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 洋吉は顔を洗っていた。ばしゃばしゃと春の水を冷たく、さっぱりとした気持ちになる。手ぬぐいで顔を拭いているとあることに気がついた。顔色があまりよくない。昨日はよく眠れたはずだが、はたしてと洋吉は考えていた。  下宿先の洗い場はタイル張りで青のタイルが盛られている。それが爽やかな気分を醸し出す。空は青い。気持ちがいいくらい、青い。 「おじさんのところに行くか。学校の帰り」  歯を磨きながら、洋吉はつぶやいていた。ゴシゴシと力強く磨く洋吉に、洗い場に新たな客が現れた。 「おはようございます」 「……おはよう」  ボサボサの髪に眼鏡をかけた男は女物の着物を羽織っている。洋吉はキザな奴だなと思う。長い髪があっちの方向を向いている。  これまた寝ぼけ眼で顔を洗う。洋吉より一歩離れている。お互い無言である。雀の鳴く音が聞こえる。彼、神川(かみかわ)吾郎(ごろう)はぼんやりしたまま「今日はいい天気ですね」と顔を洗った後、言い出す。 「まあ、いい天気だろうね」 「最近の洋吉さんは、顔色が悪い」 「そんなもんかね」 「毒でも盛られたんじゃないかな」  穏やかな口調で有り得ないことを神川は言い出す。洋吉はギョッとしていると神川は歯を磨く。 「なんというかな。思いつめた女性は怖いよ」  意味深長なことをいう神川に洋吉があきれていると、神川は不思議そうな顔で外を見ていた。神川が自分の気分に正直な男だと洋吉は思った。 「そういう女性は私の周りにはいない」 「そうかな。女性は怖い。それは確かだ」  おまえ、そんなに女性に詳しいのかと洋吉が問いかける前に神川は口をゆすいだ。そうして、唇を手ぬぐいで拭くと「お嬢さんには気をつけて」と言われた。洋吉にはとても真似ができまいと思った。西洋人がするとは違う、色っぽい仕草だった。頭の中には玲子が浮かんだ。玲子はあのような男子が好きだろうか。  学校の帰り、叔父の家についた洋吉は古本屋朝霧を待っていた。朝霧は午前に一回顔を出して、本を運んだらしい。と、玲子が教えてくれた。玲子に礼を言うと、もう一回来るそうだと、教えてくれた。暇なので洋吉は叔父の手紙を読んでいた。恋文を裏切られた女に送っていたようだ。かつての愛情を取り戻さないかと綿々とつづられている。封切らずに送り返されたのだろうか。確か、捨てた女は美しい人だった。  玲子が現れた。またお茶を用意してくれた。洋吉はお茶に手を伸ばそうとしたとき「ごめんくださいまし」という声が聞こえた。玲子がはーいと玄関に向かう。なんとなくだが、洋吉は神川の言葉を信じたわけではないが、茶に手をつけなかった。  現れたのは古本屋朝霧の三津堂である。三津堂はこんにちはと、よく知っている我が家のように入ってくる。本はあらかた運んだようだった。洋吉は三津堂の仕事ぶりを観察することにした。が、三津堂がにこりと笑いかけた。 「すみませんが、本を運ぶ手伝いをしてくれませんか」 「なんでだい」 「ここの本は重いから腰を痛めて。それだけですから」  洋吉は断りたかったが、玲子が手伝いかねない素振りを見せていたので本を運ぶことにした。本一冊は重く玄関と廊下を往復する。三津堂は楽々といった様子である。話が違うと思っていると。風呂敷が二つ、積んである。はてと三津堂を見ると三津堂はにこやかに「では、行きましょうか」と言っている。  きょとんとしている洋吉に三津堂は当然のごとく「行きましょう」と言い出す。万華鏡商店街は遠いのだろう。いやだと言う前に玲子は「いってらっしゃい」とクスクスと笑い出す。玲子にそう言われたらどうしようもないと洋吉は思い、むっつりとした顔で「行ってまいります」と言い出す。仲良く三津堂と並んで荷物を運ぶ。 「よかった。またあの家に行かなきゃと思うと冷や汗ものですよ」 「道が遠いからだろう」 「そうじゃあ、ありませんよ」 「じゃあ、一体なんだい」 「憑かれているんですよ。あの姉さん」 「はあ。まったく困るな。現代でそんな狐狸だの、幽霊だの。有り得ない創作話を作って」 「まあ、いいですよ。信じるも信じないのも一興」  三津堂は気にしていないようだった。三津堂は平凡な顔からわからないようなきな臭い一面でもあるのだろうか。洋吉は考えていた。  空き地が見える。子供達は遊んでいる。虫を捕まえようとしていた。ひらひら飛ぶ蝶々を手で掴もうとしていた。埃っぽい土の道を歩きながら、咳き込んでいた洋吉を三津堂は残念そうな顔で見つめた。 「私はただあなたのために気を遣っているんですよ」 「気を遣っているなら変なことは言わないでくれ。現代人の僕らが、そんなことを話すものではないだろう」 「学問をしている人って、みなそういうものです。