あらずや

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あらずや 「君、それ本気で言ってんの?」 正面に座る男性から発せられた言葉に困惑の色を感じてしまって、私は身を縮ませる。やっぱり言わなきゃよかった。そんな考えが頭をよぎった。『大丈夫ですか』なんて。しかも、今はバイトの面接中である。 「すみません」 「あー、いや。怒ったワケじゃないよ。有望だなぁと思っただけだ」 「?」 「見えてるよな」 男性に断言されてしまって、私はつい視線を逸らしてしまった。それは、その発言が図星であったからだし、そのことが私にとっては隠すべきことであったからだ。 私は他の人には見えないものが視える。 所謂、霊感体質というやつだ。このオカルティックでアヤシイ才能の為に、私は今まで要らぬ苦労を強いられてきた。 「...」 「...えっと、矢立茜ちゃん、だったか。」 不意に黙ってしまった私を、男性はしばらく見つめた後、にっこりと笑って言った。 「採用だ」 「....えっ、いいんですか?」 「? いいもなにも、茜ちゃんみたいないい人材は探したってそうは見つかんないよ。」 「えぇ?ぼ、私、その、ちょっと、変ですし...」 「ふむ。その『変』というのが、君が彼ら《・・》を視て、聞き、触れることを指すのであれば、なんら問題ない。むしろそこがいい。この職場にぴったりだろ?」 そう言って男性は私に笑いかけるが、私にはなんのことだかさっぱりだ。 「ええと...」 「おいおい、しっかりしてくれよ。これから働く場所だぞ。」 男性は座っていた革張りのソファから立ちあがり、部屋の奥、窓の側に向かった。くすんだ色のカーテンを掴んで、一気に開ける。丁度、朝日が昇る頃合らしく、ビル街の向こうの空は紫がかっていた。中と外を遮る窓には、窓一枚につき一文字、裏向きのひらがなが書かれている。 「ここは『あらずや』。どこにでもあって、どこにも無い場所。人と妖怪の共存を目指す場所。」 人と、妖怪。共存。突然そんなことを言われて、私はぽかんと呆けてしまった。そんな僕に構わず、男性は続ける。 「俺は店長の彼谷夢垂(かれやむすい)だ。これから宜しく。茜ちゃん。」 **** 私と彼谷さんは再び、机を挟んで向かい合って座っていた。採用は決定だけれども、色々話をしなければならないらしい。私としても聞きたいことが山ほどあった。 「そうだな...。とりあえず、この子の説明かな」 彼谷さんは自分の肩を、正確には肩に乗っかる生き物を指し示した。その生き物は長い鼻にしわくちゃの顔、四肢は短く、白い模様が黒い体にぐるりとお腹を彩っていた。遠目に見れば可愛いと言えなくもないのだろうが、今にも人を殺しそうな目付きの悪さがすべてを台無しにしている。 「この子の名前はインク。俺の相棒。獏っていう妖怪の一種だよ」 「獏、っていうと...夢を食べる?」 「ま、そんな感じ。獏は夢を司る妖怪だ。ああ、悪いヤツじゃないからさ、そう警戒しないでやってくれ」 「そう言われても...」 私にとって、妖怪というのはできるだけかかわり合いになりたくないものだ。危ないし。そう思うからこそ、私は最初に彼谷さんに大丈夫か、と問いかけたのだ。そこには忠告の意味も多分に含まれていた。そんな危ないのを連れて大丈夫かと。 「んー...、まあ、いいか。徐々に慣れていってくれたらいいから」 「すみません」 「いいよ、いいよ。じゃ、仕事の説明に入ろうか。そんな大層なモンじゃないけどさ」 カーテンが開きっぱなしで、夜明けの光が室内に入り込む。インクが退屈そうに大きな欠伸をしていた。 彼谷さん曰く、この世には妖怪と呼ばれる者達が存在しているらしい。彼らは限られた人にしか見えないけれど、確かにそこに居て、僕が今まで見てきた者たちもそうした者たちなのだそうだ。 「彼らの大半は悪い存在ではないんだよ。でも、多くの人は彼らを認識できないし、生活をしていれば、色んなトラブルが起こる。わかるかい?」 「ええ、まあ」 「そんなトラブルを依頼を受けたり受けなかったりしながら、相談にのったり、交渉したりしながら、万事解決。人と妖怪の穏やかな生活の手伝いをする。これがあらずやの仕事だ」 「はぁ...」 ニコニコしながら彼谷さんは説明する。とても楽しそうだ。その場から緊張感とか諸々を追っ払ってしまう笑顔だった。自然と肩の力が抜ける。どうしてこんなことに、と思わない訳ではなかったけれど、同時にやるしかないんだろうなぁ、なんて諦観もわいてきた。そんな私の気持ちを知ってか知らずか彼谷さんは話を続ける。 「詳しい仕事内容は実地で教えるとして...何か質問は?」 「えっと、危なく、ないんですか?」 「全く危険が無いとは言えないけど、そんな危険な仕事を任せるつもりはないよ。職員の安全には十分配慮しているし、危険な仕事を無理強いすることもしていない。