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エルゼ・冬の紅薔薇 1
『彼のものを秘匿すべし』
エルゼ・バルシュミーデ
我が母、エルゼが残せし日々の記録を図書室へ収め、一族の子孫へ伝える。
母エルゼはガブリエラであったが、領主の片腕として内政を担い、常に領土の民を第一に行動した。植物学に精通し、風土病と飢饉を克服すべく尽力。我が領の基幹産業である薬種と種苗の礎を築いた。
その赤い髪から『冬の紅薔薇』と称され民から敬愛された。
厳しくも慈愛に満ちていた母を私は誇りに思う。
第二十二代当主、ランベルト・バルシュミーデ
丸い胸なんか、いらない。
エルゼは寝台に腰かけたまま、豊かな胸に幅広の布を巻いた。襟つきシャツの釦を喉元までしめ、厚手の黒いズボンに膝までの編み上げの長靴を履く。
今日は丘の向こうの沼まで足を伸ばす予定だ。防寒用の帽子と外套を用意しなければ。
立ち上がりクローゼットに手をかけたとき、ノックもなしに入口の樫の扉が開かれた。
「その容は、なに?」
室内に不遠慮に踏み込んできたのは、小柄な女性だった。レースに縁取られた肩まで届く、緩やかに巻かれた金の髪。白い胸元には大粒の紅玉をあしらった首飾りが光る。長い深緑のスカートの裾を引いて女性はエルゼの前に立った。
「朝食が終わってすぐに姿をくらませたと思ったら、お出かけのご準備なのね」
「ユーリアさま」
エルゼは右手を胸にあて、軽く膝をおり頭を下げた。
「ズボンははくなとイグナーツさまより言い渡されているはずよ」
整った顔だちから冷酷な視線をエルゼに送る。
「これは……今日は遠出を致しますものですから」
「まあ! 第三室のあなたが二室のわたくしに口ごたえする気?」
声高にいい放つと、エルゼに詰め寄った。
「アルマサナスで学位を受けたご自分は、特別扱いされて当然だとでもおっしゃるの?」
「そんな……」
エルゼは肩を小さく震わせた。わななく口もとを指で隠し……そして……吹き出した。
「えー! 笑ってはだめよ、エルゼ。もう少し付き合ってくれなくちゃ!!」
笑い声をこらえるエルゼにユーリアは愛らしく頬を膨らませて抗議した。
「ごめんごめん、ユーリア。なんどやっても可笑しいよ。やっぱり第三夫人をいびる第二夫人役なんて、きみには無理だ」
エルゼは親しげにユーリアの頭に手をのせた。
「せっかく第三夫人がきたら苛めてやろうって思ってたのに。幼なじみのエルゼなんだもの。苛めがいがないわ」
ユーリアはすとんと、猫足の椅子に腰をかけた。
「出かけるの?」
「うん。植物採取に。まだ見ていない領地の北側の丘から向こうを」
エルゼは外套と帽子をクローゼットから出して空いている椅子に置いた。
「髪、結ったげる」
「ええ……いいよ。帽子かぶるから潰れるし」
エルゼは簡単にまとめただけの髪に手をやった。
「そんなの言い訳にもならないわ。館からの出入りのときにアステーデさまに見とがめられたら大ごとよ」
ユーリアはエルゼの手を引くと、自分と入れ替わりに椅子に座らせた。
「もったいないわ。きれいに伸ばしたんだもの。編み込んで華やかにしましょう」
ユーリアはエルゼの長く伸びた赤い髪をていねいに櫛けずり編み込んでピンで頭に留めていった。
「去年みたいに、アルマサナスまでとはいかなくても、どこか遠くに行けたらいいのに」
ユーリアはため息をついた。もう何度も聞いたけれどエルゼは飽きることなくユーリアの愚痴に付き合う。
「でも、ほんとうにあの人は綺麗だったわね。式典に出ていたエルゼの後輩の……」
「ロティシュ? まあね。ロティシュは五人しかいない、ガブリエルガブリエラだから」
性の中間、ガブリエルガブリエラは男であり女である。調和を体現する存在は翼はなくとも『天使』の称号に恥じない。
女性的な両性のガブリエラのエルゼとちがい、ロティシュは端正な男のように見えながら、美しい女のようでもある。
「真っ直ぐな黒髪が腰までとどいて……目もとが涼しげで東方系で異国的な雰囲気がすてきだった」
ほう、とため息をつくユーリアはエルゼより三歳うえの二十六だが、まるで少女だ。
とたとたとにぎやかな足音がして、小さな人影が扉の隙間からのぞいた。
「お母さま、エルゼ母さま?」
「おいで、おちびちゃんたち」
エルゼは座ったままで手招きした。
えんじ色のワンピースの女の子と焦げ茶色の上着の男の子が転がる毬のように室内に駆け込んで来た。
「おでかけ? エルゼ母さま。きょうのおべんきょうは?」
