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番外5 森の中の二人
「リザ、どこだ!」
エルランドは森を探す。仕事から戻ったと言うのに、迎えてくれる小さな妻がいなかった。
ニーケやターニャ、アンテも気がつかないうちに、城を抜け出したというのだ。
『ほんの少しだけ森に行ってきます。見たいところがあるの。まだお昼だし、バネッサがいるから大丈夫』
そんな置き手紙を残して。
「今、コルが探しに行っています」
ニーケとアンテが心配そうに言った。
「俺も行く!」
言うが早いか、エルランドはさっき降りたばかりのアスワドに飛び乗った。
バネッサはリザによく懐いている大人しい雌馬だ。歳はとっているが賢いので、自分の知らない場所に行くようなことは決してない。リザも自分が軽率な行動を取る立場ではないとわかっているはずだから、そんなに遠くにはいかないはずだった。
だが、何事にも絶対ということはない。
エルランドは焦燥を感じながら、リザが行きそうな場所へとアスワドを駆り立てた。
リザは賢い。
エルランドがこんなに早く返ってくるとは予想していなかったにせよ、いたずらに家の者を心配させるようなことはしないはずだ。
だから彼は、自分と一緒に行った事のある場所を探した。
陶工たちの集落にはいなかった。つまり、陶器の仕事ではないということだ。
──となると。
エルランドは青い泉へとアスワドを走らせた。
果たして、リザはいた。柳の木に背中を預けて泉を見つめている。その柳にはリザの愛馬バネッサが繋がれて泉の水を飲んでいる」
「リザ!」
「わぁ! 本当に当たった!」
馬を降りて駆け寄ったエルランドに、リザは嬉しそうに振り返った。
「勝手に出て言っては心配するじゃないか! どうしたんだ」
「あれ? 走り書きを残しておいたわよ」
けろりと言ってのけるリザに、ほんの少しいら立ちを感じてエルランドはその体を抱き寄せる。
「あんなもの、何の保証にもなりはしない!」
「……ごめんなさい」
「いや、叱るつもりはないんだ。ただ……本当に心配なんだよ」
エルランドは黒いつむじの上に軽く顎を乗せる。
「そういえばさっき、当たったと言っていたが、どういう意味?」
「ああ、あのね。今日、絶対にエルが早く帰ってくるような予感がしたの。それで、ちょっと二人きりになりたいと思って、謎かけみたいな手紙を置いたのよ。きっと来てくれると思ったわ」
「……ああ、すぐにわかった」
エルランドは、先に陶工たちの村に立ち寄ったとは言わずにおいた。代わりに自分の上着でリザの肩を包んでやる。もう寒い季節ではないが、エルランドは城中の者と同じ様に、リザを構いたくて仕方がないのである。
「城でだって二人になれるじゃないか」
「だってすぐにニーケやアンテやコルが様子を見にくるんだもの。やれ、少し安めだの、体を温めるお茶を飲めだの。ここ最近、私構われすぎなのよ。だから、少しだけ息抜きをしたくなったの」
「それは当たり前だ。リザはもう少し自分を大切にするべきだ。バネッサに乗って出かけるなど!」
「バネッサは大人しく歩いてくれたわよ。本当は走りたいだろうに、私のことをすごくわかってくれてるみたい。賢い子ね……と言っても、私より年上だろうけど」
リザは名前を呼ばれて、鼻づらを寄せてきたバネッサの額を撫でてやった。
「バネッサがいくら賢くても、森にはどんな奴がいるかわからないんだぞ」
「でも、エルの統治のお陰で、イストラーダの治安はますますよくなってるって、コルが言ってたわ。お城に近いこの森に悪い人なんかいる訳がないわ」
「陶工たちがいる」
「みんないい人ばかりよ。そりゃ最初は気難しいおじさんもいたけど、今ではとても仲良し。最近は陶器の評判を聞いて若い職人さんたちも増えたって」
「それが問題なんだ。一応、親方に言って身元の不確かな者は入れないようにはしているが、それでも男は男だからな」
「そんなの、当たり前のことじゃない」
「リザには一生理解できないことだろうが」
エルランドは前置きして言った。
「何度も言うように、俺とコル以外の男が、馴れ馴れしく寄ってきたら警戒するように」
「私はそんなに魅力的じゃないわよ。心配ない」
「……」
リザはエルランドの腕をするりと抜け出し、上着を広げながらくるりと回った。
すっかり伸びた黒髪が、木漏れ日を透かせて軽やかに舞う。半年前は少年に化けられるほど細かった体には、女らしい肉がつき、その上胸元や頬は、今のリザの状況を反映して豊かにすらなっている。
