第五話

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第五話

 ひょうひょうと夜の静寂に響く声が有る。  爛々と闇夜に輝く金色の目が有る。  ぬめるように蠢く尻尾が有る。  胴体は分厚い毛皮に覆われた虎模様。  鵺(ぬえ)は、いつも獲物を欲していた。  ――かつて鵺は、獲物を欲して、魂を欲して、天皇に呪いをかけた。  そして、その天皇の命を受けて、二人の男が鵺を討ち滅ぼした。 ――お主は人に打ち倒されるのだ! ――あの御方のために、その身を滅ぼされるのだ! ――誰に楯突いたか、その身で思い知れ!!  思い出しても憎々しい。  神の眷属はいつの世も旨し香を漂わせながら、我が身を滅ぼす。 『ひょうひょう……今生はそうはいかぬぞ……』  背広を着た男の背を見ながら、鵺はひとりごちた。 ※  その夕方はただの偶然だった。 「……何か声がするな」 「ああ、なんか不気味な声だけど、それがどうした?」  午後六時の鐘が鳴り響き、しんと静まり返った通学路を留羽と煙羅は並んで歩いていた。 「妖怪かもしれない」 「確かめに行くか?」 「ああ」  一も二もなく頷いた留羽に、いつものことだと煙羅は溜息とともに了承を返す。  大抵は何でも無いのだが、気になったことに対して留羽は調べないと気が済まない質だった。  それをこの数週間で嫌というほど煙羅は叩き込まれていた。  ……そう、この数週間、妖怪達は大人しかったのだ。  大きな事件もない。ただ穏やかな日々が過ぎていく。  それは良いことの筈なのに、留羽は不気味さも感じていた。 「こっちだ」  留羽は印を結び、見鬼(けんき)の術を使って妖力を探る。 「妖怪か?」 「間違いない。……害の無い妖怪なら良いのだが」  自然と足は早くなる。終いには駆け足になって、裏路地の方へ留羽と煙羅は導かれるようにして曲がり角を曲がった。 「「!!」」  そこに、血溜まりがあった。 「これは……」 「……臭い。成人した男の血の匂いだ」  煙羅が己の鼻を腕で覆う。 「わかるのか?」 「人を食う妖怪なら多分誰でもわかる。そいつが美味いか不味いか。……それにしたって、こんな臭い肉を食う妖怪なんて悪食も良いところ……」 『ひょうひょう』 「!煙羅、上だ!」  留羽の声に煙羅は慌てて上を見上げる。  不気味な鳴き声、猿の顔、虎の胴体に蛇の尾。 「鵺」  留羽がひと目でその正体を言い当てる。 『ひょうひょう。我を言い当てるとは』 「臭い……おい、その臭い息、お前、人を食らったな?!」 『だから何だというのだ』  煙羅の言葉に、空中で鵺はべろりと舌舐めずりをしてみせた。 『臭い肉だったが、それなりに腹は膨れたぞ』 「人を殺めたというのか」 『だから何だというのだ』  留羽が問いかけると、再び同じ答えが返ってきた。 「人を害する妖怪は滅する。例えお前がただ空腹のために降りてきた獣だったとしても」 『ひょうひょう』  持ち歩いている長物の布を取り払い、白木の剣を取り出す留羽。  煙羅も与えられた二振りのナイフを制服の下から取り出し、構える。  だが、鵺は可笑しそうに不気味な鳴き声で嗤っただけだった。 『斉天童子の言う通り、お前達は何も知らないらしいのう』 「斉天童子を知っているのか!」 『古い馴染みよ』  斉天童子の名が出た途端、留羽の剣を握る手に力が籠もる。 「ならば尚更、逃さん」 『ひょうひょう』  空中でくるりと一回転すると、鵺はそのまま地上へと軽々降り立った。 『比売神よ。お前の力は知っている。むざむざここで命を散らすこともあるまいて』 「やってみなければわからない」 「それに俺もいることを忘れてもらっちゃ困る」 『煙々羅か。お前のことも斉天童子から聞いている。曰く、あれ程騙しやすい妖怪も居なかったとな』 「貴様ッ!」 