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 温室から応接室に戻ると、ぼくは再び伯爵と向かい合った。  伯爵はサングラスを取り、ポケットにしまわれた。 「では、搾りたてをご賞味願おうか」  建物はリフォームし、ご自身はカジュアルなファッションでも、召使には古式を重んじさせるのか、きちんと典型的な制服を着たメイドが入って来て、テーブルに恭しくグラスを置いた。  丈の高いグラスに、真紅の液体。我ながら浅ましいが、写真を撮りながら、じゅるっと唾を呑み込んでしまった。 「乾杯」  撮影が終わると、伯爵はご自分のグラスを優雅に傾けられた。  ぼくもグラスを手に取り、軽く掲げた。  逸る気持ちを抑え、窓から降り注ぐ陽射しに、その真紅を透かしてみる。混ぜ物のない、純粋な赤。喩えようもなく美しい、魅惑の色。  それから眼を閉じて、そっと口をつけた。ひんやりとした感触が唇を覆い、ねっとりとした食感が口中に広がる。途端に、濃い鉄分の味と、ほのかな甘みがぼくの脳天を刺し貫いた。  ああ、なんと芳醇な……  液体はゆっくりと舌の上を滑るので、ぼくの味蕾はたっぷりと時間をかけて快楽を味わい尽くす。やがてそれは悠然と喉を潜り抜けて、食道を滑らかに降りていく。その間も、口中には濃厚な余韻がたゆたい、胃の腑に収まった時にはかつてない充足感がぼくを満たした。  たった一口とは思えない、長い、官能的な喜びの旅。 「どうかね?」  伯爵が問われた。 「……とても……言葉では……」  伯爵はくすりと笑われた。 「だが、それではきみの仕事にならんだろう」  確かにその通りだ。しかし、この味を言葉で表現することは、ゲーテでもシェイクスピアでも不可能だろう。
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