青白かった頬は薔薇色に上気して、健康な色香を漂わせていた。
まさに女として一番魅力的に見える瞬間なのである。目に止めぬ男がいるはずがない。
「リザ!」
エルランドは再びリザを腕に閉じ込めた。
「頼むからそんなにしないでくれ。あなたは今大事な体なんだ! いや、ずっと大事だが、今は特に大切だから!」
立派な男の普段は厳しく切れ上がった眉が下がり、弱々しい吐息がリザの頬を撫でた。
「エルったら! もう、わかっているわよ。そんな顔しないで。悪いことをした気分になってしまう。私は大丈夫だから」
リザはまだ平らかなおなかを撫でた。その手にエルランドのごつごつした手が重ねられる。
「暖かくて大きな手の平ね」
「リザのと違って、何も生まない汚れた手だが……」
「そんなことないわ。あなたは多くのものを守っている。私のことも」
厚く大きな胸はリザが寄りかかってもびくともしない。その温かさに包まれると、とても安心できるのだ。
「リザ……愛している。あなたも、これから生まれる俺たちの子どもも」
「私だってそうよ。エル、あなたも、この子も愛しているわ」
リザは自分とはまるで違う太い腕を抱きしめる。口づけは最初は優しく触れ合うものだった。
「……本当に体調は大丈夫なのか? 身篭ると最初の数ヶ月は辛いと聞くが」
軽く浮かせた唇が心配そうに問う。
「ん〜、朝は少しね。でも、人によって違うと聞くから、私は軽い方のようよ? アンテもそう言ってた。だから、もう少し、キスをちょうだい?」
「望みのままに。だが、俺が我慢できうる限りでな」
再び重なったそれは、角度を変え、お互いを絡めあいながらいつまでも続いた。
柳の木と二人の影は一つになる。
ようやく離れた時、二人は荒いものとなっていた。
「これ以上は無理だ、リザ……これは思っていたよりもきついな。予想はしていたが」
エルランドは情けなさそうに呻く。
「俺の忍耐が冬まで持つかどうか」
「大丈夫よ。新しく来たお医者様が、体がもう少し安定したら鉄樹のことは大丈夫だって言っていたから」
「なんで、俺の心情がわかる?(以前は鈍感だったくせに)」
なんとなく前屈みになったエルランドは、悪戯っぽく笑っている妻に尋ねた。
「わかるわよ。だって私も同じ気持ちだから。大丈夫、あなたの子だもの。きっとすごく丈夫よ! 私にはわかるの。だから早く生まれてきてね? ウィラード」
「ウィラード?」
エルランドは目を見張った。それは不遇のうちに亡くなったエルランドの父の名だった。
「ええ。この子の名前。あなたのお父様のお名前をいただいたの」
「そ、それは嬉しいが……だって、わからないだろう? まだ男なのか、女なのか」
「それがわかるのです。私のお母さんもわかったて言ってたから。これは確かなことなのです」
「リザの母上が……」
不思議なこともあるものだとエルランドは思った。
「私たちの親は苦労ばかりしてきたでしょう。だから同じ名前をつけて思い切り、幸せにしてあげるの。なので次の子は私のお母さんの名をつけるわ。その次の子はなんにしようかなぁ」
「ちょっと待て。まだこの子も生まれていないのに、何人産む気だ」
やる気満々の小さな妻にエルランドは、慌てて言った。
「欲しいだけ産むの。大丈夫!」
「わかったわかった。でも今日はもう帰ろう。城で皆が心配しているはずだ。コルなどはまだあなたを探しているかもしれない」
「それも大丈夫、さっきエルが来てくれた時、遠くの方から、私に目配せして城の方へ帰っていくコルが見えたもの」
「……気づかなかった」
普段人の気配美は敏感なはずなのに、どれだけ自分はリザしか見ていなかったのだ、とエルランドはやや複雑な気持ちになった。どう考えても自分はリザに勝てそうにない。
一年前リザはこの地にいなかったのだ。それなのに。
「ね。だから、この美しい森をもう少しだけ歩いて帰りましょう。いつまた出かけられるか分からないのだもの」
「仰せのままに、奥様」
エルランドはそう言って腕を差し出した。すぐにそこへリザがぶら下がる。二頭の賢い馬たちは、大人しく歩き出した二人の後をついてきた。
森は夏を迎えようとしている。木漏れ日が透きとおるような緑色でリザの黒髪を優しく照らしていた。
「綺麗ね、とても綺麗。でもああ! 私、冬が待ちきれない!」
二人の願いが叶うのは、その半年後のことであった。
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