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ティッシュ配り
ティッシュ配り ゆい子
人通りの多い駅前。
三十過ぎて、超ミニスカート姿。
ティッシュを配るのに、なぜ超ミニ・・・・。
誰も私の脚なんて気にしていない。わかってる。私の自意識過剰なことくらい。
それにしても短すぎる。パンツが見えそうだ。
世の中には「見せパン」というものが存在するらしい。しかしそれは定義が統一されておらず、曖昧で、本人が「これは見せパン」と思えば「見せパン」になる、というものらしい。私はこのバイトを始めてひと月ほどで、こうした世間の常識を一つ学んだ。
だから今ではティッシュ配りのバイトのたびに「見せパン」を履いているが、やはり抵抗がある。だってパンツはパンツなのだから。
パンツに気を取られて、駅前でティッシュ配りをしている目的を忘れそうになる。
大学卒業後は大手の輸入雑貨の会社で働いていた。同期で一番最初に本社で係長になった。最年少だともてはやされた。
麻人(あさと)とは学生時代からつきあっていて、まさか同じ会社に就職することになるとは思わなかった。
「第一志望です」
どの会社でも当たり前に言う台詞。第一志望が三十社以上あって、自分の心の中でどれが本当の第一志望なのか、わからなくなった。
内定をもらったとき、麻人は言った。
「ブラックじゃなく、まともな人間として認められたうえで働けて、その対価としてそれ相応の給料をちゃんと支給してくれる。そんな当たり前のことを当たり前にしてくれる会社が第一志望。それでいいんだよ」
どの会社の面接でも偽りのアピールをしていた気がして、ずっとモヤモヤしていた私に、麻人は霧を吹き飛ばして視界をクリアにしてくれた。
「卒業したらお別れになっちゃうのかな、って悲しくなったりしたけど、ずっと一緒にいられるんだね」
私は麻人の腕枕で幸せに浸った。
「仕事で認められたら、みゆきのご両親に挨拶に行かなきゃな」
「麻人・・・・それ・・・・」
「何年かかるかわからないぞ。それに同期になるみゆきだってライバルだ」
「私じゃ麻人の足元にも及ばないよ」
私はベッドの中で何度も麻人にキスをした。
確かに幸せはこの手の中にあった。
私はいつから、なにを、どのように、間違ったのだろう。
私はただ、一生懸命仕事をした。勉強をした。得意なはずの英語でつまづいた。泣いてはジムで体を動かし、疲れて眠って、立ち上がった。
夢中で仕事をしていたら、係長に任命された。
それだけだったのに。
麻人がある日失踪するまで、私はなにも、本当になにも、気づかなかった。
麻人が傷ついていたことに。
そしてその傷を癒してくれるあたたかい心が、麻人のそばにあったことに。
麻人はある日突然会社を辞めた。私にはひと言も言わずに。同期の滝川さんという総務の女性に教えられて、私は会社を飛び出して麻人のアパートへ急いだ。アパートはもぬけの殻だった。なにもなかった。麻人と私のおそろいのマグカップも、何度も愛し合ったベッドも、私の歯磨きセットも。
まともに仕事ができなくなり、頻繁に休むようになった私は、仕事で大きなミスを犯した。契約したスイスの腕時計は港に到着しなかった。
私は会社を辞めた。
数ヶ月後に滝川さんからラインがきた。駅のホームで麻人によく似た人を見かけたというメッセージを読み、私はそれから毎日何時間も駅で麻人を探すようになった。
完全に心が壊れていた。
貯金がなくなり、手元にあと二千円だけになったとき、私はティッシュ配りのアルバイトを見つけた。
駅から徒歩五分の場所にあるエステティックサロンのクーポンが入ったポケットティッシュ。これを駅前で一日中配るアルバイト。
アルバイト情報誌で見つけたこの仕事に、私は飛びついた。
エステサロンの事務室で面接をしてくれた社長は、目が離せなくなるほど美しい女性だった。
社長の長い睫毛は履歴書と私のあいだを何往復も行ったり来たりした。二度見どころではない。そりゃそうだ。有名な会社を辞めて、ティッシュを配りたいと言ってきた三十過ぎの女が怪しくないわけがない。
