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6 去りゆく夫 1
そして、数時間の後──。
リザは王宮のどこかもわからない部屋に一人でいた。
再び風呂に浸けられ、髪も体も洗われた後、香水とも香油ともわからないものを肌にすり込まれ、見たこともないような軽くて美しい夜着を着せられて、寝台に放り込まれた。
「あのぅ……もうそろそろ帰ってはいけないのですか?」
黙ったままの侍女達にやっとの思いで尋ねても「今夜はこの部屋でお休みください」と馬鹿にしたように言われるだけだ。
女官達は部屋の明かりを全て消すと、入り口に小さなランプを一つだけ灯して立ち去った。
──明日には帰れるのかしら? ニーケは夕食を食べたのかしら? オジーは迎えにきてくれたのかな?
一人になると、部屋の広さと暗さが押し寄せてくる。
豪華な装飾も柔らかい寝具もリザを慰めることはできなかった。心細さが体を震わせる。残してきた二人にひたすら会いたかった。
「ニーケ……」
大きな寝台の上で、リザはたった一人の友人の名を呼んだ。柱が四本も立った大きくて立派な寝台なのに、とても眠れそうにない。
なんという一日だったろう。
リザは今日起きたことを思い返した。
知らない人間が大勢やって来て重いドレスや化粧で飾り立てられ、輿に乗せられて一年ぶりに王宮へ連れて来られた。
そこで久しぶりに会った兄王に蔑まれつつ、訳のわからない儀式に駆り出され、見知らぬ男に出会った。
エルランド・ヴァン・キーフェル。
彼はとても背が高かった。この儀式を喜んでいるようにはとても思えず、最初は顔を見ないようにしていた。
ヴェールを上げられても、怖くてまともに顔を見られなかった。こんな近くで大人の男に向き合ったことがなかったからだ。向かいの壁の窓が眩しい。
永遠と思える一瞬が過ぎて名を呼ばれた時、初めてその顔を見た。かなり上方にあるので顎を思い切り上げなければならなかった。すると彼と目が合った。
なんてきれいな緑色。
それが最初の印象だった。
今までそんなに大勢の男性を見たわけではなかったが、彼の顔立ちは美しいというよりも、整っていると言った方がふさわしいかった。額の左側にうっすら傷跡が見えたが、その傷さえ、彼を引き立てる役目を果たしているようだ。
けれど──。
庭の奥に生える新しい苔のような金緑色の瞳は、驚きを醸しながらも困惑していた。それはどうしたらいいのか戸惑う人間の顔だ。
そのくらいはリザにもわかる。小さい頃から人の目を伺うようにして生きてきたのだから。
この結婚はあの人にとって、嬉しいことじゃないのね。相手がこんなカラスの子どもだし。
だけど、兄上のいう通りなら、私はこれからあの人の領地に行って、そこで暮らさなければいけないのだわ。
主要宮から離れた離宮で暮らすことは別に嫌ではない。しかし、そこになんの未来もないことに、リザも薄々気がついていた。
そしてこれから、更に知らないところに行く。
どんなところなのか、何をするのか、リザには想像もつかない。ヴェセルは領主夫人になるのだから、今よりはよくなると言っていた。
でもあの人……エルランド様は多分、悪い人ではないわ。
自分を見下ろした時の目はとても綺麗だったし、困惑はしていたが悪い光は見えなかった。リザが気分が悪くなった時は明らかに心配してくれていた。
「ここから出て行くのは嫌じゃないし、怖くない」
リザは言葉にしてみた。言葉が力を得て自分を励ましてくれるような気がする。
「だけどこのままじゃ、ニーケやオジーにも会えずに行っちゃうことにならないかしら?」
それは困る、とリザは思った。
知らないところに行くのだから、せめてニーケには一緒に来て欲しい。このまま会えずに出発するなんて、どうしても嫌だった。しかし、あの兄はリザの頼みなど聞いてはくれないだろう。
そう思うと、いても立ってもいられず、リザは後で叱られてもいいから、一度離宮に戻ろうと決心した。彼女にはこの場所が新床の場だとは思いもしなかったのである。女官達は何も教えなかったのだ。
明日、兄上が迎えにきた時、頼んで見よう。
兄上は無理でも、あの人ならもしかしたら聞いてくれるかも……。
十四年の人生の中で一番大きな決心をしたリザは、そっと寝台を降りた。
天蓋から垂れ下がる、綺麗な布をめくると、入り口近くに小さな灯りが灯されている。
「私のことなんて、誰も知らないからきっと大丈夫、この部屋は二階だから後ろの階段を降りたらなんとかなるわ」
自分を励ますためにそう呟いた時、驚くべきことが起きた。
扉が音もなく開いたのだ。
「ニーケ? ニーケなの?」
自分に会いにきてくれるものなど、この世にただ一人しかいない、ニーケがなんとかして会いにきてくれたのだ。
そう思ってリザが声をあげた時。
「ニーケとは?」
暗い廊下から低い声が聞こえた。
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