俺もこの仕事を何年もしているがこの通り無事だしね。」 「なるほど...」 「他には?」 「えっと、彼谷さんは、人間、でいいんですよね?」 「どうだろうねぇ」 思わず一歩下がって、彼谷さんから距離を取る。失礼なことをしてしまったと思ったが、距離を詰める気にはならない。彼谷さんは特に気分を害した風でもなかった。 「うんうん、他は?」 少し言葉につまる。あらずやは人と妖怪の共存を目指す場所だと言っていた。妖怪は悪い存在ではないのだとも。だけど、私は彼らが怖いのだ。なんで、私はこんなところに。 「...私に出来るでしょうか...?」 「大丈夫だよ」 「でも、」 「君が妖怪という存在を忌避していることは知っている。それでも、俺は大丈夫だと思うし、少しずつでいいから頑張ってほしいんだ」 そう言って微笑まれてしまえば、それ以上聞く気にもなれなかった。色んな疑問があったはずなのに、いざ訪ねようと思うと形にならない。疑問の輪郭を辿れば辿るほど、それは具体性を失って、霧を掴むような心地であった。結局、もう大丈夫です、なんて言葉に落ち着く。一度そう口にしてしまえば、本当に大丈夫な気になって、疑問を抱いていたことすら、数分後には忘れている気がした。 かくして、私のよくわからない生活が始まったのである。 **** 「わかってねぇ!わかってねぇよ!なあ?!」 目の前に座る老人が湯飲みを飲み干す。ダァンと音を立てて湯飲みが机に戻された。欠けたりしていないと良いのだけれど。 「まあまあ、落ち着いてくださいよ。」 「これが落ち着いてられるかってんだよ!」 老人が息巻いた。差し出された空の湯飲み(なんと彼専用)に私は反射的におかわりを注ぐ。酒ではない。玉露である。私だってこんな酔っ払いみたいな来客に玉露なんぞ飲ませたくないが、腹立たしいことに自然と体が動いてしまうのだ。自分の行動に疑問を抱く時には、既に湯飲みは玉露で満たされている。 老人はぬらりひょん。名を太郎という。簡単にいうと、人様の家に上がり込んで、茶をしばいて帰る妖怪である。 「儂らぬらりひょんってのはなぁ、無害なもんさ。人様の家に、ちょちょいとお邪魔して、茶を一杯貰うだけだ。誰もおかしいなんて思わねえ。ぬらりひょんってのはそういうもんだ。それで儂がいなくなって、よぉやく、おや頭数が合わねえなって寸法よ。いたはずのやつがいねぇが、誰もそれが誰かわからねぇってな。ありがちだろ?」 「はぁ」 「それがどうだ!最近の家は!!防犯だなんだってんで、儂が入る隙なんてありゃしねぇ!おれになぁ、特に、あいつはいけねぇよ、ホラ、おーとろっくってやつはさ。ありゃ、風情もなんもありゃしねぇよ。カラクリで儂みたいなんも締めだしちまって。玄関にすらたどり着けねぇと来たもんだ。そう思わんか若いの!」 「そうですねぇ」 これが私の初仕事だ。太郎さんの愚痴を聞くこと。私の体感的にはかれこれ一時間、太郎さんは喋り続けている。太郎さんがちらりと僕に目線を向けた。 「若造、客人に対して茶菓子の一つも出せんのか?」 「あ、すみません」 慌てて、タンスから煎餅を出して、皿に載せて差し出した。 「フン、煎餅が。しけとるな。儲かってないのか?」 文句を言いながらも、煎餅をバリボリと食べる。太郎さんが二枚目を食べ終わった辺りで私はようやく正気に戻った。なんだってこんな奴に茶菓子なんか!! これはなにか一言いってやらねばなるまいよ!! 決意を込めて目線を前に向けると太郎さんと目があった。すっ、と空の湯飲みが差し出される。おや、もう飲み終わったのか。お代わりの為に急須を持ち上げれば、やけに軽い。もう残りは少ないようだった。 「ちょっと待っててくださいね」 太郎さんにそう言いおいて、新たに茶を淹れる。茶葉を入れて、お湯を注ぎ、じーっと待つ。ここで間違っても揺すったりしてはいけない。自然と茶葉が開くまで我慢だ。最高のタイミングを見極めねばならない。こだわりはじめてしまえば、お茶汲みって結構大変なのだ。 ........今だ!! 一瞬の隙を逃さず、熱々のお茶を湯飲みに注ぐ。我ながら最高のタイミングだった。あれを逃すとお茶が渋くなっちゃうからね。ついでに空になっていた自分の湯飲みにも注いで、ちょっと飲む。うん、いいお味。 「....違うでしょ!!!」 ダァンっと湯飲みが机に叩きつけられる。今度は僕の仕業だ。太郎さんが白々しくも驚いてみせた。 「おいおい、どうした?湯飲みが欠けちゃうぞ」 「なにしに来てるんですか、アンタ...」 「ひどい言い種だな。ところで茶菓子がなくなったぞ」 「ああ、すみませ....ちがう!!」 ああもう!!ままならない!!苛立つ私を太郎さんは楽しげに見つめている。ちくしょう、なんだってんだ!! 太郎さんは実に良い笑顔を浮かべて言った。 「いやぁ、やり甲斐あるわぁ」 この!!クソ爺!!! **** 「まぁまぁ、太郎さん。あんま虐めんでやってくださいよ」 太郎さんに遊ばれることさらに30分。