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5.折り返し
それからの二週間は、授業、研究書作成、相次ぐ学内会議(いい加減減らしたい。最大30分法則とか導入すれば良いのに)、院生指導などであっという間に過ぎた。
その間中、若林先生の緑のボールペンはデスクの引き出しに入っていた。これを返さなきゃと思うけど、返したらもう何のつながりもなくなってしまう気がして、なかなか返せない。
でも、忙しい中でも、そのボールペンを取り出してちょっと触れてみることで元気が出た、ものすごく。「若林先生」、心の中で呼んでみる。笑っちゃう。何だこれは?これが高嶺の花と言われ続けてきた私?いい加減大人になって久しいのに。自分の気持ちはよくわかってるのに、方法が見つからないなんて。なんてザマだ。”正面突破“。咲夜さんがそう言ったのを実際聞いた事はないのに、でも確実に咲夜さんの声で聞こえてきた。
「すみませんが、呼吸器外科外来をお願いします。」
翌日私は病院に電話をかけた。すぐに外来に繋がった。
「看大の竹林と申しますが、統括部長の若林先生はいらっしゃるでしょうか。」
名前を口にするだけで嬉しくなる。
「ああ、今日若林部長は一日オペですので、外来には戻りません。何かお伝えしましょうか。」
テキパキとした声が外来のざわめき越しに聞こえる。
「はい、ではお願いします。私も出てしまいますので、若林先生がお手すきの時に、こちらの番号-、にお電話いただけますよう、お伝え願えますか。」
「はい、わかりました。お急ぎですか?」
うん、すごく急いでる。早く声が聞きたいから。
「いいえ、大丈夫です。お手数をおかけします。」
「では、必ずお伝えします。外来師長の戸越が承りました。」
「戸越さん、よろしくお願いします。」
「失礼します。」
ふう、ともかく終わった。考えあぐねた挙句、外来に電話ってベタすぎて笑える。頑張って”正面突破“したよ、麻。
でもそれから、なかなか携帯は鳴らなかった。講義が終わるといち早くオンにして確認したけど、着信履歴は無かった。夜7時に大学を出た時も、日比谷線に乗ってる時も、コンビニで買い物してる時も鳴らなかった。こんなのあり?これはさすがに予想していなかった。戸越さんが忘れた、とかないよね。優秀で有名な戸越さんのことだもの。でも、もしかして外来が忙し過ぎて、今日に限って、とか?まず無いな。これは単に折り返す気が無いっていう、それだけ。私もよくやった。どうでもいいと判断した電話は無視。その後、着信しても電話に出ない。それを繰り返せば、やがて煩わしい電話はこなくなる。ああ、あれか。さすが、嵐の若林。判断が速すぎて笑える。その夜はひたすらむなしい気持ちで、赤ワインをがぶ飲みして寝た。
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