1 慌ただしいイチニチ

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  「『はい』。行く。行く、しかない」  答えは正直、なんだって良かった。ただ、思考が彼に従うよう推奨した。それだけの理由。  直後に覆いかぶさった男性の抱擁は予想外だったが、悪い気もしなければ、むしろ光栄だと言わんばかりに脱力し迎え入れている己の身体。 「良かった。きっと、二人とも、楽になれるさ」  くしゃくしゃと頭を撫でる手のひらは、どうしようもなく震えていた。何をそんなに感動しているのかは分からないが、それを感動だと解釈できた自分自身の第六感もまたよく分からない。 「用意は出来てある。あとは、──をして、行くだけだ」  男性の身体から、ガサゴソと、何かを、探すような服の擦れる音がする。 「──。お前に、新しい名前と、役割をあげよう。だから」  口元に添えられた彼の指先。 「俺の物になるんだ。『はい』なら、これを飲み込んで・・・」  つまんでいたカプセルのような何かを、間髪入れずに指ごと頬張り舌で絡めとる。男性が甘美な吐息がもれたがそれも一瞬。あっという間に飲み込んで、巻き込んだ指を解放する。 「っはは。そんだけ自由意志があるなら、すんなり、遠くへ行けそうだ」  笑い声が悲しそうだった。何故それを瞬時にくみとれるのか。疑問は相変わらず絶えないが、それをかき消して口ずさむべき一文が脳みそと喉に流入する。 「名前と、役割を、お決め下さい」  機械的な言葉だが、何かがそれを、最上級の喜びだと形容し脳に語りかける。 「与える名前は『リリス』。俺が、大事にしている名前だ」  頭の中を電気刺激が走る。弱く、心地よいとさえ感じる穏やかな刺激。 「役割は一つだけだ」  喉を通り過ぎていくカプセルは、心臓に近い所に移動した辺りで、パチリと弾けたのだと内部が認識する。  ほんの一時、これまでの比ではない程に明確に覚醒する意識。相反して、身をゆだねる為に末端から段階的に脱力していく肉体。 「『一緒にいろ』」  頭に再び電流がよこぎる。少しだけ強く、むず痒く、官能的とさえ思える甘い感覚。 「遠くに行くまでの、短い間だけな? しっかり、役割を守るんだぞ」  アップルミントのような優しく涼しい穏やかな風が、頭の中を通り抜けた壮大なイメージ。絡まっていたコードが解けた時の開放感。 「さあ、ご主人様からの、──で──の命令だ」  物言わぬ身体に膨大な何かが押し寄せ、無数に空いた穴を不器用ながらに埋めていく、満たされていく快感と、僅かな愉悦。 「俺が『起きろ』と言うまで、頭の中の、ぐちゃぐちゃを、お方付けして、睡眠」  例えばそう、オーガズム。似て非なるものだが、近しい例えはこれ以外に今は思いつかなかった。  頭の中に置かれたコップに注がれた、温かな水は中を満たすどころかあふれ出し。とうとう目から大量にこぼれ落ちたかと思うと。  満足した身体が静かに、ほぼ全ての活動と衝動をあっという間に鎮めていった。
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