237人が本棚に入れています
本棚に追加
7 去りゆく夫 2
エルランドは驚いていた。
今日の昼、妻となった少女が夜着を着たまま、素足で扉の前にぽつんと突っ立っているのだ。
すぐさま、部屋に入って後ろ手に扉を閉める。娘は彼よりも驚いているようで、慌てて後ろに飛び退った。
夜着の裾が持ち上がり、細い踝が露わになった。昼間の衣裳とはまるで違う薄い生地が、娘の育ちきっていない薄く儚い体つきを、小さな灯火の中にぼんやりと浮かび上がらせている。
しかし、幼くてもそれは確かに異性のもので、少しだけ色の濃い胸の先端、足の付け根の翳りが夜目の利く彼の目に飛び込んで、エルランドは慌てて顔を背けた。
その仕草がリザを傷つけているとは思いもしなかった。
娘は怯えた様子でじりじりと後ろに下がっていく。
「お待ちください」
そう言ってエルランドはなるべく娘の方を見ないようにして、自分の上着を肩にかけてやった。
「風邪をひきますよ」
「……」
彼に触れられて娘はひくりと大きく震えたようだった。
俺が恐ろしくなって逃げ出そうとしていたのか?
「ニーケとは誰のことですか?」
エルランドはできるだけ優しく尋ねた。この娘が自分を怖がっていることを思い知らされたのだ。
結婚の儀式でも晩餐会でも気分が悪そうに俯いていた。自分が兄に利用されていることを知っているのだろう。エルランドも終始、なんとも言えない気まずい気持ちで、この茶番が終わることを願っていたのだから、その気持ちはわかる。
「いえ、殿下」
この年下の王女をなんと呼んでいいのかわからなかったので、エルランドは敬称で呼びかけ、小首を傾げた娘にかけた上着の一番上のボタンを止めてやった。透けた素肌が見えなくなり、これでようやく向き合うことができる。
王女は昼間は結われていた髪を下ろしていて、儀式の時よりもずっと幼く見えた。何か言いたそうに小さな唇が躊躇いながら開かれる。
小さなその動きがどういう訳か非常に性的に思えて、エルランドは思わず腰が引けた。
「……無理に応えて頂かなくともかまいません」
「ニ、ニーケとは、私の侍女で友達です」
「侍女で友達?」
それはずいぶん妙な答えだった。
「はい。すっかり遅くなったので、迎えにきてくれたのかと……」
意外にもすぐに返ってきた答えに、エルランドは更に驚いた。
「殿下は……今夜友達が迎えにきてくれると思っていたのですか?」
「いえ……思っていたわけではないけれど、ニーケならきてくれると思って……それに知らない場所で一人で寝るのが怖くなって……その……」
「一人で寝る」
エルランドは間抜けのように繰り返した。
「いえ、あのぅ……今までだって一人で眠っていたのですが、こんなに広い部屋は初めてで……ごめんなさい」
「……」
リザの答えにエルランドは頭を抱えてしまった。
「……あ、あの……」
自分よりも低い位置にあるエルランドの頭を見て、リザは急に怖くなった。自分が酷い間違いをしたのだろう、そう思ったのだ。
さっきは私を見たとたん、変な顔をして顔を背けられていた。
こんな薄い寝間着を着せられて、よっぽど私が醜かったに違いない。
こんなカラス娘、誰もお嫁様にしたいなんて思わないもの。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
リザは悪く思われたくなくてひたすらに謝る。どういう訳か、この男に嫌われたくないと思ったのだ。
「私はもう帰りますから、あなたはゆっくりここで休んでください」
リザはエルランドの横をすり抜けようとした。かけられた上着がするりと脱げる。が、がっちりと腕を掴まれ、動けなくなった。
「お待ちください。あなた様は本当に何も聞かされていないのか?」
エルランドは途方に暮れたように言った。
「聞かされ……? なにを、ですか?」
「ともかく、その薄着と裸足では冷えます。とりあえず、寝台にいきましょう」
そう言ってリザはエルランドに手を取られた。その手は大きくて硬く、そして暖かかった。彼はもう一方の手で入り口のランプを取って室内を照らしてくれる。
改めて見ると大きな部屋だった。
ただ、手を取って行手を照らしてくれる、大きな男をとても意識していた。
「さ、寝台へ。すぐ布団に入ってください」
エルランドは脇のテーブルにランプを置くと布団をめくって、自分はテーブルの横の椅子に腰をかける。あまり大きくはない椅子だったので、彼が座るとすっぽりと背もたれが隠れてしまった。
「……」
リザが布団にもぐると彼がすぐに布団を肩まで引き上げてくれる。柔らかい布団はまだ温まっていなかったが、彼の触れたところは暖かかった。
リザは自分だけでなく、エルランドも儀式や晩餐の時の立派な服装とは違って、夜着を着ているだけだと気が付いた。
「あなたもここで寝るのですか?」
