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8 去りゆく夫 3
「……それは、どういう、意味?」
意外な言葉にリザの思考が止まってしまう。
「あなたはここに残るということだ」
「……ここに、のこる」
ヴェセルは、エルランドについて行けば、今よりよい生活になると言っていた。
現状をただ受け入れるだけだった自分に、よい生活とはどんなものかよくわからなかったが、変化というものに少し期待をしていた自分がいたことに、リザは初めて気がついた。
「俺が陛下から拝領した領地、イストラーダ州はミッドラーン国の最東にある。そこは今まで誰も欲しがらなかった土地で、守備目的の砦はあるが、今までその地を治めた領主がいなかった。また、これと言った産業もなく、人口も希薄だ。よって非常に貧しく、危険な土地と言える」
「……」
「俺ですらほとんど足を踏み入れたことのないところなのだ。そんなところに、深窓の姫をつれてはいけない」
「しんそうのひめ?」
リザにはその言葉がよく理解できなかった。本で読んだことはあるが、自分と結びつけて考えられない。
「そうだ。リザは王宮から出たこともないのだろう?」
返事の代わりにリザは、布団を握った自分の手に視線を落とした。
その通りだった。リザの世界は非常に狭い。白藤宮と裏庭からほとんど出ることもなく、交流のある人間を数えたら十指に余るだろう。
「砦は何十年も放置されていてまだ住めるところではない。自分のねぐらもままならぬのに、あなたのようなか弱い姫を連れてはいけない。情けないが、リザをあらゆる危険から守り抜きながら、広い辺境を掌握する自信が俺にはまだないんだ」
エルランドは腕を伸ばし、俯いたままの小さな頭に手を添えた。貴婦人にしては短すぎる真っ直ぐな黒髪を撫でてやる。柔らかいそれは、無骨な指先を素直に滑り落ちた。
「だから、リザはここに残して行く。俺は明日にでもここを発つ」
「ここに? 今まで通り?」
そんな目で俺を見ないでくれ。
今は夜のような黒い瞳に蝋燭の炎が映り込む。
それはわずかに潤んで男の庇護欲をそそった。庇護欲だけではない、今まで忘れていた何かが体の奥からひっそりと顔を出そうとしている。
しっかりしろ! この娘はまだほんの子どもだ。
エルランドは女に不自由したことはなかったし、特殊な性癖もない。
少女と同衾するなど、考えたこともなかった。子どもとは常に危うく、脆く、足手まといな存在だった。それなのに、この王女にはなぜか酷く惹きつけられる。
自分の子どもの頃と同じく、何も持っていないためだろうか? だが、それは同情にはなっても、異性を感じさせることはないはずだ。
これ以上関わり合ってはいけないことを勘が告げていた。本能とは別なる感覚である。だが、彼の手は髪から頬へ、頬から首筋へと滑り降りていく。
娘は自分が危険に晒されていることなど、気づかぬ風でエルランドを見つめていた。わずかに震える唇から目を離すことができない。
この娘は俺にとって危険な存在だ。離れるべきだ。
「……そうだ」
エルランドは短く答えた。
娘の瞳に責める色はない。人を憎むことなど知らぬ目だ。
それはしかし、いかにこの娘が、人との交流から隔絶されていたかを物語るものでもあった。自分の美しさも、身分に由来する値打ちも知らないのだろう。
そんな娘をこのまま自分は置き去りにしていく。彼の仕事を果たすために。苦労し続けた父は不遇のうちに死に、自分も命がけで戦場を流離ってきたのだ。
今更後へは引けない。
エルランドは小さな鎖骨から滑り落ちようとしていた指先を握り締めた。
「……リザには心からすまないと思う。だが、俺がイストラーダをいつか完全に統治することができたなら、迎えに来よう」
「迎えに来るの?」
「そう。だから……何年か待っていて欲しい」
「なんねんか……」
たった十四年しか生きていないリザには、一年でも永遠のように思える。
「いつだとはっきり約束してやれないのが申し訳ないが、捨て地とはいえ、せっかく拝領した俺の領地だ。必ずやり遂げて見せる。だから、それまで」
「……わかりました」
リザは顔をあげた。そこには苦しげな表情の男の顔があった。
なんの能もない私は、この人にとって足手まといなんだわ……この人にとっても私は厄介者でしかない。