ようやく彼谷さんから助け船が来た。もっと早く助けてくれよという言葉をなんとか押し止める。一応相手は上司なので。 「悪い悪い、楽しくってなぁ!」 「そりゃ、何よりですねぇ。確かに顔色も来たときより良さそうだ」 「そうか?そうかもな!」 ガハハハハ、と大爆笑。確かに来たときよりも格段に元気で明るくなっている気がする。代わりに私は疲れはてているけれども。 また来るわ、と言い残して。太郎さんはドアから出ていった。ドアの向こうは濃い霧に覆われていて、数歩で太郎さんの影すら見えなくなった。 「いやぁ、素晴らしい仕事だったよ。俺じゃこうはいかない」 「そうですか?振り回されてただけなんですけど...」 「それがいいんだよぉ。俺じゃからかい甲斐がないだろ」 彼谷さんが机に残った湯飲みを手早く片付けて、マグカップを2つ取り出した。しばらくして、たっぷりとココアを入れて戻ってくる。そろそろ暑くなってくる季節だが、朝早くのこの時間帯はまだまだ寒く、暖かいココアがちょうどいい。 「太郎さんが仲良くしてた爺さんが最近墓に入ったらしくって、寂しいのさ。程よく相手をしてあげてよ」 「はあ」 「あの人、タフだから。じきに元気になると思うけどね」 「十分元気に見えましたけど」 「俺らからはそう見えるけど、付き合いの長い奴らからするとそうでもないみたいだよ。実際、彼らからの依頼で俺らは動いたわけだし」 「依頼ですか」 「うんうん。やっぱりトラブルに最初に気付くのは近くにいる奴達だから、なんとかしてくれーって依頼を受けてるんだよね。今日みたいなカウンセリングから荒事まで手広くやってんの」 本当は俺達で気付きたいんだけど、と言って彼谷さんはココアを啜る。ズズズ、と大きめの音にインクが嫌そうな顔をした。 「『あらずや』は彼谷さんがお一人でやってるんですか?」 「いや?何人かいるよ。茜ちゃんも機会があれば会えるんじゃないかな。」 「紹介はしてもらえないんですか?」 「んー、俺は茜ちゃんの担当だし」 「はあ...」 いまいち要領を得ない。まあでも、そこまで知りたい訳ではなかったし、私はこれ以上尋ねることはしなかった。それに、よく分からないことは他にも沢山あって、これはその中では些末な部類だったので。 「そう言えば、ここはずっと朝ですね」 「朝日って綺麗でしょ?」 ここではよく分からないことが沢山ある。私に出来るのは、見て見ぬ振りで、そういうものだと納得するだけである。そうしていれば、きっといつか、この時間も忘れることが出来るから。 ***** 『あらずや』で働き始めて数日、あるいは数時間(なにせいつも朝なので時間が分からない)。徐々に私もこの場所に慣れ始めて来ていた。なにせ、この『あらずや』、意外と忙しい。仕事じゃないようなお客がいっぱいくる。体のいい休憩所扱いされてるんじゃないかと心配になるくらいくる。そうなれば、お茶汲みやら来客の対応やら、私の仕事はたっぷりで。そりゃあ、緊張してばかりじゃいられないってものだ。ぬらりひょんの太郎さんに人面犬のポチ、欠けたお茶碗の付喪神の米田さん、エトセトラエトセトラ。しかも皆揃って私を驚かせにくるから心臓にも悪い。ちなみに彼谷さんは、てんてこ舞いの私をケラケラと笑いながら見物していた。 そして、私はふと気がつく。 あれ、この人、仕事してなくない...? 「いやぁ、千客万来だなぁ」 「ホントですねぇ...」 「不満げだな。忙しいことは良いことだよ」 「彼谷さんも、お忙しいんです...?」 「なにを言うんだ。俺は今世界で一番忙しいといっても過言じゃないくらい忙しいぞ」 そう言って、彼谷さんは白々しくも優雅にココアを啜る。ズゾゾゾーーという音がやけに腹立たしい。 「はぁー」 「ため息をすると幸せが逃げるんだってさ。早く捕まえた方がいいよ」 「逃がしてやればいいんですよ。最近の流行りはキャッチアンドリリースなんですよ。たぶん」 「...茜ちゃん、意外と面白いな。見直したよ。インクがいなかったら、コンビを組まないかと誘っていたところだ」 「どうも!!」 真面目で凛凛しい彼谷さん像が音をたてて崩れていく。おのれ、猫を被ってやがったな。ガックリと力が抜けて、テーブルに突っ伏した。さっき磨いたとこだとか、知ったことじゃない。どうせ磨き直すのは私である。 「...ん?」 下がった視線の高さに、ちょうどテーブルカレンダーがあった。今まで特に気にかけていなかったそれを眺める。あちこちに書き込みがされていて、半ばスケジュール帳のような扱いであることが伺えた。過ぎた日付は黒のマーキーで斜め線が入れられている。その日付が目についた。まだ消されていない、今日と明日。今月はこれで終わりとなっている。 「? どうかしたかい?」 「いえ、別に。明日が誕生日だってだけです」 「ありゃ、そうなの。淡白だねぇ。誕生日っていやぁ、もっとはしゃぐものでしょ?