鞄 6

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鞄 6

「……そうですね。身分証明書はお持ちでない、という事で……はい。わかりました。失礼します」  受話器を置くと、門兵は蛇のような眼差しで私を見た。 「では、今回はに、身分証明書をお持ちでない、という事なので、鞄の中に何が入っているか詳しく仰って頂いて、私が中を確認したものと一致しましたら、鞄をお引き渡しするという事に致しましょう。遺失届出書に記入された物以外にも何か入っていますよね?」  門兵はやけに恩着せがましくそう言った。  ちょっとムカついたけれど、門兵の機嫌を損ねる訳にはいかない。これは元の世界に戻る最後のチャンスかもしれないのだ。 「お財布と鍵とパスケースと……」   あれ、あと何が入ってたっけ? 改めて思い返してみるとなかなか思い出せない。その三つだけでは鞄は一杯にならない筈だ。もっと何か入っていたような……。  以前、スマホを入れたつもりが何故かテレビのリモコンを入れていた時があったけど、さっきスマホを確認した時、さすがにそんな物は無かった筈。  私は鞄についつい余分な物を入れてしまう癖がある。いつか必要になるんじゃないかとか、持ってたら便利なんじゃないかとか……。でも必要になった事は殆ど無い。だから入れるばっかりで、鞄はどんどん一杯になっていく。  例えば……何か色々な薬とか……。  いやいや、ダメだ。警察で「何か色々な」なんて言ったら、余計に事がややこしくなる。   「ご自身の鞄でしたら、答えられる筈ですよね」  門兵の能面のような顔が迫ってくる。 「も、もちろん」  えーと、えーと。  脳の毛細血管はもうこれ以上ないというくらい縮み上がっている。全くものが考えられない。ゆっくり考えれば思い出せる筈なのに、門兵の圧が凄過ぎるからだ。もう少し後ろに下がって欲しい。  真っ白になった頭の中に、真っ平になった門兵の顔が入り込んできて、あろう事か分裂しだした。ペラペラのお面の様になった何枚もの門兵の顔が、頭の中でぐるぐると回り出す。 「さあ、仰って下さい」  門兵は更に近づいて来た。  門兵のお面の中に、本人の顔までも入り込んできたものだから、まるで万華鏡のようになってきた。お面と一緒に私の頭もクルクルと回り出す。もう何が何やら良くわからない。 「さあ……」 「あう……」  私の鞄……いつも持ち歩いていた、私の鞄。私の存在証拠である鞄の中一杯に入っていたもの……。いつも鞄一杯に持ち歩いていた物……。 「ゆ、夢と希望……なんて、ははは……」  私の乾いた笑い声が、狭い交番の中に虚しく響いた。 「……」  門兵はゆっくりと立ち上がると、何も言わずに隣の部屋へと移動して行った。  その隙に私は小さく息を吐く。  紙のように薄っぺらな門兵の顔が振り返った。 「残念ですが、この鞄はあなたの物では無いようです。夢と希望はカケラも入っておりません」    
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