現代人でもだいたい人間は変わりませんよ」  そういうものだろうかと洋吉は考えていると「理屈っぽい話になりましたね。私は感じるままが正しいとは思いませんが。たまには頭を柔らかくしてみるのも面白い。信じるのではなく、面白がる。これに尽きる」と三津堂が言う。  信じるのではなく、面白がるというのは、なかなか難しいものではないかと洋吉は考えていた。独特の理論である。なぜ信じないという前に、なにか後ろから洋吉達を追ってくるものがある。それに気がついた洋吉に振り返る、三津堂も同じ動きをした。黒い影のようなものが洋吉を狙うように走ってくる。洋吉は、声を上げた。 「さあ。走りましょう」  三津堂が楽しげに走り出す。まるでこうなることを見越していたように。三津堂は洋吉の手を取り、土ぼこりを舞ながら駆ける。洋吉は前を向いた。一体なにがなんだかわからずにいた。洋吉は、なにかしただろうか。天に唾を吐くようなことはしていない。じゃあ、なにが起きている。 「さあ、さあ」 「楽しんでいる場合じゃない。なんだ、あれは」 「さあて。わかりませんな」 「おまえ、わざと?」 「わざと」 「幽霊や狐狸の類を信じないからと言ったから」 「そんな意地の悪いことをしませんよ。ただ、あれはちょっとだけ悲しい気分を引きずっているだけです」  悲しい気分? なんだと、と洋吉が言う前に三津堂は先に進む。三津堂がなにを目的として走っているのかわからないが、洋吉はあれに捕まりたくない一心だった。  古本屋朝霧にたどり着いた。万華鏡商店街は普通の商店街と変わらない。むしろ小さな店子が集まった庶民的なところだと洋吉は気がついた。銀座とは違った。人通りがあるが、主婦が多い。子供も遊ぶ。 「さあ。こちらで」  ガラガラとガラス戸を引いて店に入ると黒い影は間抜けにもガラス戸を叩く。洋吉は、怯えていたが、三津堂は怖がることもなく、そっと戸を引いた。 「いらっしゃいませ。古本屋朝霧です」  そう呼ばれた影が形になる。手ができて、足ができて、頭ができてといった具合に人間の形が生まれた。三津堂は慣れているのか、ほうほうとうなずいた。洋吉には自分が起こっていることに理解ができずにいた。 「私の頭はおかしくなったか」  頭を抱えている洋吉に三津堂は笑いかけた。 「おじさんが会いに来てくれましたよ」  三津堂の古本屋朝霧は奥が居住地となっているようで、茶箪笥とちゃぶ台があり、その奥にはまだ寒いのか、火鉢がある。茶を用意する三津堂はさらに奥の部屋に入ってしまった。洋吉はもじもじしていた。まさか叔父とは思えないが、しかし、叔父そっくりの人が目の前にいる。正座をして、ピンと背筋が伸びているさまは、生前の叔父を連想させる。 「で、洋吉。元気かい」  親しみを込めて呼ばれるのはあまりいい気分はしない。洋吉はどう返事をするべきか迷っていた。叔父は苦笑いをした。 「追いかけてすまなかった」 「いえ」 「相変わらずここは静かだね。雀の鳴き声が聞こえるくらい」 「日陰にある場所ですからね。まあ、人は集まらない」 「えっ。でも外には人が」 「まあ。表側はね。こっちは裏側だから」  羊羹にお茶を出された。三津堂は自分で用意したものを食べ始めた。豪華な食べ物に洋吉は唾を飲み込んだ。三津堂は、もぐもぐと口を動かす。三津堂の羊羹をあっけなく食べる姿に、味わって食べている洋吉は三津堂が金持ちであることに感心するばかりだった。 「洋吉さん。美味しいですね。羊羹。私は端っこが好きなんですよ。砂糖がかまったところ。ジャリジャリして美味しい」 「私は真ん中。つるりとして美味しい」  にこやかな会話がつづいている。お茶を飲む洋吉に叔父の目がじっと洋吉に注がれる。 「やせ細ってしまったね」 「はい」 「これはよくない。もうあの家には来てはいけない。玲子君にも会ってはいけないよ」 「なぜ玲子さんが関わってくるんですか」 「玲子君がとり憑かれているからさ」 「叔父さんに」 「いや。私ではない。ただ、それを玲子君は気にしていない。私のときと同じだから、おまえに忠告したい。  玲子には近づくな」  叔父の顔が冷え冷えとしたものになる。 「私のようになるぞ」 「なにを言っているんですか。玲子さんが叔父さんを殺した犯人ですか。それにあなたは本当に叔父さんですか」 「私はおまえの叔父さんだ。おまえがよく泣いて家に来た。ガキ大将に泣かされていたのを菓子でなぐさめた」 「そんな話」 「作れるかい」  寂しそうに叔父が言った。洋吉は混乱する頭で冷静になろうと必死だった。 「私はおまえを見守っているよ」  あっと洋吉はつぶやいた。
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