1 慌ただしいイチニチ

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 道中、糸の切れた人形のように突如として切れる何か。力を失い四肢を垂らしたまま押し寄せる多幸感にも似た穏やかな感覚を堪能しほうけている自分を連れて、男性はひたすらどこかへ進む。  抱え方が羽交い締めから変わり、一旦床に降ろされたような気がしたと思えば、いつの間にか肩に担がれるような格好で、目は背中と彼の脚を見ていた。  ──しっぽ・・・?  黒いベルトの下。おしりの割れ目の延長線上だろうか。ジャケットと思われる厚手の黒い裾の割れ目、見えたズボンにはシンプルな金色の刺繍で装飾された丁寧な穴が空いており。    そこから生えた黒くて長い毛の束を見つけた。  それはフラフラと歩く度に動く。ガチャと音を立てて開いた何か。左右を確認したのか腰をねじる動作を数回繰り返す度に、シッポは美しく、みずみずしいそうめんのごとく揺らめいて、引き締まった脚をビタンと叩く。 「むへっ!」  せっかく見惚れていたというのに、男性は自分を乱暴に何かへと押し倒し、驚いて声を上げた私を気に欠けることなく、そのまま即座に離れてしまう。意識はあるものの朦朧としているからか、顔立ちがハッキリと視認できない。  比較的肩の広い、黒髪の、もみあげらしき部分が塊になってもっさりとしている男性。分かる範囲はここまでで。  ──何か、ゴソゴソ音がする・・・アタタカイ・・・お布団・・・?  くるくると歪に回転する思考。四肢を乱雑に投げ出したまま上を眺めている自分には、何よりも不可解なことがあった。 「ココはどこ? アナタだれ? お家?」  上手に喋れない。正しくは、思考と言葉が乖離している。頭で思ったことを同じ空間に居るはずの彼に投げかけようとすると、得体の知れない違和感が割って入り、簡単な単語に変更される。 「なにをする?」  頭で考えている言葉が、強制的に、理解は出来るが全くの別の言語に変換されて口から出ている。  本当は『一体これからなにをするの?』と、具体的な質問をしようとした筈なのに。よりによって語呂が少ない、自分の知能のせいか夢うつつが原因か。定かではないが、単語一つ一つの翻訳機能が、脳みそと口とで圧倒的に噛み合わず表現しようにもあまりに少ない。  ──言ってること、聞き取れないのもそのせいか。  段々と冷静さを取り戻し始めた思考が、辻褄合わせを開始する。先程の集会所の騒ぎ。繰り出される言葉を曖昧にしか理解出来なかったのは、意識レベルの低下だけが原因ではない。  全く知らない単語だった。ただそれだけだ。 「──は、なに」  おかしな点は他にもある。一人称が口から出ない。自分は発しているつもりなのに、パクパクと唇が開閉して、空気が行き来して、簡単な単語が出てくるだけだ。『──は今どういう状況なのだ』たったそれだけの問いなのに、舌足らずで幼稚な単語しか並べられない。  そもそも、自分の一人称とは、なんだったのか。 「カエラナイト」  そして一番厄介なのは、疑問や推測に無理やりねじ込まれ、頭をリセットしようとする、自分の意思かどうかよく分からない謎の単語。単語通りの行動へと駆り立てられる僅かな衝動。 「カエラナイトカエラナイトカエラナイト・・・どこへ?」  繰り返す。エラーと思考停止、衝動。エラー。エラー。与えられていない、許可されていないはずの自我(エラー)。  ──与えられていない。誰から? 許可されていない? 誰の許可? エラー・・・これはエラー? なんでエラー? エラー? エラー?  気付けば口ずさんでいた。エラーと同一の意味を持つ単語を延々と。  人目もはばからず呟いた。目を閉じた瞬間に、簡単に飲み込まれそうな無数の単語エラー。満ちていくエラー。自身のエラーの囁きに頭が納得せよと誘惑する。
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