「煙羅、挑発だ、乗るな」  今にも斬りかかりそうに身を乗り出した煙羅を押し止めるように、片手で留羽が制する。 『ひょうひょう』 「鵺。今此処で貴様を倒す。異論は認めない。貴様は人を食った。人間を、害した」 『今生も人の味方をするか、比売神。鬼食いの姫神一族となった今でも、お前は人の味方をするというのか』 「私は比売神としての職務を全うするのみ。世の平安を守り、秩序を正す。人と妖怪の間を取り持つ存在であらねばならない。そのためならば、荒事も厭わぬ」 『ひょうひょう』  鵺は可笑しそうに何度も不気味な鳴き声を漏らす。  そして、猿の顔をにぃいと歪めて、一際大きな声で『ひょうひょう』と鳴いた。 『哀れな娘、今生の比売神よ。その体で何が出来るというのだ』 「何……」 『我がただ、鳴いているだけだと思ったら大間違いだ』 「!!」  どくん。 「ぐっ……?!」 「ヒメ?」 『効いてきたようだな』 「きさ、ま……なにを、し、た……」  カランと音を立てて白木の剣を落とし、留羽はその場に膝をつく。そして身を折り、口を手で覆ったかと思うとごぷ、と大量の血液を吐き出した。 「ヒメ?!」 『ひょうひょう。我の声には呪いが篭もっておる。少しでも魂の弱い者がいればその声を聞くだけで死に至る。比売神よ、お前の魂は弱い。これ以上無いほどに弱い。そこな煙々羅に比べれ風前の灯火に過ぎぬ』 「ざれ、ごと、を……」 「ヒメ!!」  ナイフをホルスターに収めて、煙羅が留羽に駆け寄る。 「かま、うな……!」  だが、それを弱々しく、ごぷごぶと血の音をさせながらも留羽は気丈に煙羅を叱責した。 「ぬ、え、を……!!」 『煙々羅、貴様では我は倒せぬよ』  ひょうひょうと鵺が嗤う。 「私を食え、煙羅!」 『今比売神を食えば、比売神は死ぬぞ』 「私は死なぬ、食え、煙羅!」 『だが食わねば我は倒せぬぞ』 「食え!」 「――ッ!!」  立ち往生していた煙羅が、留羽の言葉と鵺の言葉に揺れる。  揺れに揺れた挙げ句、再びナイフを構え、留羽の差し出された血塗れの腕を食うことなく、鵺に無言で襲いかかった。 「ばか、が……!」 『愚かなり、煙々羅』 「お、おおおおおっ!!」  嗤う鵺に、煙羅は雄叫びを上げて踊るように斬りかかる。  それは常人であれば見ることも叶わぬ一撃だった。疾く、鋭い。  だがそれは、怒りと戸惑いに曇っていた。 『ひょうひょう』  軽々と鵺はそれを空中へと逃れることで避け、そして急降下して今度は煙羅の肩へとその虎の前足を向ける。 『迷ったな、煙々羅』  それは重い一撃だった。がつっと肩を鋭い爪で掴まれ、裏路地の地面に背中から煙羅は倒れ込む。  かは、と煙羅の肺から空気が無理やり押し出され、動きの止まったその鍛えられた肉体に、鵺はまた猿の唇を思いっきり引き上げた。  覗く牙は鋭く、そして、当たり前のように、吸い込まれるように、自然な動きで煙羅の腹に食らいつく。 「が、ああああああああああ!!!!!!!!!!」 「煙羅!」 『ひょうひょう。……やはり煙々羅よ、煙臭いわ』  はらわたを食い破り、ずるりと内臓が引きずり出される。  悲鳴のような留羽の声が響き、鵺の笑い声がそれに続く。 『む?』  だが、煙羅もまた、笑っていた。 「つか、まえ、た……!」  両腕を思い切り振り上げ、鵺の背に二振りのナイフを思い切り突き刺し、そのまま下へと引いた。 『ぎゃああ?!』 「にげる、なら、逃げられないようにする、だけだ……!!」 『貴様、最初からこれを狙って……?!』 「たまたま、だ……けど、なっ!!」  満月に磨かれた銀色のナイフは易易と鵺の分厚い毛皮を切り裂き、その背中から尻尾まで縦に切り裂く。  まるで豆腐でも切っているみたいに切れるんだな、と何処か他人事のように煙羅は思っていた。 『ひょうひょうっ!!ぬかったわ』  口に煙羅の腸を咥えたまま、鵺が空中へ飛び退く。  背中から大量の血液を撒き散らし、それは辺りに雨のようにばらまかれる。 