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マンションの階段を駆け下りて、エントランスをくぐると、風吹は左右を確かめた。右にその姿を確認して、走り寄る。
「蓮、ちょっと待て」
すぐに捕まえた肩を振り向かせると、その目には、うっすらと涙を溜めていた。
「……どした? 蓮」
浅くため息をついて、蓮の指先を軽く握る。すると、蓮は、知らなかった、と震える唇を開いた。
「俺、風吹が航空会社受けてたことも、それに受かってたのに蹴ったことも知らなかった! そんなに後悔してることも……。仕事のことも全然知らない。風吹が今何で悩んでるのかもわかんない。なんで、俺だけ知らないの? 風吹の一番近くに居るのに……」
泣き出しそうな蓮の指を風吹は強く握った。
「言わなかったのは、俺だ。蓮は知らなくて当然なんだよ。そんなことで泣かなくていい」
「そんなことじゃない!」
蓮がそう叫ぶと、車道の向こう側を歩いていた男性がびくりと肩を揺らしてこちらを一瞥した。このままここで言い合うわけにいかない。
「蓮、とりあえず中に戻ろう? ちゃんと話すから」
「全部、話して。ここで」
「ここでは無理」
「無理じゃない。嫌だ、話して」
鋭い目を向けて蓮が言い切る。風吹はそれに、わかった、と頷いた。
「じゃあ、さっきの続きだけ聞け。パイロットの道を諦めたことは、後悔してた。でも俺は、蓮の傍に居たいんだ。蓮の笑顔も泣き顔も寝顔も、もちろん怒った顔も全部見ていたいから、ここに居る。俺がそう望んだんだ。傍にいて、いいよな?」
な、と風吹は蓮の鼻を軽く摘んだ。蓮がその手を取って、ぎゅっと両手で握りこむ。
「……俺だってちゃんと傍にいたい。だから、全部話して」
蓮は真剣な目で言う。風吹はそれに深く頷いた。
部屋へ戻ると、話があるだろ、と航生と紅音はすぐに帰ってしまった。申し訳ないと思いつつも、その察しのよさに感謝する。
「蓮、コーヒー淹れるか?」
二人を見送った後、傍に立つ蓮に笑いかけると、蓮は首を振って風吹に抱きついた。
「……蓮?」
「ずっと、足りなかった。風吹が足りなくて、死にそうだった。寝てるトコ、何回キスしたかわかんない」
風吹は熟睡してて気づいてなかったけど、と蓮が風吹の背中に腕を廻す。
「ホントに? 俺は、もう必要ないんじゃないかって、ちょっと思ってたよ」
風吹が微笑むと蓮は顔を上げて、あの時、と呟いた。
「風吹のこと無視してごめんね。ああするしかなかったんだ。隣に居たあの人、俺たちの三つ上の先輩で、俺に『同級生紹介しろ』ってずっと言ってきて……風吹のこと知れたら絶対狙ってくるって思ったから……ごめんね。だって、あの後あの人、風吹の顔見て『好みだな』って言ったんだよ! もう絶対知られたくなくて……」
ぎゅっと蓮が風吹を抱きしめる。そんな蓮が可愛くて、風吹はその小さな頭をゆっくりと撫でた。柔らかな髪が心地いい。
「そっか、ほっとした。嫌われたんじゃなくて」
「好きだよ。誰より大好き。風吹は、俺のものだ」
誰にも渡さない、と蓮が風吹の胸に顔を埋める。ぎゅっと切なくなるように風吹の胸が痛んだ。こんなことを言われて冷静でいられるはずがない。考えることもせずに、風吹は蓮の唇に、自分のそれを押し付けていた。
「俺は、お前のものだよ」
唇の重なる隙間から、囁くと蓮は不器用に頷いた。唇を離すと蓮は微笑む。
「話より、まずしたいことがあるんだけど」
「それ、俺も。多分、一緒のことだ」
風吹はそう言うと、蓮の体を抱えあげた。蓮が小さく頷く。
「寝室までお願い」
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