母が平和を守るから

2/4
28人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
カチャカチャカチャ… タンッ。カタカタカタ… 指がキーボードの上を流れるように動く。画面上でコマンドラインが次々に流れていく。 「えーっと。ここがこうだから…これで…こう?」 「あれ…あ、こうか。よし!これで、こう!」 キーから手を放してモニターの動きを見つめる。朝に夫と娘を送り出してからずっとパソコンに向き合っているから流石に目がしょぼしょぼしてきた。しばらくモニターを見つめた後、「完了です」と短くチャットのウィンドウに打ち込む。 なんでこの仕事を始めたんですか?と聞かれたら、答えは一つ。 「娘を守るため」だ。 そう、今から10年前のあの日。思い出しただけではらわたが煮えくり返る。 まだ小学生だった茜の学校で、裏サイトなるものが流行りだしたのだ。要は子供達が学校や周囲の人間に対する愚痴や悪口をメインに書き込むサイトだったが、そこに茜の悪口を書き込んだ者が居た。内容としては「ブス」だとか「性格が悪い」とか稚拙な内容だったが、まだ幼い小学生の心を傷つけるには十分な程度に悪質だった。茜は学校に行くのを嫌がるようになった。まだ10歳にもならない小学生がネットというツールを使っていとも簡単に他人を傷つけられる世界に、美津子は強い憤りを覚えた。 勿論学校にも警察にも相談したが、こういうものは特定が難しい、と腰が引けていて全く頼りにならなかった。「なめんな」と美津子は憤った。「うちの娘を傷つけてそのまま逃げおおせると思うなよ」と。 出産前まで7年間、エンジニアとして働いていた美津子には、幸いにして基礎となる知識と豊富な人脈があった。エンジニア時代にお世話になった工藤先輩もその一人で、惜しみなく助言をしてくれた。 正直、怒りがあれほどの原動力になるとは思っていなかった。1年間で、勤務していた時よりも遥かに多くの情報とスキルを身につけた美津子は、ほどなくしてサイトの運営者と悪口を書きこんだ本人を特定し、学校と警察に十分な証拠を提出した。驚いたことに、裏で糸を引いていたのは子供ではなく保護者の方だった。 ほとぼりが冷めた頃、工藤先輩が言った。「お前、それだけのスキルがあるんだったらもう一回働けよ。ていうか、才能あるよ。びっくりしたよ」と。 子供が家を出るまでは働きたくないんです、と言ったら「自宅で勤務すればいいじゃん」と言われて結局美津子はサイバーセキュリティの分野で、フリーのハッカーとして働くことになったのだった。 カチャカチャ、とキーボードを叩いて「よっし」と声に出してみる。気が付けばもう6時過ぎだ、ご飯の支度をしなくっちゃ。 美津子は立ち上がり「はぁ~、どっこいしょ」と伸びをする。拍子にお皿をひっくり返してしまい「あわわわ」と声に出してこぼれたチョコレートを拾い集める。 よく働いたな。今日のご飯はとんかつにしよう。また太るって言われちゃうけど、ダイエットは明日からでいいや。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!