ホールケーキとか買わないの?」 「いやぁ、猫がいるだけの独り暮らしなんで、ホールはきっついです。あとはしゃぐ歳でもありません」 「いくつだっけ」 「今、19です」 「じゃあ、次でハタチか。めでたいじゃないか。おめでとう」 「ありがとうございます」 それで会話は終了した。 私は残っていた仕事に取り掛かる。事務所の本棚に山と積まれた書類の整理である。左上の日付の古い順に並べ直すだけなのだか、書類たちは順番もしっちゃかめっちゃかで、ファイリングもせずに本棚に無造作に突っ込まれただけなので、それはもうエライことになっている。山という表現すら生温い。もはや書類のウラル山脈だ。あと、この感じは何回か書類の雪崩が起きているはずだ。間違いない。 「どうしろってんですか、コレ...」 「...多少ましにしてくれればいいから...」 「マシって、ちょっと触ったら大雪崩ですよ。遭難しますよ。ウラル山脈舐めちゃダメですよ。」 「ウラル山脈?」 「気にしないでください。こっちの話です」 とりあえず、出して、しまう。それしかあるまい。私は山頂付近に恐る恐る手を伸ばした。私の背丈なら、ギリギリ頂上に手が届く。書類を一山を手にとって、一先ず机に避難させた。さらにもう一山取る為、本棚に近づく。しかし、本当に手付かずだったらしい。ちょっと触っただけで、埃が.... 「へっくし」 高いところの物を取る為の不安定な体勢で、くしゃみをするとどうなるか。そう、転ぶのである。さらに転んだ先に今にも崩れそうな書類の山があったらどうなるか。そう、エライことになるのである。 A4の紙一枚の重さが、ざっくり4g。百枚で400g。千枚で4kg。一万枚で40kg。お分かりいただけるだろうか。この大変さが。 まず、多少の怪我を覚悟した。まあ、元を正せば彼谷さんが整理をサボったからとはいえ、一応自分の不注意の結果であるわけだから、自業自得と言えるだろう。とりあえず、倒れた先に危ないものがないことを祈るばかりである。 次に、頭と顔を庇った。考えてどうこうの行動ではなく、ただの反射だが、花も恥じらうハイティーンが顔にでっかい傷をこしえるわけにもいかんので、咄嗟の割にいい選択だったと思う。 ここまでやって、衝撃に備える。床にあたるのも痛いだろうし、降り注ぐ書類もきっと痛い。嫌だなぁ。 だが、その衝撃はいつまでたっても来なかった。 「...?」 おっかなびっくり目を開けると、眼前五ミリに書類の山が。私も書類も一時停止したみたいな不自然な体勢で、ピタリと止まっていた。彼谷さんの声が聞こえる。 「...さすがに、ビックリした。インク、ありがとう」 私はフヨフヨ浮いて、本棚から離れた場所に着陸。書類の山は本棚の中に勝手に戻って、ウラル山脈を再形成していた。私はそれを唖然として見つめる。そうしている間にも、書類はすべてを本棚に収まって、それからバフンという間抜けな音と煙を出して消えてしまった。 「...ありがとうございます」 「どういたしまして」 「インク...さんって凄い子だったんですね」 「別にさんはいらないから。うん、まあ、インクは凄い子だよね。よく知ってる」 さっき彼谷さんの台詞から、これがインクの仕業なのだと、予測はつく。話によればインクは夢を司るという獏の妖怪だったはずだが、こんな力もあったのだろうか。 フンス、とインクがどこか自慢げに鼻を鳴らした。これくらい朝飯前だと、そう言いたかったのかもしれない。 **** 「パトロール行くよ」 きっかけは彼谷さんの一言だった。私は書類を綺麗に並べ直しながら、ぞんざいに答える。 「そうですか。お気をつけて」 「茜ちゃんも行くんだよ」 おや。意外な言葉に少し驚いて、彼谷さんに目線を向ける。 「私もですか」 「うん。そろそろいいかなって」 「一生出れないかと思ってました」 「まさか。そんなわけ無いでしょ」 「あはは」 相変わらず時間の感覚は曖昧で、随分長い時間過ごしたような気もするし、ともすれば一時間もたっていない気がする。不思議とお腹は空かないし、全然疲れない。それでも、居心地が悪くないものだから、ずるずると仕事を続けていた。 「パトロールはいいんですけど、ここからどうやって出るんです?」 窓の景色から推察するに、結構な高層階。唯一のドアの向こうは深い霧に覆われている。お客はこの霧からやってくるし、帰っていくが、自分がこの手を伸ばせばその手が見えなくなりそうな霧に突っ込むのは、ちょっぴり怖い。 いい感じに霧を晴らしてくれないかなぁなんて思っていたら、それを察したのかただの偶然か、彼谷さんはいつもと同じように笑いながら指示を出した。 「目を閉じて」 体感三秒。特に異変も予兆も感じなかった。ただ、空気が変わった。インク(妖怪じゃないほう)の匂いが強かった事務所から喧騒が近い外の空気へ。雨上がりなのだろうか、独特の香りが冷たい風と一緒に頬を撫でた。 「もういいよ」 そう言われて目を開ける。