「なぜこの仕事を始めたいの?」
「失踪した婚約者を探すためです」
私は素直に答えた。就活でさえ、一度も素の自分を見せたことはなかった。
ふううう。
社長は深いため息をついた。
「色恋沙汰が理由で働かれてもね・・・・」
「ダメですか?色恋沙汰で働くのって、そんなにいけないことですか?」
私は必死だった。
「彼を探しています。もう一度会いたいんです。失踪した理由も訊きたいけど・・・・ただ、もう一度だけ会いたいんです。ダメですか?色恋だからダメなんですか。今、全財産が二千円しかありません。何ヶ月も彼を探してお金を使いました。貯金ももうありません。彼の実家がどこかも知らないし、携帯電話は解約されていました。駅前で働きながら彼を探す方法がほかにありません。ティッシュ配り、やらせてください!お願いします!」
半ば叫ぶように訴え、涙はとめどなく溢れ、今の私は滑稽だと、頭の片隅で冷静になっている自分がいた。
社長はしばらく無言で私を見つめていた。
視線を外したら終わりだ。
なにが終わりかわからないが、私は漠然とそう感じて、涙や鼻水で汚い顔になったまま、社長を見返していた。
社長は根負けしたように苦笑すると、私にポケットティッシュを差し出した。
「色恋沙汰、いいじゃない?それはあげる。配りながら絶対婚約者見つけなさい。私がひっぱたいてあげる」
採用だ。
私は毎日パンツが見えないようにソロソロ歩きながら、ポケットティッシュを配った。
一緒に働く女の子達はみんな私より十以上年下だったが、親切で、優しく私を受け入れてくれた。
「みゆきさん、能の『すり足』っていう歩き方、知ってます?」
通行人が減る時間帯になると、マコちゃんというフリーターのかわいい女の子は、よく話しかけてくる。コミュニケーションが好きでもあり、得意でもあるのだろう。
「なんとなく、わかる」
「そういう歩き方で配ってますよ」
「え、そう?でもパンツ見えそうで」
「チラッと見えるかな~、ってのがいいんですよ。夢を与えて」
マコちゃんは底抜けに明るい。輝いている。
だからだろうか、私からティッシュを受け取らない女性が、数メートル先に立つマコちゃんからは受け取ることが多い。
このアルバイトをして四ヶ月が経った。麻人らしき人は一度も見かけない。
マコちゃんには以前、事情を話した。
「婚約者の写真、ありますか?」
私はスマホの待ち受け画面を見せた。マコちゃんはじいっと瞬きもせずに見入ると、
「おっしゃ、覚えた。私が必ず捕まえる」
と固い拳を両手に作り、力を込めた。
捕まえるって・・・・。犯人てわけじゃないんだけど。
私は頼もしい味方に支えられて、恋人探しを続けた。
「みゆきさん、携帯、鳴ってますよ」
その日は珍しく、スマホのマナーモードをサイレントではなく、バイブにしてあったようだ。
「ごめん、うるさかったね」
とバイトのみんなに謝りながらスマホの画面を見ると、滝川さんから電話がきていた。
「もしもし?」
小声で電話に出ると
「いた!いたよ!」
と滝川さんはかなり焦っている様子だ。
「なにが?」
「麻人君!」
ドクン。
懐かしい響き。懐かしい名前。
心臓が壊れそうになる。スマホを持つ手が震える。
私はスマホを耳にあてたまま、キョロキョロ辺りを見回す。
「どこ、に?」
「みゆき、駅前にいる?」
「いる」
「私、百貨店の出口のところで見つけた。麻人君、駅に向かってる。私、離れて尾行してるから。えっとね、麻人君、ボーダーのプルオーバー着てる。目印にして」
麻人がボーダーの服を・・・・。
私の記憶では麻人は一度もボーダーの服を着たことはなかった。
十年もつきあっていたのに。彼は変わったんだな。ちょっと寂しい。
「でね」
滝川さんは続けた。
「小さい子供を抱っこしてる女の人と並んで歩いてる」
私の視界は真っ白になった。なにも見えなくなって、ただ、心臓の音だけがやたら大きく響く。
ドクン。ドクン。ドクン。
浮かぶのは麻人の笑顔。私に好きだと言うたびにとろける表情。私が不安になると、なぜ大丈夫かを順序立てて説明してくれるときの力強い瞳。
麻人。私の好きな麻人はまだいるよね?
