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「で、一回干されてさあ。」
もうどう見ても冷めたコーヒーをマグから飲み干しながら、林先生は言った。
「干されたんですか?」
「うん。当時の呼吸器外科部長とどうにもこうにも反りが合わなくて、管理ミスの責任を負わされて。あれは若林くんのせいじゃないって当時みんな言ってた。当の患者さんやご家族たちまで不可抗力だと納得されてたのに。それに、若林くん以外だったら、余計に病態を悪くしてたはずなんだけど。でもともかく、担当医は彼だったから責任をとらされて、しばらくORに入れてもらえなかったの。」
「ひどいですね。」
「全くだよね。でも黙ってるような彼じゃないから、日々部長に食ってかかってねえ。もう当時、外科が荒れて大変だった。で、院長が仲裁に入って、彼を外に出したの。」
「外に?」
「うん、古巣のサンフランシスコ大学病院(SFUH)によ。もともとそこでレジデンシーやってたわけだから。でも、すごいよね、あそこの胸部外科は世界最高峰なんだよ。そこでレジデントやってたってんだから、うちの外科医たちも嫉妬するより学べって話。」
「どこでも若手はそれだけで嫌われますし、さらに経歴が経歴だけに、不利でしたね。」
「あら、竹林先生、そんな風に感じてるの?参ったなあ、あたし、年齢で差別するようなことしたっけか。」
「ああ、いえいえ。一般論ですから。私は、林先生のことを理想の上司だと思ってます。」
「まあ、嬉しいこと言ってくれるじゃないの。」
林先生は目を三日月にしてニッコリした。そしてコーヒーを飲もうとして、またマグに口をつけ、しまったという顔でマグを置いた。可愛い。
「それで、でも今はうちですよね?」
「うん、結局三年間、あっちの胸部外科でフェローをやって、新しく就任した院長に乞われて凱旋帰国。」
「先生、すごい。よく全部ご存じですね。」
「ああ、外科の統括師長が仲の良い友達でさ、よく愚痴だの噂話だの聞いてたからね。だって、ドラマあり過ぎでしょ。若林くんは。だから“嵐の若林”って呼ばれたりすんのよ。」
「嵐?」
「ああ、うん、タレントさんとは関係ないよ。本物の嵐。」
「それはどういう…」
「うん、元々の由来は、行く先々で騒ぎを起こすから、だったらしいんだけど。それから、彼の持つスピード感とか、残す余韻とか、でも使われるようになったみたい。ともかくうちの名物には違いないわ。」
「名物って、先生、私突然東京駅の駅弁コーナーとか浮かんじゃったんですけど。」
あっはっは、とまた愉快そうに笑って、林先生は舌なめずりをした。
「ああ、いいねえ、駅弁。すごく食べたくなっちゃった。よし、今夜うちは駅弁大会にしよう。幾つ必要かな。四つじゃ絶対足りないし、うーん、六つ?あ、でもそれじゃあ奴らの思うツボか。あの子たち、一人二つは絶対いくしな。ってことは―」
と真剣に考えこんでいる。お茶目だ。林先生のお宅は、会社員の旦那さんと中学生男子の双子がいて、家計に占めるエンゲル係数の高さが尋常でないと常に嘆いている。
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