予想に違わず、事務所は跡形もなく消えて、私は活気に溢れた商店街の入り口に立っていた。 「すごいですね」 「インクがね」 これもインクの所業らしい。どこまで有能なんだ彼女(?)は。獏にしてはちょいと万能過ぎやしないだろうか。 「パトロールするよ。この商店街の端までいって、戻ってきます」 「それだけですか?」 「それだけです」 パトロールというかお散歩だ。たぶん、新人を連れていくならそれぐらいがちょうど良いのだろう。とりあえず納得して、先に進む彼谷さんのあとを追った。 「よう久しぶりだな!」 「どうも徳助さん。もう腰は大丈夫ですか」 「バッチリよ!」「あら、夢垂ちゃん!その子が、前に言ってた子?」 「やあ、ケイコさん。そうなんですよ。仲良くしてあげてください」「彼谷!」「あ、やあ」「わあ!」「最近来なかったねぇ!」「ねぇ、新作があるんだけど」「ごめん後で!」 ワイワイガチャガチャ。彼谷さんは人気者らしく、数歩歩けば誰かに話しかけられるといった感じだった。ビックリするくらい前に進まない。最初のうちは彼谷さんも私を気遣って皆に紹介したりしてくれていたのだが、すぐにそんな余裕もなくなった。今は聖徳太子も裸足で逃げ出す有様だ。いっぱいいっぱいの彼谷さんは珍しくてちょっと面白い。 私はそっと輪から離れた端っこで待機している。予想通りというかなんというか、この商店街も道行く人も妖怪ばっかりだし、売ってるものもちょいちょいおかしい。その藁人形は一体何に使うのか。さしずめ妖怪横丁といった感じだ。だいぶ慣れてきたとはいえ、妖怪に苦手意識を持つ私としては、申し訳ないけれど、ちょっと離れていたいところ。 「あの」 「はい...ヒギャ!」 ツンツンと後ろから突かれて、無警戒に振り向いたのが間違いないだった。目も鼻もない、所謂のっぺらぼうが目の前にたっていて、情けない悲鳴を上げてしまった。ドキドキしている胸を押さえて深呼吸。その間、のっぺらぼうさんは大変満足げに私を待ってくれていた。 「...失礼しました。落ち着きました。」 「いえいえ、妖怪としては理想的な反応でした」 働いて気付いたことなのだが、人を驚かせるのは、彼ら彼女らにとってはポピュラーな趣味であるらしい。ちょっと悪戯して、怖がらせて、反応を見ては楽しんでいるようだ。実際目の前ののっぺらぼうも見た目は私と同じく位の女の子だが、私の反応に嬉しげである。 「はぁ。それで、どんなご用でしょうか」 「用事は特にないんですけど、噂の茜ちゃんがどんな子なのか見ておこうかと」 「噂になってるんですか?」 「そりゃもう。彼谷さんが一ヶ月も前からあちこちで仰ってましたから。歓迎会の用意が出来てますよ」 「そんなことになってるんですか?!」 そんな周到な準備がされていたなんて。なんだか申し訳ないぞ。驚いていると、いつの間にやら輪を脱出していたらしい彼谷さんが私の肩に手を置いた。 「宴会だ!!」 ***** 女が三人集まるとなんとやら、とはよく言うが、別段女に限らずとも、頭数が揃って、うまい料理があれば、場が盛り上がらないの方が不自然だ。そこに酒がはいるならもう怖いものはない。つまり、商店街全体を巻き込んだ大宴会が開かれていた。パトロールなんて方便だったわけだ。皆して道の真ん中に敷物を敷いて、重箱を置いて、あちこちの店から色々と持ち寄って、飲めや歌えやの無礼講だ。ここまでくると、私の歓迎会なんて建前は大半の頭からは抜けているに違いない。 ギリギリ未成年なので、端っこでオレンジジュースを飲んでいた私なのだが、常に誰かしらが構ってくれるので退屈はしなかった。ろくろ首のケイコさん。ぬらりひょんの太郎さん。人面犬のポチとポチの彼女のペコ。その他大勢である。さっき話したのっぺらぼうの小雪ちゃんなんかはずっと隣で飲んでくれている。真面目だなぁなんて顔に出さないように考えた。彼谷さんに頼まれでもしたのだろう。 「小雪ちゃんはお酒飲めるんですね」 「こんな見た目ですけど、長生きしてますからねぇ」 「え、そうなんですか?」 「妖怪は大抵長生きですよ。私なんて...歳は内緒にしときましょうか」 「えー」 「ふふふ、ダメですよ」 きゃらきゃらと他愛ない会話が続く。顔はないが小雪ちゃんの感情は意外と読み取れた。急に宴会だ、なんて言われた時はどうなることかと思ったが、案外どうにかなるものだ。酒の力だろうか。飲んでないけど。 ポチが小雪ちゃんの膝にすり寄った。こうしていれば普通の犬みたいだ。 「いいですねぇ。私も動物に懐かれたい」 冗談混じりに言えば、ペコがそっと近寄って来てくれた。わあ、可愛い。小雪ちゃんがポチを撫でながら、意外そうな声を出した。 「茜ちゃんも動物に嫌われるタイプには見えませんけどねぇ」 「いやぁ、私、飼ってるにゃんこに嫌われちゃってますもん」 「あら、どうしてです?」 「全然近寄って来てくれません。