世間知らずのリザだったが、そのくらいは理解できた。
約束はした。しかし、約束とは守られるのが少ないことも知っていたのだ。
「いつか」とは「永遠」と同義だった。
お父様もお母様も私を心配してくれた。でも、結局私は一人になってしまったのだもの。
「わかりました」
リザは繰り返した。
わかり過ぎるくらいだった。だから嘘をつくのも簡単だ。大人に対して物分かりのいい振りをすることなど造作もない。
「ここで待っています」
「いい子だ、リザ。だが、行く前にできるだけのことをして行こう。ヴェセル陛下にも頼んでおく。そして、毎年イストラーダから贈り物をしよう。最初は大したものは贈れないだろうが」
「ありがとう」
リザは素直に礼を述べた。
「では、今夜はもう寝るとしよう。あなたも疲れただろう。俺は向こうの長椅子で寝るから」
「この寝台は大きいわ。あなたが一緒に寝ても大丈夫。ほら」
リザはそう言って、大きな布団を捲った。白い腕と胸が晒される。自分が何をしているかわかっていないのだろう。
無意識にエルランドの喉が鳴った。
手を出さない自信はある。その程度の自制がなくてはやっていけない人生だった。
「私は端に寄るから」
「いや」
寝台の向こう側に体をずらしかけたリザを引きとめるように、エルランドも寝台によじ登った。上着を脇に放るとリザの隣に横たわる。
「こうすれば温かい」
エルランドはそう言ってリザの肩を引き寄せた。
「うん」
リザは男性と眠るのは初めてだった。
寒い冬の夜に、ニーケと一緒に寝たことはあるが、彼は驚くほど嵩高く、体が熱い。まるで暖炉のそばにいるようだ。
「いい寝台だ。これだけは王も配慮してくれたようだな。本来の目的に使ってやれないのは残念だが……いえ、なんでもない」
自分の胸から怪訝そうな視線送るリザに、エルランドは笑った。リザが初めて見る笑顔だった。
「ではもう、眠ってしまおう。明日の朝、リザを離宮まで送って行くから。ニーケが心配しているだろう」
「はい」
「明かりはつけておくか?」
「ええ……でもひとつお願いがあるの」
「なにかな?」
「私もあなたの名前を呼んでもいい? 一度だけでも」
リザにはわかっていた。これが形だけの結婚だということを。そして夫となった男が自分を妻だと思っていないことも。
彼が自分に向けたのはただ一つ。
哀れみだった。
それは仕方のないことだったのだろう。
でも私だって、全部兄上の思い通りになりたくないわ。
たとえ、もう二度と会えない人だとしても、今夜だけは一緒だ。
花嫁として、夫となった人の名前を呼ぶ権利くらいあるはず。
「一度と言わずに何度でも、リザ」
エルランドは優しく言った。
「いいえ、一度で……一度でいいのです」
「……」
沈黙は肯定だ。
「エルランド様、私に優しくしてくれてありがとう」
その瞬間リザは激しく男の胸に抱きこまれた。丸め込まれた男の体にすっぽりと包み込まれてしまう。
「俺はあなたに優しくなんかない。すまない」
「……」
「あなたの孤独に、俺は寄り添ってやれないんだ」
「……へいき、です」
リザはぴりりと苦い男の香りを吸い込みながら、やっと言った。
「私はずっとここにいるわ」
「リザ……」
烟るような金緑の瞳が近づく。リザが目を閉じたのは必然だった。
唇が重なった。
熱くて弾力のあるものがリザの小さな唇を食べてしまうように覆った。
なんの誓いもない触れ合いだった。それなのに、そっと離れた隙間に寂しさを感じる。
「おやすみ、リザ」
エルランドはリザを見つめてそう言った。
男の大きな手がリザの髪を撫でる。それが心地良くてとても安心できた。
「安心しなさい。リザが眠るまで見ているから」
そう言って、男はリザの髪を撫で続ける。
綺麗だわ。
お庭の苔のような金緑の瞳……とても……きれい。
もっとずっと見ていたいのに……お別れなんだ。
昼間の疲れもあって、リザのまぶたはゆっくりと閉じていく。なんだかふわふわして、いつまでも身を委ねていたい心地だった。リザは自分が微笑んでいることに気がついていなかった。
やがて吐息が深くなる。
エルランドは、リザが眠りに落ちていく様子を黙って見守っていた。
これが二人の初めての夜。
情熱も誓いもない。
だが、二人にとって忘れられない夜となった。
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