『この勝負、預けたり。また会おうぞ、比売神、煙々羅。この報いは必ず受けてもらう……!!』 「それはこっちの台詞……だっての……」  はらわたの半分を持っていかれた煙羅はその場に倒れたまま、手だけで中指を立てて応酬した。 「煙羅、煙羅!!」  口元と手を血塗れにした留羽が、煙羅の元に、身を引きずるようにして寄り、その頭を持ち上げて膝に乗せる。 「ヒメ……血、大丈夫か……」 「私の吐血などいつものことだ!それよりお前、はらわたを……!」 「俺は妖怪だからはらわたの一つや二つで死にや……しな……」 「煙羅?!」 「……」 「煙羅!煙羅!!目を閉じるな、煙羅!!」  パチン!パチン!と何度も煙羅の頬を留羽は叩く。  だが、その言葉を最後に煙羅は浅い呼吸を繰り返すだけで目を開けようとはしなかった。  泣きそうに顔を歪めたまま、留羽は煙羅の頬を叩くのを諦め、すぐにポケットからスマホを取り出す。 「九鬼!出てくれ九鬼……!!」  祈るように呟きながらコールする。 「ヒメか、どうした」 「九鬼!!」  何度目かのコールの後、九鬼の玲瓏な声が機械越しに伝わってきた。 「……ヒメ?」 「煙羅が、えんら、が……!」 「ヒメ、それだけではわからない。順を追って話せ。今何処にいる。すぐ向かう」 「っ裏路地、に、っくは、……鵺が、いて……えん、らが、……ッ!!」 「わかった、そこを動くな」  プツ。  未だ口から血を吐きながら、それでもスマホでなんとか伝えた単語で九鬼は全てを把握したのだろう。すぐに通話は切れ、留羽はスマホを投げ出して煙羅の頭に覆い被さるようにして抱きかかえる。 「死なせはしない……私の命を使ってでも……!!」  ぼうっ……っとその時留羽の体が光っていたのを知っているものは、夜の闇しか居なかった。 ※ 「――ッ!!!」 「起きたか、この馬鹿犬」  がばりと跳ね起きた煙羅に冷ややかな声がかかる。 「え、九鬼?」  煙羅の寝ているベッドの横に、丸椅子に腰掛けて何故か林檎を剥いている九鬼が座っていた。 「俺以外に見えるならその頭も鵺にやられたか?」 「いや、俺、裏路地で鵺にやられて、……そうだ、ヒメ!!」 「落ち着け」 「むぐう!!」  皮を剥いただけの丸ごとの林檎を口に押し込まれ、煙羅は無理矢理に黙らされる。  押し込まれた林檎を片手でもぎ取り、勢い余って握り潰した煙羅が叫ぶ。 「あにすんだよ!!」 「ここは病院だ。静かにしろ」 「病院……?」  落ち着いて辺りを見渡してみれば、そこは確かに病室だった。個室になっていて、留羽の姿は何処にもないが。 「……あれ?」 「どうした」 「……俺の腹」 「腹?」  此処には居ない留羽のことを気にしつつもなんとなく奪われた自分の腹の辺りを撫で擦って気付く。 「傷がない」 「傷?」 「いや、俺、鵺に遭って戦って、はらわた食い千切られたんだよ。でもその傷が何処にもない……」 「?はらわたを食い千切られたのはヒメのほうだろう?」 「は?」 「?」  認識の食い違いを認識して、煙羅と九鬼が顔を見合わせる。 「……待て、なんとなく理解できたかもしれん」 「何が」 「お前が大量に失血しているのに傷一つなかった理由だ」 「傷一つなかった……?」  果物ナイフを机に置いた手で眉間を揉むようにしながら言った九鬼の言葉を計りかねて、渡された布巾で手を拭きながら煙羅は怪訝そうに首を傾げた。 「そんな馬鹿な、俺は確かに……」 「身代わりの術を使ったか。無茶なことを」 「身代わりの術?」 「本来ならば己の傷を使い魔に移す術だ。そうすれば術者は無傷で居られる。だが、ヒメは恐らくそれを逆に使った」 「それじゃあ、今ヒメは……!!」 「手術中だ。腸の半分を無くしていたと聞く」 「!!」  ひゅっ、と煙羅の喉が鳴る。 「待て、何処へ行くつもりだ」 「離せよ!」  ベッドのシーツを捲り、勢いよくベッドを降りようとした煙羅の手を九鬼が捕まえた。 