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拭うことができない
粗末な部屋の扉がゆっくりと開いて、現れた小柄な女は座ったまま深々と頭を下げていた。しっとりと濡れた金色の髪が、汚れた床にへばりつく。
「デ、デーフォルミスと申します。よろしくお願い致します。」
それはとても小さく、震えた声だった。
コダは苦々しい顔をした。そして女を見ることをやめて視線を外に投げ、
「さっさと入って扉を閉めろ」
と静かに言った。
女は言われた通りに室内に入り、扉を閉め、だがすぐさままたその場に膝を折り、頭を下げた。
その女の様子を見ないようにしていても、気配が背中に伝わってくる。
コダは拳を強く握り直した。爪が手のひらに白く突き刺さる。その痛みよりも怒りが拳を震わせた。
『デーフォルミス』とは、この国で『醜い』の意味を表す。そんな源氏名を付けられて、欲にまみれた男の相手をさせられるこの女の不憫さに、軽い吐き気が込み上げた。
「あ、あの、私、今日が初めてのお仕事ですので、その、上手くご奉仕できないかもしれませんが、よ、よろしくお願い致します。」
女の言葉にコダは振り返る。そして違和感に眉をひそめた。
(初めて?今日が水揚げだと言うのか?・・・若衆の口振りでは既に客が付いているようだったが、)
「水揚げ」を売りにする遊女の話はよく聞く話だ。
しかし、この女がそのような小狡い手を使うようにはとても見えない。コダは訝しそうに目を細めた。
「お前、本当に今日が水揚げなのか?」
「は、はい。」
頭を下げたまま女は言いきった。
どちらかが自分を謀っているのだとしても、コダは、頭を下げる女のその小さな背中が嘘をついているとはどうしても思えなかった。
「とりあえず、立て。そんなとこに座らずに椅子に座れよ」
コダの言葉に少女はおずおずと立ち上がった。
立ち上がっても、女はやはり小さかった。
「・・・」
軒先でずぶ濡れになっていた服は着替えさせられたのだろう。だが、それでも与えられた服は、女将が着ていた深紅のベルベットのガウンとは雲泥の差だった。薄汚れて元の色がわからない茶色いワンピースは、サイズが合っておらず、肩の位置が外れていた。
「・・・失礼します。」
女は一度深く頭を下げると、小さな歩幅で恐る恐るテーブルに近づき、椅子を引いてちょこんと座る。
だがその間も、決してコダを見ようとはしない。常に視線は下にばかり向いていた。
(怯えているな。)
女はずっと小さく震えていた。
コダは嘆息して、テーブルに置かれた粗末なパンが乗った皿を女の前に差し出した。
「ずっと雨の中立ってたんだろ?腹減ってんじゃねぇのか?」
コダの言葉に、女はふるふると首を横に振る。
「遠慮はいらねぇよ。食っていいんだぞ」
コダは腕を組み、背もたれに背を預けて少し離れて女を見遣った。自分を恐れているのかもしれない。少し離れれば、顔を上げてパンを食べるかもしれない。そう思ったが、女は俯くばかりでパンに手を伸ばそうとはしなかった。
コダは深く息を吐いた。
「別にお前をどうこうしようとは思ってねぇから安心しろ。雨に濡れてるのを見て、哀れに思っただけだ。ほら、パンを食え。」
心の内を包み隠さず話してみるが、女は小さく首を横に振るだけでやはりパンを食べようとはしない。
「・・・」
コダは、情けをかけてのこのことここまで来た自分が愚かに思えて、少し笑った。
「お節介だったな。すまなかった。」
そして荷物を肩に掛け、ガタンと椅子を引いて立ち上がる。
「・・・!」
その音に、女は驚いたように顔を上げた。
「・・・っ」
その顔を見て、コダは言葉を失った。
黄金色の大きな瞳が、溢れんばかりの涙を溜めている。
長い睫毛が瞬くと、光を孕んでポロポロと涙は溢れ落ちた。
「あの、あの私、・・・食べられないんです。」
「え?」
「食べることができないんです。私、・・・私、作り物だから、」
悲鳴のような、それでいてとても美しく響く声だった。
「・・・」
コダは眉根を寄せて息を飲んだ。
「それは、・・・俺が悪かったな。すまない」
コダは、心の底から詫びた。それ以外の言葉が思い付かなかった。
胸が酷く痛んで、コダは服の上から心臓を強く押さえた。
「いえ。・・・あなたは、何も悪くないです。」
涙を流しながら、コダをしっかりと見据え、女は小さく微笑んだ。
そしてその唇が拙い言葉をさらに紡ぐ。
「あの、私、・・・嬉しかったんです。」
「え、」
「私を、私のことを見つけてくれたから。」
「・・・」
「私を、見つけてくださって、ありがとうございました。」
そして女は再び深く頭を下げた。
・・・
雨の中、フードを深く被り、遠い馴染みの宿を目指す気にもなれず、近くの安価な宿に泊まった。
外観からして粗末な宿だった。
旅人や女郎宿に泊まることができなかった男たちが、むさ苦しい大部屋で雑魚寝をしている部屋に通された。
その部屋の片隅の壁に背中を預けて座り、コダは鞄の中から汚れた手拭いを取り出した。
ボサボサの黒髪をがしがしと拭きながら、だが拭き取れない雫がいくつか垂れて、頬を濡らす。
あの女には、二度と会ってはいけないと思う。
だが同時に、あの女を救ってやりたいと、心が切望した。
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