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出会い
男は「普通」を知らない。
ごみ溜めのようなワンルームで、コンビニのパンを噛るだけの日々。
日雇いの仕事も、要領の悪さから昨日解雇された。
ガス、電気、水道を止められて、家賃も払えず、住所不定無職となる未来は目前。だが不思議と絶望はしない。
これが男の普通だったから。
幼少期から家庭の愛情とは程遠い位置で暮らしてきた。今と変わらないゴミだらけの部屋で、母親が投げて渡す菓子パンのみが食料だった。
学校へ行っても、他の子供と同じ身形ではない薄汚れた男が、コミュニティーの一角に入れてもらえるはずもない。
俯きながら、今日が終わることのみ祈る日々を毎日過ごしてきた。
生まれつきの要領の悪さが勉学にも現れ、早々に授業に付いていけなくなり、だが効率重視の中学教師が男に一瞥くれることさえもなく、男はあっさり高校受験に失敗した。
中卒でも働ける仕事口を見つけることは容易ではなく、まして要領の悪かった男は簡単といわれる作業をこなすことさえ人の二倍の時間がかかり、どの職場も半年ももたず解雇された。
手のひらに収まるだけのお金だけが、常に男の全財産だった。
「どうすれば、人に迷惑にならずに死ねるんだろうか」
絶望しかない人生において、男の願いはたったそれだけだった。
その日、日雇いの仕事を求めてコンビニ前で求人のフリーペーパーを取ったとき、不意に背後から何かに押されて思わずよろけた。
驚いて振り返るよりも早く、
「わあ、ごめんなさい!大丈夫ですか?」
若い女の声がした。
男は慌てて振り返り後退る。
「あ、あの、」
「ごめんなさい!コーヒーが背中にかかっちゃいました!えっと、ハンカチハンカチ」
男に物を言う隙も与えず、若い女は片手に紙コップを持ったまま、空いてる手で鞄の中を探りはじめた。
「あの。あの、俺は大丈夫ですから」
「いえいえ!結構な勢いでコーヒーかかっちゃいましたから、全然大丈夫じゃないですよ!あ、あった、ちょっとごめんなさいね」
女はなんのためらいもなく男の背中をハンカチで何度も拭きながら、「ホントごめんなさい」と何度も謝った。
「あの、もう本当に大丈夫なんで、」
「え?そうですか?あ!ごめんなさい!知らない人に背中ゴシゴシ拭かれたら嫌ですよね!あー、またやっちゃった」
女はケタケタ笑いながらハンカチを鞄にしまうと、代わりに赤い長財布を取り出し、
「これ、クリーニング代です。お金でどうこうしようとか、失礼だとは思うんですけど、」
「あ、いえ、俺もこんなところでぼんやりしていたのがいけないので」
男は咄嗟に求人紙を持っていた右手を背後に隠し、おそらくそれに気がついていても見て見ぬふりをして女は千円札を男の左手に握らせた。
その時触れた女の手は温かかった。
男は、人が体温を持っていることさえ、今初めて知ったのかもしれなかった。
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