マコちゃんが私の異変に気づいた。頭のいいマコちゃんは一瞬で察してくれて、私がなにも言わずにスマホを差し出すと、電話口に出てくれた。
「・・・・はい、はい。対応します。みゆきさんは・・・・ちょっと・・・・動揺していて、動けないみたいです。でも必ず。はい。一度、切りますね」
滝川さんとマコちゃんは面識がないのに、話してくれたことがありがたかった。
マコちゃんは私のスマホを私の超ミニスカートのポケットに押し込むと、ティッシュの入ったカゴにチラシを数枚突っ込んで、駅の左に向かってスタスタ歩き出した。
「こんにちは~、かわいいお子さんですね。あ、お母さん、おきれいだからこういうのは興味ないですかあ?」
マコちゃんがつかまえた、子供を抱っこした女性の隣には、見覚えのあるシルエットがあった。
少し肩を落とし気味に歩く、背の高い、愛しい姿。
マコちゃんの誉め上手な営業に、女性は気を良くしたのか、立ち止まって話をし始めた。
「ウエストはね、どうしてもねー」
「今だけ二十パーセント引きのクーポンついてるんですよお。あ。ご主人様、メンズの説明、お聞きになるだけでも。あちらの者が詳しいんで」
マコちゃんが少し離れた場所で突っ立っている私を指差した。
麻人はあっ、と目を大きくして硬直した。
「奥様に説明しているあいだだけでも、どうぞ」
マコちゃんに半ば強引に女性と引き離されて、麻人は戸惑いを隠せない様子のまま、私の目の前にやってきた。
「みゆき・・・・」
滝川さんとマコちゃんが作ってくれた、貴重な、短い短い時間。このときのための三年間。
「麻人。良かった、生きてて。ちゃんと元気で」
見つけたら殴ってやろうと思っていた。気が済むまで罵ってやると決めていた。なのにいざ本人を目の前にしたら、なにもできない。憎しみなんて消えてしまった。はっきりわかるのは、この恋が終わったということだけ。
「みゆき、ごめん。俺・・・・」
「『俺を必要としてくれる女を選んだ』、でしょ?」
女性が抱いている子供の大きさを見れば、だいたいわかる。おそらく彼女の妊娠初期と麻人の失踪の時期は重なる。
「・・・・ごめん」
「浮気が本気になった。よくある話よ」
「ごめん」
「お幸せにね」
私は左手を軽く挙げた。
「お連れ様、いらっしゃいましたよ」
営業スマイルを見せて
「よろしければ、どうぞ」
とポケットティッシュを渡した。
少しだけ、麻人の指が触れた。温かかったかどうかもわからないくらい、少し。
女性が抱っこしていた子供は、麻人にとてもよく似ていた。
駅の改札に向かって歩いていく麻人と奥さんの後ろ姿は、とても幸せそうで、お似合いだった。
奥さんが先に改札を通り、その後ろを麻人が通る、その瞬間だった。一度だけ、麻人が振り返って私を見た。
切ない、泣きそうな顔。今すぐ走り出して私を抱きしめたい感情が溢れていた。昔、何度も見たことがある。私は麻人にきつく抱きしめられるたび、幸せだと心底思った。
手を・・・・伸ばしてもいい?
私の両腕が微かに動いた。
「パパ?」
奥さんに呼ばれて麻人はハッとし、慌てて改札を抜けていった。
エステサロンの事務室。
応接セットの椅子に座り、私は二時間ほど号泣し、瞼をお岩さんのように腫らしていた。
相変わらず美しい社長は、私を慰めるなんてことは全くしてくれなかった。それより、私についてきてくれた滝川さんを一目で気に入り、エステサロンのイメージモデルにスカウトしていた。
マコちゃんは涙ぐみながらティッシュを配っていた、とあとで聞いた。
あれから一年。
私は小さな雑貨店で働いている。
あの駅を利用することはほとんどない。
それでも、あのとき振り返った麻人を思い出す。
麻人は私を好きで、私は麻人が好きだった。
その事実だけを、今でも愛しく思う。
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