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蛍に押し倒された時、楓は動けなかった。見惚れてしまったのだ。誰かのために、まっすぐ敵意を向けてくる姿に。
そのすぐ後だった。蝶子が大声を上げて泣いたのは。
彼女が泣いたのは、探し物が見つからなかったからでも、蛍を恐れたからでも、ましてや楓を助けるためでもない。彼女があの場で一番冷静だったからだ。蝶子はわかっていたのだ。あのまま楓が刺されていれば、誰が悪者になってしまうのか。
敵わない。
蛍を守りきった蝶子に、楓は負けた。
「ねぇ、楓」
「……何だよ」
「あたしね、ちょっと期待したんだよ」
首を傾けた拍子に、由梨の髪が揺れる。白い花の香りが、また鼻の奥で広がっていく。息苦しく肺を埋めるくらいに。
「引っ越すって言った、あの日……あんなにギリギリになって教えたの、期待してたからなんだ。『行くな』って、楓が引き留めてくれるんじゃないかって」
気持ちが明かされるたび、いくつも過ぎ去ってゆく、後悔。
一緒に帰った、たった数日前の夕暮れの下。天の邪鬼な楓は、そっぽを向いて、心にもないことしか言えなかった。本当に言いたかったのも、由梨が求めていたのも、たった一つの同じ言葉だったのに。
高々と響くアナウンスが、いよいよ列車の到着を告げる。
由梨の両親が、「そろそろ行こうか」と娘を迎えに来た。
ベンチから腰を上げた二人は、微笑み合う。
「ばいばい。楓。元気でね」
「ああ……じゃあな。由梨」
もう、会うこともない。
これが一生の別れになるとお互いに感じ取り、由梨だけが背中を向けた。肩を震わせて。
この胸の痛みも、追いかけたくなる衝動も、いつかきっちり葬ってやれる時が来るんだろうか。こんなにも心が裂かれそうなのに。
由梨達を乗せた列車が遠くなり、やがて見えなくなる。
ホームの柱の影で、楓は膝を抱えて蹲った。
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