627人が本棚に入れています
本棚に追加
第1話「日常」
終わった、と思った。
朝、確かに確認した筈のデッサンセットがリュックに何ひとつとして入っていない。
「嘘、、だろ」
目の前が真っ暗になっていく。この大学に入りたくて勉強し、この大学に入りたくて寝る間も惜しんで絵を描いてきた。その苦労や時間が崩れて行くような音が、頭の後ろでガンガンと鳴っている。手に汗が浮かんできて、体温が上がって行くのがまじまじと感じられた。
「やっば、」
呼吸が浅くなって行く。酸欠で倒れそうだ。
「あ、あの、」
「?」
隣から聞こえてくるか細い声を探して前髪の隙間からその声のする方を向くと、同じように前髪の長い顔面蒼白になっている男子が自分に向かって話しかけて来ていた。
「はい、、?」
「あの、これ、使いますか?」
ガシャ、と音がした彼の手元には、彼の物らしきデッサンセットが握られていた。小さいクリアのプラスチックの工具箱に入った、綺麗に整えられた芯を揃えた何本もの鉛筆と、カッター、図り棒、デッサンスケール、練り消しと消しゴム、ガーゼ、その他諸々。必要なものが全て入っている。
「え、いい、の?」
「これ予備だから、使って。もう1個あるから」
グ、と押し出されたその箱を受け取る。試験開始まで後15分。10分前になると試験官が教室に入ってくる事になっている。
「ありがとう」
「がんばろ、ね」
「っ、、、」
サラ、と揺れた黒い前髪。はっきり見えた黒い大きな瞳が、ニコ、とこちらに笑いかける。人生で初めて、こんな事があるのかと言う程に、心臓が跳ねた。顔が青白くなる程緊張している彼は、それでも震える声で優しく自分に話しかけてくれている。
「うん、、!」
(この人と、、もう一度会いたい)
その夢が叶うように、借りた鉛筆をグッと握り締めた。
「義人って感じの顔じゃないね」
「は?」
彼から彼への第一印象は、最悪だった。
「ん〜。近くで見ると割と背、低いし」
「そっちがでかいだけでそこまで低くない。というかいきなり何なんですか」
話した事も無いクラスメイトから、自己紹介が終わった瞬間にそう言われた。
入学したての独特な雰囲気は緊張と言うよりも迫り上がったこれからの生活への好奇心を押さえ込んでいるもので、教室のどこかからはクスクスと言う笑い声や自己紹介の内容に触れた馴れ合いの会話が漏れ聞こえる。
出席番号順とはいかず、この教室内は早く来た者から席を取ったまま座っていて、彼、佐藤義人(さとうよしと)は一番後ろの席を取り、教師が来るまでの間、交際している女との連絡で寝不足になったまだ起き切っていない頭を机に突っ伏したまましばらく眠りについていた。
そうして、ガタガタという音で目が覚めれば。隣にいる携帯電話をいじる男が少しぼやけた視界に入る。
「おはよ」
「、、、どうも」
後の自己紹介で藤崎久遠(ふじさきくおん)と名乗ったその男は、やたらと整った顔で、義人とは違い愛想のいい笑みを浮かべた。
横断歩道を渡る。
目の前にあるのは自分自身が通う大学、静海美術大学(しずみびじゅつだいがく)。
住宅街に突如として現れるそこは、裏手には山がそびえており、校舎の半分は木々が生い茂っている。
「おはよう、義人!」
「ああ、おはよ。里香」
通学途中だった義人は同じ予備校に通っていた荒木里香(あらきりか)に肩を叩かれ、隣に並びながら校舎へ向かう。義人と彼女は学科は違うが乗っている電車の時間が同じなのか、登校途中に遭遇することこれで3回目になる。
明るく物怖じしない性格の彼女とは予備校時代からそれなりに仲が良かった。
「ねえね、義人の学科にさ、いるんでしょ?」
「何が?」
キラキラとした大きな瞳で見上げられたが、義人は話の内容が見えず小首を傾げて彼女を見下ろす。春らしい淡く少し霞んだピンク色のTシャツは彼女の白い肌にはよく似合うように見えた。
数センチ低い位置にあるその視線にバチリとピントが合うと、彼女は一層目をキラキラとさせて、歩きながらも少しこちらに身を乗り出して来る。
「藤崎久遠くん!」
そうして彼女の口から出たその名前に、彼はモヤっとした何かが胸の中に湧き出たのを感じた。