思わずそう尋ねていた。エルランドは目を丸くしている。
「……殿下、あなたは」
「殿下ってなんですか? 私の名前はリザです」
「ではリザ姫」
「リザです」
今までほとんど敬称で呼ばれたことのないリザは、改めて名乗った。なんとなくこの男には、自分の名を呼んで欲しかったのだ。
「わかった。では御名を呼ばせていただきます。リザ、私は少しリザと話がしたいのです」
「……はい」
「そして、申し訳ありませんが、率直にお話を伺うために、私の普段の話し方で喋らせて欲しいのですが。長い戦場暮らしで、かしこまったことに慣れていないので……無礼の段は先に謝罪いたします。申し訳ございません」
「どうぞ、普通にお話ください。私も礼儀作法はよく知りません。私もニーケに話すように喋ります」
頭を下げる男に、リザも正直に伝えた。
「ではお互い、素のままと言うわけだ」
エルランドはふっと笑った。
「ではリザ……あなたはこの婚姻について何を聞いた?」
「……二日前に、突然宮に兄上……陛下のお遣いが来て、キーフェル卿に嫁げと言われました」
「それだけ?」
リザは黙って頷いた。
「それでリザはどう思った?」
「……なにも」
「なにも?」
「……そうなのか、と思いました。兄上は領主夫人になれるのだから、悪い話ではないと」
「……なるほど」
「ニーケも連れて行けますか? たった一人の友達なの」
この娘は本当に放って置かれたのだ、と。エルランドは思った。
見捨てられ、放って置かれて、利用された王女。
儀式の時は大仰な衣装を着ていたのでわかりづらかったが、よく見れば十四歳にしては背が低いし、痩せている。濃い化粧を落とした顔は幼いのに、子どもらしい表情は少ない。
初めて見た時、藍色だと思った瞳は、今は真っ黒に沈み込んでいた。
なのに、そこはかとない色香を醸している。エルランドは再び視線を遊ばす羽目に陥った。
おかしい、こんな子どもに。俺は何を感じている?
女なんか飽きるほど抱いてきたはずだろうが。
「ニーケの他に、リザを世話する者はいるかい?」
エルランドは自然な風を見せて話を元に戻した。
「いいえ。離宮にはニーケだけ。後は庭師のオジーとその家族が」
「オジーはリザに何をする?」
「外に買い物に行ってくれたり、たまにお風呂に入らせてくれたり……」
そこでリザは、ヴェセルから自分のことは話すなと言われたことを思い出した。
「えっと……でも私は……その」
口ごもったリザの様子で何かを察したのか、エルランドはそれ以上尋ねようとはしなかった。
「では私……俺からも、大切な話がある。聞いてくれるか?」
「……はい」
「私にとっては、この結婚は望んだことではなかった」
「……」
知っている、とリザは思った。
「俺は南の国境でかなりの武功を立てたと自負している。しかし、陛下が褒賞としてくれたのは、捨て地と言われる何もない辺境だ。俺は苦楽を共にした仲間を養わなくてはいけない。だから、王家には義務を感じるけれども、陛下の言いなりにはならないと考えている。いや、悪いことをする気はないが」
そこでエルランドは、リザがわかっているのかどうか、確かめるように言葉を切った。
「全て言いなりになるのは嫌だと思った」
彼がなにを言わんとするのか、正直リザには想像もつかない。ただ、一生懸命に理解しようと耳を傾けるだけだ。
「陛下はリザにも不遇を強いているようだ」
そうかもしれない、とリザは思った。
父の葬儀にも出してもらえず、今日もカラスと呼ばれた。これは不遇なのだろう。しかし、他に比較対象を知らないリザにはあまり強い感情は湧かない。
リザはいつも境遇を受け入れるのみだった。
「普通なら初夜を迎える娘には、誰かが手ほどきをする」
「しょや?」
初めて聞く言葉だ。
「婚姻の後の初夜になにが起きるのか、リザには想像もつかないだろう。普通なら絶対にすることがある。しかし、俺は今夜それをしない」
エルランドは自分に言い聞かせるように言った。
「しなくてもいいものなんですか?」
「いや、しなければならないものだ。しかし、見たところ、リザにはまだその準備ができていないし、俺はこんなに無垢なあなたにとても、男のする行為が……できない。いや、できるんだが、してはいけないと思っている」
「それは私がカラスだから?」
リザは心配そうに自分の髪に触れた。
「カラス?」
「私の髪も目も黒いから」
「誰にそう呼ばれた?」
「……」
「いや、言わなくていいよ。でも、リザはカラスなんかじゃない」
「でも、じゃあ私はどうしたらいいの?」
小さな顔からこぼれ落ちそうな瞳が、ゆらゆらとエルランドに向けられた。
「リザ」
エルランドは慎重に言葉を選んでいる。厳しい口元がさらに引き結ばれた。彼は決断したのだ。
「リザ……俺はあなたを連れて行かない」
最初のコメントを投稿しよう!