「ヒメが死にかけてんのにこんなところでぼんやり寝てられっかよ!!」 「お前も失血で死にかけていた。大人しく寝ていろ」 「だからって……!」 「それとも、お前が身代わりの術を使えるとでも?お前に出来ることは何かあるとでも思っているのか」 「……」 「わかったら自分の身を大事にするんだな」  力なくだらりと垂れた煙羅の手を離し、九鬼は溜息をつく。 「それがヒメのためだ」 「俺のために、ヒメが……」 「なんだ、情が移ったか、煙羅」 「……何が言いたい」 「いや、……使い魔と術者の縁(えにし)というのはこれほどまでに強力かと感心しているところだ」 「縁?」 「とりあえずベッドに戻れ。もうすぐ手術も終わる。そうしたら怖い院長が来るぞ」  言われるまま、煙羅は渋々ベッドに戻る。  とはいえ、頭が多少くらくらする程度であとは何ともないのだ。居心地悪そうに、煙羅は体を起こしたまま辺りをもう一度見渡す。 「ここ、何処の病院?」 「町内唯一の産婦人科、桜ヶ丘病院だ」 「さんふじ……っ?!」 「勿論、唯の産婦人科じゃない。町内唯一の、霊的治療を行える院長がいる産婦人科だ」 「れいてきちりょう?」 「お前は人の体をしているとはいえ妖怪だろう。俺もその類だ。ヒメだって人間の体をした神だしな。そういう“人ならざるもの”の治療を、此処の院長は行える」 「はあ……」 「あらやっだん、もう起きてたのねーん!!」 「……噂をすれば」  扉が開き、やたら野太い、そしてくねくねした声が聞こえてきて煙羅は全身の毛を逆立てた。 「手術は無事終わったわよーん。ちょーっと霊力を使いすぎて危なかったけど、今霊験あらたかな清水で身を清めてるから安心していいわん」 「く、九鬼、このおっさ……お兄さんは一体……?」 「紹介しよう、この病院の院長、桜ヶ丘院長だ」 「桜ヶ丘よん。気軽にさくらちゃんって呼んでね♡」  ピンク色のミニスカナース服に身を包んだ大男が身をくねらせながらウィンクする。  煙羅は全身の毛穴から冷や汗が出るのを感じた。 「それに君も危なかったのよん。血の気が足りなすぎて輸血を三パックも使ったんだから」 「は、はあ……」 「引き千切られた服から覗く筋肉質の脇腹と芸術的なお尻は魅力的だけど、もうちょっと血液になるものを摂るべきね」 「は……はあ……」 「院長、どうやらうちのヒメは身代わりの術を使ったらしい。自分の貧血をコイツに押し付ける代わりに怪我を全部引き受けたようだ」 「あらまあ。それであの怪我?ヒメちゃんにしては可笑しいと思ったのよねえ。怪我の割に血の気は多いもんだから」  桜ヶ丘が目を丸くするが、すぐに得心がいったように頷く。 「そこの坊やとそっくり自分の状態を入れ替えたのね。全く、入れ替えたところで危ないのは変わりないでしょうに」 「それだけ焦っていたんだろう」 「ヒメちゃんらしいわねぇ」  オホホホホ、と口元に手を当てて笑う男を、煙羅は初めて見た。 「ところで九鬼ちゃんは怪我してないのかしら。血塗れでここに来たと思うんだけど」 「俺は一切怪我していません。全部こいつとヒメの血です」 「あら残念。頭のてっぺんからお尻の穴まで全身くまなく調べたかったのにィ」 「……全力でお断りします」 「ツレナイわぁ」  煙羅は、九鬼が一歩後退って引き攣り笑みを見せるのを初めて見た。 「さて、冗談と世間話はこのくらいにして、貴方達が遭ったのは鵺だって言ってたわね」 「え、あ、はい」 「鵺は危険な妖怪よ。魂に訴えかけて呪いをかける事ができる。ヒメちゃんの体は既に鵺の呪いにかかって衰弱している」 「大量の吐血の痕はその所為か」  九鬼が桜ヶ丘の言葉に、顎に手を当てて頷く。 「この呪いは鵺を倒すまで続くわ。早急に鵺を倒す必要がある」 「じゃあ、やっぱり寝てる場合じゃ……!」 「話は最後まで聞きなさいな、坊や」  低い声で押し止められて、煙羅はぐっと押し黙る。 