昨日の出来事が脳内に蘇ってくる。
同性の自分から見ても整った顔立ち。作り物のように美しい曲線で作られた完璧な笑顔。しかし、見た目は極上だと一目で分かるその男が口を開いた瞬間、他の人間には言われた事もない憎たらしい見下した発言を食らった。
義人自身、あまり人を嫌いになることはない。依存する程好きになった事もないのだが、彼なりに人付き合いはやってきたと自負している。大学で世界が広がるだろうとは考えていたが、出会った事もない程憎たらしい人間が突然目の前に現れ、頼んでもいない評価をしてきたもので彼自身が驚く程に藤崎久遠という人間を一瞬にして嫌っていた。
「あー、いるいる。あの無駄にむかつく奴ね」
そう言いながらも大きめのため息をついていた。
この胸の中に湧き出た嫌なものが出ていけばいいのだが、肺から出るのは二酸化炭素だけなようで、少しも気が晴れずこれから向かう教室への足取りが途端に重たくなってくる。
「えー?性格悪いの?かっこいいって噂になってるのに」
「いいんじゃないの、別に。俺に対しての態度が異常に悪いだけで」
「あはは!ライバル視されてるとかじゃない?義人も充分顔はいいじゃん!」
「顔はってなに」
あはは、と笑いながら、里香は「じゃあね」と手を振っていなくなる。
大学の校舎は区分されており、連なって出来てはいない。里香は義人とは違い、主に3号館を遣うファッション学科の学生になった。正門から入ると義人はすぐに右に折れて9号館へ行き、里香の校舎は正門から山の方へ真っ直ぐ奥へと入っていく。
「朝から藤崎の話とかするなよなあ」
もやもやもやもや。
胸焼けしそうな感覚を拭うように、義人は胸の辺りにグリグリと右手の拳を当てて擦り始める。
整ったあの顔立ち。もしかしたら元からかなり有名な人間なのかもしれない。義人は自分が通っていた高校や予備校の人間しか知らず、例えば大きなコンクールや展示会に出ていた有名な学生やアーティストでも名前が分からない事が多い。
何らかの形で、きっと藤崎は有名なのだろう。
「藤崎久遠、か」
義人に喧嘩を売って来た張本人。
中性的な、整った目鼻立ちをした、性格最悪、印象最悪な男。
昨日の会話の続きで、背が低いと言ってきた藤崎と義人の身長差はわずか5センチである事はもう分かっていた。義人が175、藤崎は180センチある。だが、マイナスな発言やからかいすら真面目に受け取ってしまう義人の性格からすると、わずか5センチの話であったとしても身長の話題に触れられたのは少し気に障った。
(俺、低く見えるのか。それなりに高い方だと思ってたんだけどなあ)
そうこう考え、朝からまた苛立やら落ち込みやらをぶり返しながら、自分もまた教室のある校舎へと歩いていく。
カシャー
「、、、、」
そんな義人の様子を、藤崎は遠くから見守り、自身の携帯電話を構え写真に残していた。
「え、、久遠?」
訝しげに彼に声をかけたのは、幼馴染みであり同じくこの大学に通うことになった滝野洋平(たきのようへい)だった。
「ああ、滝野」
先日義人に向けたような笑みはなく、ぼんやりとしたまま滝野を振り返った藤崎。
既に義人が映った写真は携帯の中のフォルダに保存され、藤崎は一瞬、満足げに携帯電話で時間を確認してからそれをズボンのポケットに滑り込ませる。
「おはよう、、お前、何で校舎に向かってスマホ構えてたの?」
ポケットの中に収まった携帯電話の感触を確かめるようにポン、ポン、とそこを叩きながら、藤崎は近づいてきた滝野を見て眉間にシワを寄せた。
「何か撮ったの?お前校舎マニアだっけ?それとも入学できた感動で?」
「質問が多いよ、滝野さん」
「さん付け!?急に他人ごっこやめてよ!」
「うるさ。遅刻するから俺行くよ」
「あ、途中まで道が一緒と知ってて置いていこうとするなよ!!待て久遠!!」
歩き出した彼の後を、うるさい靴音が追う。
気にせず歩きながら、もう一度携帯をポケットから取り出した藤崎は密かにフォルダに保存した画像を確認した。
「おはよう、佐藤くん」
