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 天は見ている。人のしていることを。ひどい目にあったら、天に任すことが一番いい。天に任すと気が楽だ。  叔父の日記に書いてある天という言葉に洋吉(ようきち)にはいまいちピンっと来なかった。天に任すことがいいなんてのんきなことを考えているから、嫁に財産を取られ、挙げ句には捨てられたのだと洋吉は思う。洋吉はあくびが出てきた。洋吉は叔父が死んだ後の書類の整理をしていた。本が大量にある。本の鬼だったらしい。奇談やら、怪談を集めていたらしいが、ほとんどが小説である。 「洋吉さん。お茶はいかが」  軽やかな声に慌てて、背筋が自然と伸ばす。そんな洋吉を知っているのか知らないのか、大家の娘、的場(まとば)玲子(れいこ)が襖越しにいた。叔父のこれ、小指を出す義理の姉、兄嫁を思い出す洋吉がいた。本のことに集中するために、おとぎ話やら、童話が混じっている本棚を洋吉は見ていた。 「大変でしょう。本の整理」  玲子は座ったまま、ふすまを開けて、お茶が入った湯のみを持ってきた。玲子は二十歳でまだお嫁には行っていない。出遅れという言葉が洋吉には浮かぶ。器量は悪くないのだが、本人の自由に任せるという大家は言ったそうな。なんとなくだが、放任された家庭なのかもしれない。変わった人だ。  そんなことを考えながら、洋吉は出されたお茶を飲む。疲れた体には爽やかな味で、舌に甘味がかすかに感じる。 「書類を本に挟んでいるかもしれません。だからその確認をしていました」 「あら、それは?」 「叔父の日記です。罰は天に任せるとかなんとか」 「おじさまらしい」  ええと洋吉はつぶやいた。人を罰することが苦手な叔父らしい。人を罰することにより誰かを痛めるより、天に任すなんて言い、自分が損をするというのは滑稽で哀れだ。 「罰は天に任せたら滅茶苦茶になりますわ」 「法律がありますからね。今も昔も」 「でも怖いわよね」  なにが問わずに目配せだけ玲子に問いかける洋吉に「だって。今は誰も法を守っていない」と玲子は言った。それはどんな意味か洋吉にはわからない。ずっと雑談ばかりしていられないと考えていた洋吉は、叔父の文机を見た。桜の木でできたもので丈夫である。技巧的なものはない。ただ、そこにあるだけである。机にはノートがあって、質が悪いのか、根元からノートの紙が散らばっている。叔父はなんのために書いていたのかわからない。 「さて、本を古本屋に届けますか」  今日整理した本を洋吉は風呂敷にまとめた。重い荷物を背負う洋吉は玲子か見送る中、町へと歩いた。  ガラガラガシャン、ガラガラガシャン。ポーッポッポッポー。子供が汽車の真似をする。楽しげであり、日曜日の昼間ののどかな時間である。肩にかけた風呂敷は重く。町の歩いていると自分と同じように風呂敷を持っている人間がいる。 「古本屋、古本屋」  そう洋吉はつぶやいた。土の埃っぽい道路を歩いているうちに古本屋を見つけた。小さな本屋である。洋吉は暗い店内に顔をのぞかせると男がいた。番台の上で猫が寝転がっている。男は気にせずに、淡々と本の整理していた。  こちらに男の顔が向いた。 「いらっしゃい」 「本を売りたいんだ」  洋吉が答えると番台の猫を追い払う。猫は怒りもせずに、立ち去っていく。 「で、背負っているもん出せ」 「はい」  客なんだから、そんなぶっきらぼうに言わないでほしいと洋吉は思ったが、あえて言わなかった。 「怪談話が多いが、おとぎ話もある。なんとかならないか」 「はあ。まあ」  店主はこれくらいと算盤を見せた。洋吉は渋い顔をした。それで男はなにも言わない。 「もう一声」 「無理だね。状態がいいが、今日日怪談を読むお客様はいない。怪談ならば落語を聞けばいい」 「そんな」 「知らなかったのか。買い取ってもらうだけでもありがたいと思え」 「叔父は集めたものはそんなに価値がないのか」 「価値がないかと言えばな、そうでもない」 「えっ」 「万華鏡商店街の古本屋の主ならば、高く買ってくれる。ただ、万華鏡商店街はちょっと歩くぜ」 「万華鏡商店街、どこだ。そこ」  まあ行けばわかるさと言われた。古本の代金をもらい。洋吉は万華鏡商店街かとつぶやいた。そんな商店街があるなんて知らない上、あったとしてもどうするつもりもない。軽くなった体で叔父の家に行くと玲子が叔父の日記を読んでいた。 「面白いかい」  振り返った玲子は恥ずかしそうにうつむいた。うつむいたときの頬は赤い。柔らかそうな肉付きをした頬である。若さがあるゆえに、美しい。洋吉は作家気取りで思った。洋吉より玲子の方が年上であるが、こうして恥じらう姿を見ていると、玲子の方が年下に見える。 