?ありがとう。」と言って受け取った。
おにぎりは袋の上からでもまだほんのり温かいのが分かった。
そして「なんで?どうして毎日置いていくの?」と尋ねた。
その時、遠くで学校のチャイムが鳴るのが聞こえた。
「あっ、学校始まっちゃうよね。ごめん、引き止めて。」という私に彼女は「大きすぎるでしょ。そのおにぎり。」と言った。
私は、「えっ、あぁ、おにぎり?うん、まぁ、そうだね。誰が作ってるの?」と尋ねた。何となくもう、学校は遅れても良いのだろうな。という事をどことなく心の中で思った。
それよりも、彼女は何だか誰かに話しを聞いてほしそうでもあった。
「お父さん…。」そう彼女は答えた。
「へぇ、だからこんなに大きいの?でも、多分私食べれると思うよ。お米大好きだから!中は何か入ってるの?」と言うと、「多分、昆布とか入っていると思います。」と、ぶっきらぼうに彼女が答えた。
「え、昆布大好き!!でもあなたはご飯無くて困るでしょ?」と言うと、彼女は「パンでも買って食べるので大丈夫です。」と言った。
そういう彼女の目は、優しさの奥にピンと張り詰めた何かがあって少し怒っているような、何かと闘っているかのような眼差しだった。
「そう、じゃあ、遠慮なく頂きます。ありがとう。でもさ、なにも階段に置いていく事ないんじゃないの?」と言ってみた。
すると彼女は少し声を張り上げて「恥ずかしいんですよ。そんなバカでかいサイズで。」と言った。
改めておにぎりを見てみると確かに女子高生が昼食に持っていくサイズにしては大きすぎる。部活でもやっているのならばとにかく、彼女はそういったアスリートタイプにも見えなかった。そして、大きい割にしっかりと三角に握られており、殺風景にサランラップに巻かれてキュッと結んだビニール袋に入れられている。
私はこの子の家庭は恐らく何か訳があるんだと悟った。話して欲しくなった。どうしても今聞いてあげないといけない気分になった。おせっかいと言われようが、何だろうがどうでもよかった。
持前のあつかましいリーダーシップと正義感、そしておせっかい精神でその後も彼女に話を聞いた。彼女は意外と心の内をスラスラと私に話してくれた。
彼女は去年母親を病気で亡くし、父親と二人暮らしになったらしい。お父さんは少しでも彼女の側にいてあげようと、転職をして新しい家を違う町で見つけなおし、彼女との新生活を始めた。彼女は住む場所を変えたついでに、心機一転学校を今年の9月から変えたようだった。以前の学校は女子高で上手くなじめていなかったのも一つの理由だったらしい。
だけど、新しい学校には新しいコミュニティが既に存在しており、中々新生活にはなじめずにいたらしい。彼女のお父さんは父親業と母親業の両立を張り切っており、仕事に加えて今までお母さんに頼り切っていた家事も頑張っているとのこと。そんなお父さんを最初は彼女も応援していたけれど、次第に彼女の新しい学校生活での不具合はストレスという形で父親に向けられるようになったのだろう。
そんな矢先、今日からお弁当にも挑戦するというお父さんの優しさが裏目に出てしまった。三角形のバカでかいおにぎり。センスのないビニールの包み。朝からお父さんと一笑いして出かけた彼女だったが、その日の昼食の時間、見事にクラスメイトにからかわれてしまったらしい。その日から何となく彼女の心に壁ができてしまった。彼女が年相応で直面するべき思春期も反抗期も一気に来てしまった。
そんな風な所だった。
私はおにぎりをもらって「でも、置いていくぐらいならお父さんに言ったらいいじゃない。もう作らなくて大丈夫だよとか、もっと小さく作ってって。」と。
すると彼女は「言えないですよ。朝から凄く張り切っててその時間が一番楽しそうですから。それにお父さん、夜中にまだこっそりと一人で泣いてるの知ってるんです。私がそんな事言ったら、学校でからかわれた事もバレるでしょう?そしたらお父さんもっと悲しむはずです」と。
「そっか、そうかもね。優しいね。」と私は言って、そろそろ会社に行くと告げて彼女と別れることにした。
でも、別れ際私たちは連絡先を交換した。
彼女がお父さんにお願いできるようになるまでは、朝私に連絡して駅で私がおにぎりをもらう事にした。または、彼女が勇気を出して学校におにぎりを持っていけるようになるまでは私が食べると約束した。
彼女はそれで納得していたようだった。
私はその日、会社の昼休みに彼女からもらった大きなおにぎりを休憩室の窓際の席で一人で食べた。中には昆布とツナマヨネーズが一緒になって入っていた。何とも不器用でギュッと硬く握られた美味しいおにぎりだった。
食べていたら、何故だか涙がこぼれてきた。
彼女の目、いつかの誰かさんと全く一緒。
12歳でお母さんが突然家を出ていって、4歳上のお姉ちゃんとお父さんと3人での生活が始まった。私の心は荒れていた。下手にお母さん代わりをしてくるお姉ちゃんも、不器用なのに無理して明るく振舞おうとしていたお父さんも何だか嫌になってしまい、反抗的になった。
何度も二人に心無い言葉をぶつけてしまった。
今では感謝しかないけれど。
彼女は偉い。まだまだお母さんに甘えたかったであろう淋しさを何度も一人で乗り越えて、思春期の憂鬱に負けず毎日一人で立ち向かい、お父さんの不器用な優しさを傷つけまいと余裕のない心で一生懸命受け入れようとしている。
私はおにぎりを食べながら涙が止まらなくなってしまった。
今日、家に帰ったら久しぶりに家族に連絡しようと思った。おにぎりの彼女の事は言うかどうかは分からない。
明日の朝、彼女から連絡は来るだろうか?
連絡が来ても、来なくてももう彼女のお父さんが作ったあのおにぎりが駅の階段に置いてきぼりになる事はなくなるのだと思うと、少しだけ心が軽くなった。
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