1 慌ただしいイチニチ

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  「泣くな・・・泣くんじゃない。どうした。怖かったのか」  側頭部。温かいものを感じた。  視界。男性と思われる顔面が至近距離でこちらを観察している。  左肩。チクリと何がくい込んだ感覚と、丸い物が押し付けられた僅かな違和感。 「あ・・・うえ・・・泣いて?」 「────。そうだ、泣いている。怖かったか? ──か? どっちか、『はい』『いいえ』『どちらでもない』で答えろ。出来るな?」  首を左右にゆっくりと振り、初めて側頭部のそれが男性の大きな手のひらだと気づく。振るたびに水っぽい感触が頬と肌の隙間にたまり、彼の言葉が本当だったことをようやく理解する。 「難しい。簡単、言葉欲しい。難しい、分からない」 「そうか。そうか。辛いな」 「つらい・・・? 辛い。辛い。たくさん辛い」 「辛いのを消す、お薬を、また使った。だから、大丈夫」  男性の明白な言葉と反対に、エラーの文字が遠ざかる。辛くない訳がないだろう。限られた自身の記憶を辿っても、何ひとつ現状を指し示すものが無い。 「また?」 「気付いてないだけだ。さっき、一度、使った。今、二回目を、使った。分かるか?」 「分かる。また。でも、辛い」  辿れど辿れど、記憶の制限は果てしない。何を記憶とし、何を自身の過去とし、何を夢と現実と仕分けして。何を自身の足跡と定義するべきか、定義する為のデータが抜け落ちていて、人間なのかさえ断言出来ない。 「──。だったら、もっと辛くなく、しようか」  思考放棄を思いとどめる、優しい声が降り注ぐ。 「俺と────か?」 「理解、不能。簡単な言葉が欲しい」 「んん・・・あー。これも難しい、か」  男性の微かなうなり声を聞きながら、柔らかい手のひらに顔を埋める。苛立ち。自分のへの不甲斐なさ。無力さ。無知さ。知覚する度エラーがよぎる。 「俺と、遠くへ、行く。『はい』『いいえ』。分かるか?」 「遠く」 「そう。遠く。俺も辛い。だから、遠くへ行きたい。──も一緒に行く。選べ。『はい』『いいえ』。答えるんだ」  男性の指先が、丁寧に丁寧に頭皮や頬をなぞる。 「──。お前は、泣けるんだ。だから、自分で、考えられる。きっと」  ゆっくりと、ハッキリと、男性の言葉が一言一言、こちらを静かに試している。そんな気がした。
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