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1.情熱
あの時から好きという感情に多くを求めることは止めた。
どれ程焦がれて、どれ程誓っても、断ち切られたあの想い。出来る限り会いに行ったし、それが出来ない時には電話や手紙を書いた。FAXがやっと普及し始めた頃、ステーションのFAXを使っておっかなびっくり送信したことも何度もあった。研修医だったから時間なんて無かった。それでも会いたくて、声が聞きたくて、触れたくて俺の全てを賭けた。それでも、足りなかった。
「さよなら。」
の一言で全部無くなった。
競争相手は距離と時間だった。だからもう愛に期待することは止めた。あの身を切るような苦しみをもう一度味わうくらいなら、愛はいらない。適当な情事で十分だ。同僚の医師や看護師、みんな魅惑的で浅く広く付き合うにはぴったりだった。やがて彼女たちも俺を踏み台にして結婚していった。時には不倫の誘いもあったが、不倫はしない。愛に期待しなくなったからと言って、モラルをなくした訳ではないから。愛なんて真っ平ごめんだ。
それなのに、今、俺の目を射貫くような強い瞳で、彼女は言った。
「あなたと私は似ているんです。ずっと探し求めてきたの。だから、断らないでください。立ち去らないで。」
その熱量は、あの時の俺を思わせる。純粋で真っすぐな。でも折れたら深い。だから、俺はかわす。
「いやあ、高嶺の花で名高い竹林先生からそう言って頂けるなんて、この年まで生きてきたかいがありますよ。」
「茶化さないでください。」
瞳が少しも揺れない。強くて黒い、月の光を受けてきらめく美しい瞳。傷つけたくない、この人を。あの時の俺を。
「茶化すも何も、先生のような魅力的な方から声をかけてもらって舞い上がってるんですよ。光栄です。」
「本心を言って下さい。」
「本心?そんなもの、外科医を長くやり過ぎて、どこに置いてきたかわかりませんよ。」
「そうやってうそぶいて、弄んで楽しいですか。」
「うそぶいても、弄んでもいませんよ。かいかぶり過ぎです。」
もう立ち去った方が良いとわかっているのに、何でかもう少しこの人の激しい瞳を見ていたかった。俺たちは見つめ合ったまま、動かない。
「どうやったら先生に会えますか。」
「今日みたいに偶然。」
「偶然じゃありません。待っていたんです、あなたが出てくるのをずっと。」
「待たないでください。緊急オペが入ることもあるし、当直だってまだやってますから。」
「知ってます。統括部長のくせに、いまだに最低週一回は当直をされてることは。」
「へえ、よくご存じですね。」
「有名ですよ。“嵐の若林”って。」
「嵐ってどういう意味ですか。」
「先生のスピードのことでしょう。診断も決断も処置も迅速で、なかなか周囲がついていけなくて、先生が去った後は嵐のような荒れ方と疲労感だそうですよ。」
「迷惑に聞こえますね。」
「でも随分と下が育って、何人かは先生についてこられるらしいじゃないですか。」
「ああ、君島、呼吸器外科部長ですが、あいつはすごいですよ。天才的です。俺よりずっと上をいくようになる。あとは水木もいます。あいつは君島が見込んでいるだけあって、外科的センスが抜群です。」
「スーパー水木は、やっぱりスーパーなんですね。」
「君島がオペ王子であるのと同じくらいに。」
俺たちの間にあったヒリヒリするような緊張感がほどけた。彼女が目元を少し緩めて微笑む。病院にまで聞こえてくる、評判通りの美しさ。でも、もうここまでだ。
「じゃあ、明日も早いので失礼します。先生もお気をつけてお帰りください。」
歩みを強めて立ち去る。背中に強い視線を受けながら。
ふう、やっぱり駄目だったか。一世一代の賭けだったんだけどな。でも噂どおりだった。“嵐”にはニ種類の意味があるって。ニ種類目は、嵐みたいに人の心をかき乱す、ていう意味だって。でも、私には絶対この人だって確信があるんだけどな。
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