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鞄 5
隣の部屋にはロッカーのような物でもあるのだろうか。門兵はこちらからは見えない壁のあたりに手をやって、何かゴソゴソやっている。そして私の書いた遺失届出書と見比べて……。
もしかして……あるの? 私の鞄。
本当に天使のように清らかな心の持ち主が鞄を届けてくれたのかもしれない。
ありがとう。天使さん。
「もし、あなたの鞄が落とし物として届けられた場合、お受け取りになるには、身分証明書が必要になりますが、お持ちですか?」
門兵の言葉に、冷たい汗が背中をつーと伝って行くのを感じた。
正に、天国から地獄とはこの事だ。
そうだった。唯一の身分証明書である保険証はサイフの中だ。私は免許証もパスポートも持っていない。そもそも家の鍵も鞄の中だ。家に入れなければ何も持ってくる事はできない。私の持ち物といえばペラペラのサブバッグと、すっかり冷めてしまったペットボトルのほうじ茶だけなのだった。
テーブルクロス引きのように、サッと交番の床が引き払われ、私は何も無いところにぽっかりと一人で浮かんでいるような、そんな気分になった。
見てはいけない。足元を見た途端、私は奈落の底に転がり落ちてしまう、どうしてもそんな気がしてきて、全身の毛穴が逆立つのがわかった。
改めて専業主婦という立場の心許なさを感じた。証拠が無いのだ。私という証拠が。
私という人間の存在価値はあんな鞄一つで否定されてしまうのか……。
鞄を手に入れる為には、私という存在を証明してみせなければならない。けれどその為には、唯一の証拠である鞄が必要なのだ。
そして、その鞄は門兵の手の中にある。
私は一生、交番の中から出る事ができないのかもしれない。
もしかしたら世の中の行方不明者の多くは、私のように、うっかり鞄を失くしてしまい、元の世界に戻る事が出来なくなってしまっているんじゃないだろうか。
唯一の存在証拠すらも失くしてしまい、時の狭間を一生漂い続ける、現実世界を形作るのにさして必要とされない人々......。
ここにいるのは警察官ではなくて、時空の扉の番人。存在価値を持たない人間を排除する為にここにいる……。
いやいや、そんな訳無い。大丈夫。ここはただの田舎のごく普通の交番だ。私の足の下には、殺風景なコンクリートの床が広がっていて、キチンと私のずっしりとした体重を支えてくれている筈だ。
私は自分にそう言い聞かせながら、唯一の自分持ち物であるサブバッグとほうじ茶を抱きしめた。
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