「鵺はただの妖怪じゃないわ。由緒正しい、既に倒された妖怪よ。それがこの世に蘇ったなら、その倒した方法をなぞって倒すしか無い。今回ばかりはヒメちゃんの剣でも君のナイフでも、九鬼ちゃんの銃でもどうにもならないわ」 「なっ……」 「……」  煙羅は目を剥き、九鬼は静かに目を閉じた。 「倒す方法がないって言うのかよ!!院長!!」 「さくらちゃん」 「……え?」 「さくらちゃんって呼んでくれたら、倒す方法を教えてあ・げ・る」  桜ヶ丘のニッコリした笑顔に煙羅は目眩を覚える。これは血が足りてないだけではないだろう。 「……さくらちゃん」 「はいよく出来ましたー!……倒す方法は一つ。かの源頼政(みなもとのよりまさ)が源頼光(みなもとのらいこう)より受け継いで使った弓と、山鳥の尾で作った矢を使って鵺を射落としなさい。その方法を取れば、貴方達の武器でも鵺を倒せるようになるわ」 「み、みなもとのよりまさ?みなもとのらいこう?」 「かの有名な平家物語の再現と言う訳か。これは俺の仕事だな」 「そうね、弓とくれば九鬼ちゃんの出番ね。そして止めを刺すのは煙羅ちゃん、貴方よ」 「俺?」  自分を指差して、煙羅は首を傾げた。 「そう。既に呪いのかかったヒメちゃんに無理をさせる気?」 「私なら、大丈夫だ」 「ヒメ!……?!」 「……!!」 「あらまあ」  扉が開き、留羽の声が凛と響く。  だが、思ったより元気そうなそれに喜びを隠しきれずに留羽の名を呼んでそちらを見た煙羅と振り返った九鬼は慌てて顔を背け、桜ヶ丘は口に手を当てて驚いたように声を漏らした。 「禊からそのまま来ちゃ駄目じゃない」 「時間が惜しい。あの鵺は手負いだ。妖力補充のために新たな獲物を欲している筈」 「とは言ってもねえ……」  顔を背けている男二人を見遣って、気の毒そうに桜ヶ丘は呟く。 「せめて服は着てくるべきだと思うわよ。女の子なんだから」  留羽は水を滴らせた全裸でそこに立っていた。 ※  場所は変わって、狐狗狸骨董品店。 「本当にこの弓がその……みなもとのらいこう?所縁の弓なのかよ」 「疑うなら貸しませんよぉ?」  ぷかりと水煙管を吹かしながら狐狗狸が煙羅に言う。 「山鳥の尾の矢もセットで使わないと意味がないと言うので昔々に高値で買い付けたんです。それを無償でお貸しすることになるとは……とほほ」 「お前の収集癖が役に立つんだ、有難く思え」 「ほんにヒメ様は手厳しくてらっしゃるぅ……」 「九鬼、どうだ。行けそうか」  狐狗狸の愚痴には目もくれず、耳も貸さず、留羽は弓の調子を確かめている九鬼に向かって尋ねる。 「ああ、保存状態もいいし何よりこの弓の霊力は凄まじい。これなら一矢で鵺を仕留められるだろう」 「山鳥の尾の矢は三本しかありませんからねぇ?それ以上は逆さに振ったって出やしませんよぉ」 「わかっている」  九鬼が矢筒に三本の矢を入れて背負う。その姿はさながら、現代の弓取りだ。 「鵺の位置はわかっているのか、ヒメ」 「煙羅を食った所為であいつの居場所は手にとるようにわかる。……またあの裏路地で人を狩るつもりなのだろう」 「なら、さっさと行こうぜ。今度こそやつを仕留めてやる」  ぱんっと左手のひらに右拳を打ち付けながら煙羅が言う。 「ああ、ぐずぐずしている暇はない。六時の鐘が鳴ったらあいつは現れる。裏路地へ向かって待ち伏せておこう」  九鬼の言葉に、留羽と煙羅が頷く。  が。 「っく」 「ヒメ!」 「ああ商品が汚れるぅ」  ごぷり、と再び内部から込み上げてくる血に耐えきれず、留羽がその場で膝をつく。 「血を吐くなら外で吐いてくださいよぉ」 「この状況見て言うのがそれか!!さっさと手ぬぐい持って来い!」 「ひいぃ」  煙羅の叱責に慌てて狐狗狸が奥へ引っ込んでいった。  それを見送った後、留羽の背中を撫でながら煙羅がその顔をしゃがんで覗き込む。 「なあ、今回は俺達に任せて良いんだぜ?