半径5メートルに来ないんです」 「あらまぁ」 「祖母が子供の頃から、うちにいたそうですし、私みたいな小娘は嫌いなんでしょう」 「...そんなことはないと思いますよぉ」 ペコが私のお腹に頭を擦り付ける。ペコの毛皮があまりにもふわふわモフモフなので、飼い主の手入れが行き届いてるなぁ、なんて脈略なく思った。 ***** 「楽しそうだね」 混ぜてよ、なんていいながら彼谷さんが近くに座る。珍しいことにインクなしだ。遠目にみる限りかなり盛り上がっていたように思ったのだが、彼谷さんにお酒の気配はない。強いのか、そもそも飲んでいないのか。小雪ちゃんがさりげなく席を外した。 「ええ、まあ、楽しいです」 「そりゃ良かった」 どちらともなくグラスを傾ける。商店街は屋根が空を遮るので、天気も時間帯も判然としない。宴会の雰囲気のせいかなんとなく夜っぽい気分になるが、どうせ朝なのだろう。見渡す限り妖怪達が騒いでいて、人間はいない。 「...そういえば、彼谷さんって結局どっちになんですか」 「どっちとは?」 「人か、妖怪か、です。」 「一応人間だよ」 「それは良かったです」 「妖怪だったら嫌だった?」 「...悩ましいですねぇ」 お喋りして、悪戯されて、ご飯を食べた。表面上なら仲良くできる。それでもやっぱり溝は深い。それは私が勝手に引いてしまった一線なのだけれど。申し訳ないと思ってはいる。 「...どうしてなんでしょう」 ポツリと漏れた声に彼谷さんは小さく眉を上げただけだった。 「小雪ちゃんもポチも太郎さんも悪い人じゃないのはわかります。なのにどうして」 私は彼らを心のどこかで忌避してしまっている。 「...多くの場合、妖怪を嫌いになる原因は教育か、過去のトラウマに依るものが多い」 「?」 「川に1人で行くとカッパに襲われる。押し入れには怖い魔女が住んでいる。狐に騙された。夜道でのっぺらぼうに遭遇した。小さい時から、色んな話を聞かされる。そこには教訓の意味合いもあったりするわけなんだけど、妖怪が悪者にされちゃうことが多い。そういうのが積み重なって、妖怪は悪者だって思っちゃうわけだね」 「なるほど」 「あとは、昔に妖怪に襲われたってパターン。どっちが厄介かは場合によりけりかな」 「どちらも違う気がします...」 両親は子供になにかを教えるのに、彼谷かんが言うような手段を取る人ではなかった。怪談の類も好きじゃないからとんと縁がない。妖怪に襲われた、何て言うのはなおのこと無い。 「そう決めつけるのも早いんじゃない。人の記憶は案外都合よく出来てるもんだ」 ***** 彼谷さんはまたどこかに行った。しばらくして小雪ちゃんが戻ってくる。後ろ手になにかを隠し持っているらしい。 「すみません、遅くなってしまって」 「いえいえ」 「あの、誕生日がもうすぐだって、聞きまして」 差し出されたのは、薄いピンクのプレゼントらしきものだった。リボンなんかで可愛らしくラッピングされている。 「こんな、わざわざ...いいんですか?」 「もちろんです!」 受け取らないのも失礼だろうと考えて、手のひらでプレゼントを転がす。中身はなんだろうか。 「開けてもいいですか?」 「どうぞ」 許可ももらったので、遠慮なく開ける。出てきたのは手の平サイズの小瓶。中身は金平糖だ。商店街の照明を受けて、キラキラと輝いて見えた。 「わあ」 「綺麗ですよね」 「ええ本当に」 これは食べるのがもったいなくなる。随分、素敵なものをもらってしまった。 「ありがとうございます」 「どういたしまして」 なんだか面映くて、顔を見合わせて二人でクスクスと笑いあった。 「ありゃ」 金平糖を袋に戻そうと思って、ふと気が付いた。中にまだなにか入っている。さっきはなかったはずなのに。首を捻りながら反射的に中身を手の平に出した。 またしても手の平サイズの丸くて平べったいものだった。黒地に金で蝶や花が繊細に描かれている。 「鏡?」 裏面が出てきたものだから一瞬、なにか判断しかねたけれど、形状やサイズ感から手鏡なのだとわかった。若干の使用感はあるものの、とても綺麗にな一品だと思う。半ば無意識にひっくり返した。ほぼ同時に小雪ちゃんが焦ったように私の手首を掴む。 「それはっ!」 ***** いつの間にか閉じていた目を開けて、一目でまずいとわかった。いかにもな、見覚えのない景色とか、肌に絡み付く視線とか、色々理由はあるけれど、一番はここが夜であるということだ。延々続いた朝ではない。それが何より不安を煽った。とっさに彼谷さんの姿を探したけれど、やっぱりいない。見覚えのない細くて暗い路地裏で、一人ぼっち。自然と浅くなる呼吸を意図して深くした。 「落ち着け」 ここで取り乱しても良いことは無い。冷静にさっきまでの子とを思い返した。 小雪ちゃんに誕生日プレゼントをもらって、気づかないうちに袋に鏡が入っていて、それで。 記憶を辿るだけで、なぜか寒気がして自分を抱き締めた。そう、確か、鏡面を見たのが、最後の記憶だ。