6 去りゆく夫 1

1/1
前へ
/103ページ
次へ

 6 去りゆく夫 1

 そして、数時間の(のち)──。  リザは王宮のどこかもわからない部屋に一人でいた。  再び風呂に()けられ、髪も体も洗われた後、香水とも香油ともわからないものを肌にすり込まれ、見たこともないような軽くて美しい夜着を着せられて、寝台に放り込まれた。 「あのぅ……もうそろそろ帰ってはいけないのですか?」  黙ったままの侍女達にやっとの思いで尋ねても「今夜はこの部屋でお休みください」と馬鹿にしたように言われるだけだ。  女官達は部屋の明かりを全て消すと、入り口に小さなランプを一つだけ灯して立ち去った。  ──明日には帰れるのかしら? ニーケは夕食を食べたのかしら? オジーは迎えにきてくれたのかな?    一人になると、部屋の広さと暗さが押し寄せてくる。  豪華な装飾も柔らかい寝具もリザを慰めることはできなかった。心細さが体を震わせる。残してきた二人にひたすら会いたかった。 「ニーケ……」  大きな寝台の上で、リザはたった一人の友人の名を呼んだ。柱が四本も立った大きくて立派な寝台なのに、とても眠れそうにない。  なんという一日だったろう。  リザは今日起きたことを思い返した。  知らない人間が大勢やって来て重いドレスや化粧で飾り立てられ、輿(こし)に乗せられて一年ぶりに王宮へ連れて来られた。  そこで久しぶりに会った兄王に(さげす)まれつつ、訳のわからない儀式に駆り出され、見知らぬ男に出会った。  エルランド・ヴァン・キーフェル。  彼はとても背が高かった。この儀式を喜んでいるようにはとても思えず、最初は顔を見ないようにしていた。  ヴェールを上げられても、怖くてまともに顔を見られなかった。こんな近くで大人の男に向き合ったことがなかったからだ。向かいの壁の窓が眩しい。  永遠と思える一瞬が過ぎて名を呼ばれた時、初めてその顔を見た。かなり上方にあるので顎を思い切り上げなければならなかった。すると彼と目が合った。  なんてきれいな緑色。    それが最初の印象だった。  今までそんなに大勢の男性を見たわけではなかったが、彼の顔立ちは美しいというよりも、整っていると言った方がふさわしいかった。額の左側にうっすら傷跡が見えたが、その傷さえ、彼を引き立てる役目を果たしているようだ。  けれど──。  庭の奥に生える新しい苔のような金緑色の瞳は、驚きを(かも)しながらも困惑していた。それはどうしたらいいのか戸惑う人間の顔だ。  そのくらいはリザにもわかる。小さい頃から人の目を伺うようにして生きてきたのだから。    この結婚はあの人にとって、嬉しいことじゃないのね。相手がこんなカラスの子どもだし。  だけど、兄上のいう通りなら、私はこれからあの人の領地に行って、そこで暮らさなければいけないのだわ。    主要宮から離れた離宮で暮らすことは別に嫌ではない。しかし、そこになんの未来もないことに、リザも薄々気がついていた。  そしてこれから、更に知らないところに行く。  どんなところなのか、何をするのか、リザには想像もつかない。ヴェセルは領主夫人になるのだから、今よりはよくなると言っていた。  でもあの人……エルランド様は多分、悪い人ではないわ。    自分を見下ろした時の目はとても綺麗だったし、困惑はしていたが悪い光は見えなかった。リザが気分が悪くなった時は明らかに心配してくれていた。 「ここから出て行くのは嫌じゃないし、怖くない」  リザは言葉にしてみた。言葉が力を得て自分を励ましてくれるような気がする。 「だけどこのままじゃ、ニーケやオジーにも会えずに行っちゃうことにならないかしら?」  それは困る、とリザは思った。  知らないところに行くのだから、せめてニーケには一緒に来て欲しい。このまま会えずに出発するなんて、どうしても嫌だった。しかし、あの兄はリザの頼みなど聞いてはくれないだろう。  そう思うと、いても立ってもいられず、リザは後で叱られてもいいから、一度離宮に戻ろうと決心した。彼女にはこの場所が新床の場だとは思いもしなかったのである。女官達は何も教えなかったのだ。  明日、兄上が迎えにきた時、頼んで見よう。  兄上は無理でも、あの人ならもしかしたら聞いてくれるかも……。    十四年の人生の中で一番大きな決心をしたリザは、そっと寝台を降りた。  天蓋から垂れ下がる、綺麗な布をめくると、入り口近くに小さな灯りが灯されている。 「私のことなんて、誰も知らないからきっと大丈夫、この部屋は二階だから後ろの階段を降りたらなんとかなるわ」  自分を励ますためにそう呟いた時、驚くべきことが起きた。  扉が音もなく開いたのだ。 「ニーケ? ニーケなの?」  自分に会いにきてくれるものなど、この世にただ一人しかいない、ニーケがなんとかして会いにきてくれたのだ。  そう思ってリザが声をあげた時。 「ニーケとは?」  暗い廊下から低い声が聞こえた。
/103ページ

最初のコメントを投稿しよう!

237人が本棚に入れています
本棚に追加