お前は呪いを受けてるんだし……」 「……だから何だというのだ。私はそんなことでは屈せぬ。呪いを受けたなら、呪いをかけたモノを討ち滅ぼすのみ」 「正直に言えば、今ヒメに死なれては困る。大人しくしてくれる方が楽なのだがな」 「九鬼、言い方ってもんが」 「正論だろう。今回に限ってはヒメは足手纏だ」 「……私のことは気にしなくていい。血を吐いて倒れたり、鵺に人質に取られるくらいなら無視してやつを射抜け」 「それが出来ないから足手纏だと言っている」 「……」  九鬼と留羽が睨み合う。 「はいはい手ぬぐいですよぉーっと……あれ?なんか気まずい雰囲気……?」 「お前は気にしなくていいんだよ」  空気を読まずに戻ってきた狐狗狸から煙羅は手ぬぐいを引ったくり、留羽の口元に当てる。 「すまない」 「全部吐いちまえ。……九鬼、ヒメは俺が守る。とどめも俺が刺す。それでいいだろ」 「昨日はらわたを食いちぎられたやつの言うこととは思えないな」 「それでもだ。俺はヒメの意思を尊重したい」 「……好きにしろ」 「あわわ……なんか険悪な雰囲気ぃ……くわばらくわばら」  狐狗狸の言葉は誰にも聞かれぬまま、店に充満する水煙管の煙と一緒に溶けていった。 ※  ごーん、ごーん、ごーん、ごーん、ごーん、ごーん。 「いっけね、そろそろ帰らないと母ちゃんにどやされる……!!」  裏路地を通り、近道をしていた男子高校生が息を切らしながら呟いた。  この町には化け物が棲んでいる。午後六時の鐘が鳴ったらそれらが動き出す。  嘘だと言うには、この町には不可思議な現象が多すぎた。  己のような一般人が遭遇するとは思えないが、母親の怒鳴り声は御免被りたい。 「あとは学校の前を駆け抜けて……」 『ひょうーひょうー』 「?」 『ひょうーひょうー』  男子高校生は奇妙な声を聞いた気がして足を止める。  それが最悪の選択だと気付きもせずに。 『ひょうひょうー……貴様の肉を、食らわせよ』 「ひ、ひああああああああああああああああ?!?!?!?!?」  空に浮かぶ、化け物の姿に腰を抜かす。  何故自分が?一般人の自分がこんなモノに出会わなければならないのか。  これは夢なのか、夢なら早く覚めてくれ――。 『ひょうひょう』 「見つけた!!」  響く元気のいい男の声に、男子高校生ははっとして空から前方へと視線を移す。 「鵺!!リベンジマッチと行こうぜ!!」 「……立てるか?」 「え、あ、……姫神、さん?」  自分に駆け寄り、声をかけてきた小さな美少女に男子高校生は覚えがあった。  そういえば今さっき化け物に叫んでいたのも最近編入してきた高杉煙羅とかいう――。 「立てるなら、早く逃げろ。あれに食われるぞ」 「ひっ……」  そんなことは今どうでもいい。  “あれ”から逃げなければ。  男子高校生の本能は、それだけを告げていた。 「……行ったか?」 「ああ」 『ひょうひょう……獲物を逃したか……。まあ良い、極上の獲物がそこにいるのだからな、比売神」 「昨日のようには行かない」  既に布を取り去って白木の剣を剥き出しにしている留羽と、ナイフを構える煙羅。 『二の舞よ。我を倒すことなど出来はせぬ』 「さて、それはどうかな」  煙羅が不敵に笑う。 『空も飛べぬお前達に勝ち目などあるものか』 「だから、俺がいる」 『!』  ヒュオッ!! 「ちっ、素早い……外したか」 『まさか……まさかまさか、それは、その弓と矢は……!!』  空中で身を捻り、矢の一本を避けられて九鬼が歯噛みする。  だが、その効果は絶大で、鵺の猿の面が一瞬で青褪めたのがわかった。 『何故貴様らがそれを持っている!!知っている!!』 「きっしょくわるい院長に教えてもらったのさ!」 「それから狐に借り受けてきた」 『ぐぬ……!!」  煙羅と留羽の言葉に鵺が喉奥で唸る。 『しかし喰らわねばどうということはない!射手があれでは……』  ドスッ! 