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美香の章その5 美香の決意
北海道の仁木町にある美香の実家にいる間は、何かと忙しかった。
観光果樹園の仕事は意外と多い。
朝早くから果実の収穫と箱詰作業。
日中は観光農園の受付や対応。
日が暮れたら、翌日の収穫準備や箱の準備。売上の計算。
一通りの仕事が終わるのは十時近くだった。
美香は
「別にいいんだよ」
と言ってくれたが、みんなが忙しそうにしているのに、私だけのほほんとしている訳にはいかない。
それに、どの仕事も初めてで、楽しかった。
「別にいいよ。それに楽しいし」
「そお。ならいいんだけど」
「それよりも。毎日こんなに忙しいの?美香の実家って」
「うん、今の時期だけだけどね」
「今だけ?」
「うん。冬になったら、ぐっと暇になるんだ」
なるほど。
それで美香は夏休みはびっしりと実家にいるんだ。
そんなある日の深夜、
美香は寝ている私を起こした。
私は寝ぼけ眼で美香に聞いた。
「どうしたの。今何時?」
「三時半。ちょっと来て、見せたい物があるの」
「見せたい物? 私に?」
「うん。そのままでいいから来て」
私はパジャマのまま美香に付いて行った。
美香もパジャマのままだった。
玄関を出ると、夜の冷んやりとした空気が頬を撫でた。
空にはまだ星が出ている。
美香は家の軽トラの所に行き
「乗って」
と言った。
私は言われるまま、朝露で濡れているドアを開け、助手席に座った。
夜明け前の静寂を打ち破る様にエンジンが始動し、軽トラは走り出した。
美香はマニュアルシフトを巧みに操り、舗装されていない果樹園の細道をぐんぐんと登っていく。
ペーパードライバーの私には出来ない芸当だ。
十分程走ると、木のない開けた丘に着いた。
美香はそこで車を止め、エンジンを切った。
空が少し白み始めていた。
「良かった。間に合った」
と言って、美香は私に缶コーヒーを差し出した。
私は
「ありがとう」
と言って、それを一口飲んで聞いた。
「見せたい物って何」
美香も缶コーヒーを一口飲んで、フロントガラスの向こうを眺めながら答えた。
「朝日。ここからの朝日が最高なの」
しばらくすると、
山合いの向こうがオレンジ色に染まり、そこから光が差し込んできた。
下にある果樹園はモヤに覆われていて、それはまるで雲海の様だ。
その幻想的な光景に私は思わず
「きれい」
とつぶやいた。
美香は嬉しそうに言った。
「よかった。でもモヤが無ければ海も見えるんだけど、ちょっと残念」
「それでも綺麗だよ。ありがとう」
「どういたしまして。小さい時、パパが時々ここに連れてきてくれたんだ」
「朝日を見に?」
「うん。そしてよく先代の話をしてくれたの」
「先代?」
「うん。おじいちゃんのおじいちゃんのそのもっとおじいちゃんの話」
「へえ、そんな前なんだ」
「この果樹園の始まりは、先代が植えた一本のりんごの木だったんだって」
「へえ」
「そして二代目がブドウを植えて、三代目がさくらんぼを植えて、そしてパパは観光果樹園を開いた」
「へえ、すごいね」
「パパは必ず言うの。この果樹園の歴史は北海道の歴史そのものなんだってね」
「ふうん、で、美香はどう思ったの」
「私もこの果樹園を継ぎたいって思った。パパみたいな凄い事は出来ないかも知れないけど、これを守りたいって思ったの」
「じゃ、園芸工学に進んだのもそれが理由?」
「うん、そう」
「すごいな美香」
「そんな事ないよ。たまたまだよ」
「謙遜するなよ。頑張れ五代目っ!」
私は美香の肩を叩いた。
美香は「ありがとう」と言った後
「じゃ、戻って朝ごはんにしよう。今日も忙しくなるよ」
と言って、軽トラを動かした。
タイヤが踏みしめる砂利の音が、不思議と心地よく感じた。
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