「電気と水道を止めてしまいました。後はここだけです」 「ああなるほど」 「古本はどうでした」 「あまり期待できまい。どうやら怪談は売れないようだ」 「まあ」  玲子は寂しそうな顔をした。そんな顔を玲子がいじらしく思えた洋吉は「玲子さん一冊記念に持って行くのはどうかな。どうせ処分するんだ。君が持って行ったって構わないよ」と洋吉が言い出す。玲子はじっと洋吉を見つめていた。星を集めたような輝きを放つ目だと洋吉は思う。叔父もこんな気持ちだっただろうかと洋吉は考えた。 「じゃあ一冊だけ」  怪談本。花の精霊が大酒に酔って大きな花になる話が書かれたものだ。玲子は大切そうに本を持つ。 「それじゃあ」 「それじゃあ」  ランプを付けた。古本屋に行く前にあらかた本を見たかった洋吉は本棚の整理をした。本の間には手紙が挟んであった、紙幣が挟んでいた。懐かしい洋吉と叔父のやりとりを書いた走り書きのようなものもあった。叔父の気配はそこらかしこ、感じられ、洋吉にはまだ叔父が帰ってきそうな気分になった。  ランプは灯心の油を吸いながら燃えていた。洋吉はランプに気をつけながら片付けていた。 「ごめんくださいまし」  玄関から人の声が聞こえた。洋吉は素直に出た。財産らしいものはない上、泥棒だと思えなかった。叔父の知り合いかもしれない。しかし、夜に訪問客とは叔父も人らしい人付き合いがあったのかもしれない。そんなことをつらつらと洋吉は考えていた。 「万華鏡商店街の古本屋朝霧です。名刺がこちらに」  まさか、万華鏡商店街の古本屋がこちらに来るなんてと洋吉は驚きと薄気味悪いものを感じた。朝霧には叔父の家は教えていない。朝霧なんて行ったことがないのだ。土台、ここに来るのは無理だ。  古本屋朝霧から来た男は名刺を渡す。古本屋朝霧、店主三津堂(みつどう)と書かれている。三津堂は顔を上げている。若い男である。これと言った特徴のない顔である。 「あなたの叔父さまには大変お世話になりました。だから来たんです」 「線香を上げに?」 「いえ。本を買いに」 「だからって夜に来るなんて」 「まあそうですな」  まるで気にしない口振りであるから洋吉にはかんに障る。帰ってくれという前に三津堂が言い出す。 「本をまるまる買いますから」 「えっ」  虫のいいはなしである。そんな洋吉の警戒心に気がついたが、三津堂は「いまさらあなたに、なにかをするつもりはありませんよ。おじさんの線香を上げて帰るだけでもいいですから」と引き下がる。  結局洋吉は突っぱねることができずにいた。家に上げると三津堂は本棚を見つめた。さっそく商売らしい。やれやれと思っていると本の頁をめくる。そうして本のページに目を落としている。洋吉にはとても不思議なことをしているような気持ちになった。本の査定をしているのだろうか。そんなことを考えていると「いやあ。面白い」とつぶやいた。  本を読んでいるのだ。呆れた洋吉は「線香を上げるんじゃなかったのか」と言い出した。洋吉の気持ちを知っているのか、あい、わかりましたと三津堂は言った。 「で。佐内さん。どうやってこんな姿になったんでしょうね」 「ああ。心臓が弱っていたらしい。お医者様が言っていらした」 「心臓は弱い方ですか」 「いや。これと言って、体が強い方でもなく、弱い方でもない」 「まあ。それはますますご愁傷様なことで」 「はい」  そんな会話をしている内に洋吉も神妙な気持ちになった。叔父の位牌を見ているうちに、自然とうじうじとした悲しみが打ち寄せてきた。洋吉はそれをどうしようかと考えなかった。川の流れに身を任せるように悲しみに浸っていた。 「いい人でした」 「ええ」 「お人好しかもしれませんね」  はいと洋吉は思わず頷いた。 「とりあえず、この本を買い占めます。お金はこちら。後で取りに来ますから」  洋吉はうなずいた。悪い人ではないようだ。夜に来るなんて非常識だが、それも忙しいからかもしれない。洋吉はそんなことを考えていた。 「洋吉さんも大変でしょ。菓子折りでも持ってきます」  そう言って、三津堂はすたすたと金を置いて部屋に出た。玄関で見送った姿は、背中に哀愁が漂っていた。妙に洋吉はセンチメンタルな気持ちになったのはいうまでもない。確か本を取りに来るのは明日。そろそろ家に帰ろうと洋吉は思った。  洋吉が帰る姿を三津堂が見ていることも知らずにいた。三津堂は感情のない面で洋吉を見ていた。それを知るものはいない。洋吉は気がついていなかった。三津堂はこうつぶやいた。 「果たして大丈夫だろうか」と。夜の闇が三津堂の言葉を包むように、隠していた。
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