『な……』 「射手が、何だって?」  二本目、深々と虎の体に矢を突き刺して、九鬼は嗤う。 「一本目は勘が鈍っていただけだ。これで貴様はもう飛べない」 『ぐ、ああああ!!!』  矢が刺さったところから大量に血が吹き出し、鵺は悶えながら地上に落下した。 『く、くそ……しかし我は昔の我とは違うのだ!斉天童子に力を与えて貰ったのだからな!!』 「斉天童子……」  ゆらり、と留羽の体が揺れる。 『ぎゃあっ?!』 「その話、詳しく聞かせてもらう」  体が揺れたと思った瞬間、留羽は白木の剣を落下した鵺の前足に突き立てていた。 「やつは何処だ」 『し、知らん……』 「嘘を付くな!!」 『知らん!!本当だ、我が封印されし塚に煙の顔だけで来て、我に復活の力を与えていった!!』 「……ならば、貴様に用は無い」  ぞぶり、と前足から白木の剣を抜き、その額に切っ先を突きつけて留羽は宣言する。 「人に害為す悪しき妖怪よ。その身を再び塵へと返すがいい」 『……があっ!!』 「!!」  一声大きく吠えたかと思うと、鵺は大きく体を反転させて蛇の尾で留羽の小さな体を弾き飛ばした。 「ヒメ!」 『まだだ、まだ我は死なぬ!この身は朽ち果ててはおらぬ……!!』 「悪足掻きをっ……!!」  煙羅が走り、鵺の前に立つ。 「お前はもう終わりなんだよ!!!」 『貴様ごときにやられるものか!!』  後ろ足で立ち上がった鵺が煙羅の体を押し潰そうと上半身を倒してくる。  それを慌てて一足飛びに後ろに退いた煙羅は、舌打ちをして右手のナイフを振るった。 『ぎゃああっ!?』 「昨日の仕返しだ馬鹿野郎!」  ナイフは鵺の左目を切り裂き、うち悶えるように鵺は前足で左目を押さえてごろごろと転がる。 「終わりだ!!」 『こんな、こんなところで、こんなやつらに……!!』 ――お主は人に打ち倒されるのだ!!  鵺の脳裏に過去とどめを刺した男の言葉が蘇る。  だが、目の前の男は同じ妖怪だ。  妖怪の匂いしかしないのに――。 「でやあああああ!!」 ――この男の顔は、まるであの人間のようではないか――!!  先程吹き飛ばした留羽が鵺の目に留まった。  壁に背をぶつけたのだろう、気を失ってぐったりとしているその小さな姿が、あの気弱な天皇の姿と重なる。  視線を移せば、弓を構えたままじっとこちらを見つめている九鬼の姿もあった。 ――これでは、あの再現ではないか……!!  鵺の額に、煙羅のナイフの切っ先が二つ突き刺さる。 『ぎゃああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!』  人の耳には聞こえぬ絶叫を響かせて、鵺の体は灰となった。 ※ 「はぁーい、打ち身一名様ご案内ー♪」 「桜ヶ丘院長……そのノリはなんとかならないのか……」 「やっだもうヒメちゃんってばさくらって呼んでっていつも言ってるのに!!」  煙羅に背負われた留羽は桜ヶ丘のテンションにぐったりと項垂れた。 「本名は隆(たかし)の癖に……」 「本名は呼ばないでッ!!」 「なあ九鬼……俺こんなのに助けられたのか……?」 「言うな。腕は確かだ」  あの戦いの後、背中と腹に打ち身を受けた留羽の治療に、三人は桜ヶ丘病院を訪れていた。 「ああん、いい男二人は元気そうねェ。でも後で全身くまなくチェックチェック!しちゃうから覚悟してよねん」 「うっそだろ!!」 「い、いや、院長、俺達は全くの無傷で」 「それを確かめるためにチェックするんじゃない!うふ、毛細血管の一本まで覗いちゃうんだからぁ……♡」 「嫌だ!!」 「やめてくれ!!」 「……桜ヶ丘院長、私の治療を忘れないでくれよ……」  男二人の悲鳴を聞きながら、留羽は煙羅の背中に体を預ける。  その背中は広く、暖かかった。 第六話へ続く一一。
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