あれを鏡面と呼んで良いのか自信がないけれど。本来なら相手を映すはずの鏡は濁ってその役目を果たしていなかった。紫色にーーたぶんクレヨンだろうーーに塗り潰されて、ひどい有様だった。なんだって、あんな様子に..... ? なにかが記憶の琴線に触れた。なんだ、なにかを知っている。ずっとずっと、小さい頃に、聞いたのだったか。 『紫の鏡』 小さな女の子がお母さんの鏡に悪戯してしまって、二十歳の誕生日に怒った鏡に拐われてしまった。たしか、そんな話だった。今思えば、ものを大事にしましょう、みたいな教訓話の意味合いもあるのかもしれないが、この話は趣味の悪い続きがあって、故に怪談の色味が強かった。 この話を二十歳まで覚えていると、鏡に連れ去られてしまうのだ。 「...っ」 途端、あちこちから影がずるりと現れた。建物同士の細い隙間、煤けた室外機の裏、軒下のネズミ穴。あらゆる場所から現れる。粘度のある闇が人の形を取ったもの、といった体で友好的出ないことだけが嫌になる位伝わってきた。 踵を返し、駆け出す。捕まってやるつもりは欠片も無かった。 『この先左』『チミカチ』『抜けられ□』『行き止まり』 やたらに多い案内板がかえってややこしい。細かな横路を全部無視して、ただまっすぐ走った。 「は、」 荒く息を吐く。元々そこまで活発なタイプではない。体力の限界はそう遠くはないだろう。まだ19なのに、なんてぼやく。実際のところ、『あらずや』ではいつも朝だったから、正確な時間はわからないままだった。いつの間にか日付を跨いでいたとして、何ら不思議ではないことくらい、わかっている。 不意に手をひかれて、半ば倒れ込むように横道に引っ張りこまれた。咄嗟に抵抗しようとしたけれど、あっさり押さえられる。 「落ち着いてください!小雪です!」 「え」 「合流できて良かった。まさか茜ちゃんが紫の鏡に目をつけられてたなんて。もう彼谷さんには連絡したのでじきに迎えが来ると思うんですけど、でもいくらインクちゃんでもコレは時間がかかるかも」 小雪ちゃんも焦っているのだろう。こちらの反応を待たずに捲し立てる。息を整えながら、状況を整理する。要は助けが来るまで逃げ続ければ良いということらしかった。 いつまでも逃げ場の少ない横道にいるわけにもいかない。一通り状況を確認して、さっさと逃げることになった。小雪ちゃん曰く、さっきから走っていたメインの道をまっすぐ進むと比較的安全な場所に出られるらしい。そこなら彼谷さんもすぐに助けられるのだそうだ。 壁に背をつけて、タイミングを伺う。幸い、追っ手達は感覚気管が鈍くできているようだったが、なにせ数が多い。どうしたって見つかってしまいそうだった。 「どうしようか...」 「...茜ちゃん」 声をかけられて振り向くと、小雪ちゃんが髪をおろしていた。そして上着を脱いで、私に渡す。 「私があいつらを引き付けておきますから、先に逃げてください」 「ダメですよ!」 突然の提案に驚いた。そんなことさせられる訳がない。 「大丈夫です。後ろ姿ならかなり似てますよ、私達。やつらの狙いは茜ちゃんですし、危険はそんなにありません」 「でも!」 止めようとする私の唇に小雪ちゃんが指を置いて黙らせる。初めて会ったときと同じ、優しげな笑顔だった。 「...実は私、『あらずや』の職員なんです。だから、多少の荒事は慣れてます。どんと任せちゃってください」 そのまま止める間もなく走っていってしまった。後ろ姿は本当に私にそっくりだ。まんまと騙された影たちが小雪ちゃんを追いかけて、私の周りには誰もいなくなった。 「...っ」 泣き出しそうなのを堪えて走る。私にできるのはさっさと保護される位しかない。足が疲れて、小雪ちゃんが心配で、走るのをやめてしまいそうになる。どこまで走っても同じ光景で、ちゃんと進めているのか不安になった。 進む先に追っ手が見えて、間一髪道端の大きな狸の像の裏に隠れた。小雪ちゃんが大部分を引き受けてくれたとはいえ、全ては無理だったということだろう。 ざり、ざり、と追っ手の足音が近づいてくる。ゆっくりとした足取りが心臓に悪い。吐息一つで気づかれる気がして、口元を手で覆った。ざり、ざり、ざり。淀みなく進んでいた足音が、ちょうど私が隠れている真ん前で止まる。心臓の鼓動があまりにも大きく感じて、相手に聞こえないか気が気でなかった。 ざり。 一歩、相手が近付いた。喉がひきつって声が漏れそうになる。また一歩。像の縁に指がかかった。ぬちゃ、と気持ち悪い音が聞こえる。ぬちゃ、とか、べちゃ、とか粘着質な音と共に、追っ手がじわじわとこちらを覗きこもうとする。今から走って、逃げられるだろうか。そもそも、体が動くだろうか。ゆっくり、ゆっくり、真黒な顔がーーー 「無事か!!」 バリバリと、紙を乱暴に破り捨てるような、あるいは壁紙を無理矢理はがしたみたいな音が聞こえた。ほぼ同時に彼谷さんの大声。あとは両方の肩を捕まれる感覚。