隣に並びながらまだ何か言っている滝野にも聞こえないくらいの小さな声。
先程から高鳴ったままの鼓動を面白がるように、彼は画面に写った義人を見つめて微笑んだ。
暗い茶色の髪、整髪料などは付けていない無造作な髪型に、高校生と間違えられるだろう少し幼い顔立ち。まだ自分には向けられた事のない優しい笑みを、隣に並んでいた女子生徒に向けていた、義人の写真。
藤崎久遠は、嫉妬とは無縁の男だった。
恋愛に興味のない小学校時代から異様に人から好かれ、大学に上がるまでに顔を思い出せない数の人間に想いを告げられてきた。付き合いたいと思った女性が自分のものになる事に慣れきっており、また彼女達から離れていく事は少なく、あったとしても藤崎が別れたいと言う態度を取ってからだった。この顔と掴めない性格のせいか、同学年の中でも彼は特別、抜きん出て異質な魅力があり人がそれに群がってきたこともあり。育てられ方が自由過ぎたせいもあってか、生まれてこの方他の誰かを羨むと言う事を経験した事がなかった。
しかし、今回ばかりはそうとはいかず、誰なのかも、義人とどんな関係なのかも分からない女子生徒が彼の隣に並んだとき、やたらと胸がざわついた。
藤崎にとってそれは、人生で初めて味わう感覚だった。
昨日は焦りすぎて話しかけ方を間違え、明らかに義人に悪い印象を与えた事には自覚がある。だからこそ、今日に至っては少しでも多く話しかけて、何とか佐藤義人と言う人間との距離を詰めたかったのだが。
朝から姿が見えて、話しかけようと少し小走りに後ろから彼に近づいていた藤崎を追い越し、その隣に並んだ女の子に、ようは、彼は人生初の嫉妬をしたのだった。
「ねえ滝野」
「え、全然俺の話聞いてなかったよね?聞いてた?聞いてなかったよね!?」
「全然聞いてなかった」
「ええッ」
少しは聞けよ!、と1発、肩を殴られる。
藤崎と大体同じくらいの身長の滝野からのパンチだったが、藤崎はよろける事なく素直にそれを肩に受け、それでも素知らぬ顔のまま滝野に視線を投げた。
昔からコレだよ、と更に滝野から小言が漏れる。
「俺の話し聞けよ」
「はいはい、もういいよ。お前が人の話聞かないの、小学校んときからだもんなぁ。なに?」
この口数の多い滝野というのは、藤崎の幼なじみである。高校以外、幼稚園からずっと同じ学校に通っていた、兄弟のような存在。兄、弟と言うよりは、双子に近い感覚がする相手。
高校は離れていたとは言え、実家は2軒隣で結果的に3年から通い始めた美術予備校は同じところだったのでほぼほぼずっと一緒に学校に通っている。
「女の子を落とすのって、俺からすると簡単じゃん」
「クソ嫌味言うな、お前」
軽めのため息と、呆れた様な視線がこちらを向いた。それは昔から変わらない、面白がってもいるような、本当に呆れきった目。
滝野にとっては藤崎の常識外れな発言や行動は日常の中に溶け込んでいる。さして驚く事でもない。
「じゃあさ、」
ニッと、口角がつり上がる。
「同性って難しいのかな?」
ゲームがしたい訳じゃない。
ただ藤崎自身でも解らない程、佐藤義人と言う人間に惹かれる自分がいた。
脳内に蘇る、初めて出会ったあの時。そう、あの教室で彼がこちらを向いた瞬間に、藤崎は義人に恋に落ちた。
少し強張った緊張した声。それでも藤崎を心配して差し出してくれた手。ありがとう、と言って受け取った箱の中の鉛筆は、カッターで綺麗に整えられた芯が見えた。
『頑張ろ、ね』
震える声は、息が出来ないくらいに絶望していた藤崎の頭に優しく響いた。神だ、天使だ、と女性アイドルを比喩する友達に疑問を抱いた事が何度もあったが、彼はこの時理解した。
本当に好きな顔、好きな声、好きな体型、微笑み方。自分の好き、が詰め込まれた人間が目の前に現れたとき、人は表現できないどうしようもない感情を何とか言葉にしようとしてそう言うのだ。
生まれて初めて、人に対してこんな馬鹿な事を思った。
あのとき自分を助けた義人を、藤崎は天使だと思った。
「知らねーよバーカ。勝手にやってろ」
そのまま、義人の後を追うように、同じ教室のある校舎へと向かった。
最初のコメントを投稿しよう!