姉のラーレと弟のカミルはエルゼの手をとった。
「今日はお勉強はお休み。お母さまからお行儀を習いなさいな」
「えー……」
カミルはあからさまにがっかりした。エルゼはそんなカミルがかわいく思う。
「昼過ぎにもどったら、ご本をお読みしましょう。このあいだの続きを」
「ほんと!? うれしい」
カミルは小さな両手でエルゼの手を握ったまま、ぴょんぴょんとはねた。
「また、おいしい実をひろってきてくださる?」
「ラーレは食いしん坊さんだね。胡桃くらいなら拾ってこられるから、焼き菓子にしてもらおう」
幼い姉弟は二人ともユーリア譲りの金の髪に青い目をしている。まるで抱き人形のようだ。
エルゼは二人の肌の艶や顔色、爪の様子をさりげなく観察し、健やかであることを確認した。
「さあ、終わったわ」
「ありがとう、ユーリア」
立ち上がったエルゼは、布で押さえてもなお盛り上がった胸に、くびれた腰から長い足がすらりと伸び、凛々しい男装の麗人のようだ。
「エルゼ母さま、きれい」
カミルの見上げる瞳がきらきらと輝いた。
「あら、わたしは?」
ユーリアが腰に手をあて、カミルをちらりと見る。
「お母さまも、おきれいです!」
慌てるようにカミルはつけ加えたのが可笑しくてエルゼは微笑んだ。
「さ、わたしは出かけるから。おちびちゃんたちはお母さまの言うことをよくきくこと」
エルゼは二人をいっぺんに抱きしめると、胴乱と帽子を手に取った。
「おみおくりします」
カミルはエルゼの上衣を小さな手に抱えた。
「私はラーレに刺繍を教えたいから部屋に戻るわ」
ユーリアの後ろでラーレがうんざり顔で舌を出して見せた。
「ほどほどに。ラーレ、お土産を楽しみにしていて」
手をふり、エルゼとカミルは並んで絨毯が敷かれた廊下を進む。薄暗い廊下には大小さまざまな何枚もの歴代の住人の肖像画がかけられている。
カミルがエルザの手を握った。
「こ、こわくなどないのですよ? ちょっと……ちょっとさむくて」
強がりを言うカミルをエルザは優しく見おろした。
「ご先祖さまは、カミルを見守ってらっしゃるのだよ」
そう言うと、ますますカミルの顔が強ばる。逆効果だったらしい。エルゼは苦笑いした。
エルゼも肖像画の何十もの瞳にさらされるとき、かすかに背筋がざわめく。バルシュミーデの一族に問われているような気分になるのだ。
ーーおまえはこの家にふさわしいのか、と。
左に折れて階段を降りた。外からは金槌の音がしている。間もなく訪れる冬を前に一階部分の窓に雪よけの板を打ち付けているのだ。そうしないと降り積もった雪で窓の硝子が割れてしまう。
雪が降るのが楽しみだったことは一度もない。エルザはやがて来る冬を思うと気分が沈みそうになった。
「はやくゆきがふるといいのに」
けれど無邪気に話すカミルを見ていると、自然に嬉しくなるのも事実だ。幼い頃から養育されてきたバルシュミーデ家に嫁してから二年。カミルと過ごすうちに、少しだけ冬も楽しめるようになった。
玄関前の広間でカミルから受け取った上衣を着ていると、執務室から執事を従えた黒髪の男性が出てきた。
「ヘルフリートお兄さま」
カミルは頭を下げてあいさつすると、すばやくエルゼのかげに隠れた。
それを見たヘルフリートが眉をしかめた。はしばみ色に染められた足首までの厚手のローブ。髪も黒ければ瞳も黒い。ヘルフリートはかつてエルゼが学んだアルマサナスの、厳格な教授のようだ。
「エルゼさまは、本日もお出かけですか」
エルゼの服装を見る顔つきもまた、しかめたまたままだ。
「雪が降る前に調べておきたいことがございますので」
「なにか画期的な薬草を見つけられるとでも?」
「それは、わかりませぬが……」
「温室で花だけ育てていたらどうです? バルシュミーデの妻としてならそのていどで十分」
エルゼは唇を噛みしめた。第一室の長男、次期領主のヘルフリートに逆らったら代替わり後に温室が潰されてしまうかも知れない。
「お言葉ですが、わたしは夫のイグナーツさまより温室の維持管理を一任されておりますゆえ」
ヘルフリートの後ろに控える執事が目をむく。ヘルフリートが舌打ちをしたのをエルゼは聞き逃さなかった。幼い頃の記憶に残る、夫の姿によく似た人の不機嫌な顔を見るのは、胸の奥で何かが軋む。
「それでは、いってまいります。カミル、お留守番お願いね」
エルゼはカミルの頬にキスをして、悠々と分厚い扉を開けて外へ出た。
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