いつの間にか閉じてしまっていた目を恐る恐る開ける。視界一杯に彼谷さんの心配そうな顔。顔が近い。強く掴まれた肩に感じる痛みで助かったのだと実感しつつ、この人意外とイケメンさんだったんだなぁと新たな発見をした。 「小雪ちゃんが」 色々、本当に色々考えて、言葉にできたのはそれだけだった。彼谷さんは一先ず私が無事らしいことを確認して、ホッと息を吐いていた。 「小雪は無事だ。目立つ怪我もなし。こちらで保護している」 「...良かった」 「まあ、無茶をしたことには変わりないから、今頃先輩方に叱られているだろうさ」 「先輩...小雪ちゃんは『あらずや』の職員なんでしたっけ」 「ああ、荒事とは無縁の事務だけどね。... ちなみに茜ちゃんと仲良くなったことについては、こちらは何も言っていない。彼女本人の意思だよ」 「...わかってます」 今は、の部分は省略した。 「ふむ、とりあえず座ってくれ。話さなきゃならないことがある」 「わかりました」 事務所のソファで向かい合って座る。彼谷さんを見ると、背筋を伸ばして真面目な顔をしていた。 「まず、謝らなくてはならない。俺の不注意で君を危険に晒してしまった。本当に申し訳ない」 深く頭を下げられて、逆に困ってしまった。 「頭を上げてください。彼谷さんのせいではないでしょう」 「いや、俺が気を付けていれば未然に防げた事だよ。これは始末書かな」 彼谷さんが苦笑する。まだやっぱり元気がない。インクがその頭の上に陣取って、呑気に口を動かしていた。今回のこともたぶん彼女がなんとかしたのだろう。つくづく有能な子である。 コンコン、とドアが控え目にノックされる。彼谷さんがどうぞ、と答えた。 「茜ちゃん!」 「小雪ちゃん!」 入ってきたのは小雪ちゃんだった。彼谷さんの言っていた通り、見える範囲に怪我はない。抱きついてくる小雪ちゃんをどうにか受け止めた。 「無事でよかったです!」 「こっちのセリフ!!」 お互いの無事を喜ぶ。彼谷さんはそれをポカンの見つめていた。 「...仲良くなったねぇ」 心底びっくりした様子に、思わず吹き出してしまった。 「そりゃ、命の恩人ですから」 「今回の件で、また嫌われちゃったかもって思ってたんだけど」 だから元気が無かったのか、とちょっと納得した。そして、彼谷さんの心配を解消してあげることにした。 「確かに怖かったですけど、色々助けてもらいました。たがら、手当たり次第に怖がるのはやめることにしたんです」 「...それは、とっても良いと思うよ」 ***** 目を開くと見知らぬ天井、ではなく、見知った天井が見えた。なにせ毎朝見ている。寝ぼけ眼で時計を確認すれば、まだ起きるには早い時間だ。寝返りをして二度寝を決め込もうとして、そもそも寝返りが出来ないことに気が付いた。我が家のお猫様が私の体の上にどっしりと居座っている。普段は近づきもしないのに、どういった風の吹きまわしだろうか。 彼女はじいっと私を見つめてから、尻尾を尊大に何度か揺らした。いつの頃からか二股に分かれたという彼女の尻尾はいつでもふわふわである。 「お寝坊ですよ。ご主人。」 猫が喋った。 唖然とする私を彼女は冷たく見下ろしていた。今日は槍が降るかもしれない。いつもは寄ってこない猫が上に乗ってくるし、さらには喋った。 「なにが寄ってこないですか。私を避けていたのはご主人でしょうに」 彼女は不満げだ。なにかご機嫌を損ねてしまったらしい。彼女はわざとらしく私の顔を踏みつけて、枕元になにかを落とした。確認してみれば、キーホルダーだった。ふわふわの装飾が彼女の毛並みのようで触り心地抜群だ。 「えっと、ありがとう?」 プイ、と彼女は横を向いたまま返事をしない。だが、どこかに行ったりはしないということはこの対応で合っていたのだろう。 徐々に頭が働いてきて、今までの常識と目の前の非常識、そしてついさっきまでの体験が刷り合わさって、一つの結論が生まれていく。 夢を司る妖怪の獏 依頼を受けて動く『あらずや』 不思議なあの空間 やたらに万能なインク 寄って来なかった、いや、近寄れなかったうちの猫 直接渡されたプレゼント 『どこにでもあって、どこにも無い場所。人と妖怪の共存を目指す場所。』 「わたしは、バイトじゃなかったんですね」 小さな呟きに彼女は敏感に反応した。 「何か?」 付かず離れずの距離感に少し笑ってしまう。今まで、えらく気を遣わせてしまったらしい。彼女はたぶんお礼を望まないだろう。この短い会話でも素直になれない性格がわかる。 「ううん。ちょっと変な夢を見ちゃって」 「...評判通りみたいで安心しました。早く目を覚ましてください。散歩に行きたいんです」 「はいはい」 窓から朝日が入り込む。すっかり見慣れてしまったそれに目を細めた。 「本当に、変な夢だった」
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