エルゼ 冬の紅薔薇 5

1/1
前へ
/15ページ
次へ

エルゼ 冬の紅薔薇 5

 頭領会議が三日前に終わったバルシュミーデの館は静まり返っていた。聞こえるものといえば、枯れ葉が風に舞い窓にぶつかる乾いた音だけだ。 「エルゼ、イグナーツさまのご様子はどう?」  当主で三人の妻の夫であるイグナーツの寝室から出てきたエルゼに、廊下で待っていたユーリアが駆け寄ってきた。 「熱も引いて、先ほどは粥をいくらか召し上がられたわ」  ほら、とエルゼは盆にのせた(ボウル)の中を見せた。牛の乳で煮た麦の粥が半分ほどなくなっている。ユーリアはほっとしたようにうなずいて、エルゼの左手から水が残る手付きの(ジャグ)を引き取った。 「お酒を召し上がり過ぎたのでしょう」  寝室の床に伏してなお、酒を所望するイグナーツをなだめ、エルゼはなんとか粥を食べさせてきたのだ。 「イグナーツさまは、この家はお嫌いなのかしら。ご自分の子どもたちも」 「そんなことはないわ。今だって、子供たちに会いたいけれど、あまりに情けない姿は見せられないって」  情けないと、イグナーツ自身も分かってはいるだ。ぼさぼさに伸びた白髪、茶色に変わってしまった顔の皮膚、もうまっすぐには伸びない指……。アステーデと年が近いはずだが、イグナーツのほうが十も年上に見える。館に寄り付かず、町での放蕩の生活に体がどれほど害されてしまったか。  小さく肩をすくめるユーリアの頭にエルゼはそっと手を乗せた。  一の妻であるアステーデは、イグナーツの世話は遠慮すると言った。若い人たちですればいいと、ユーリアとエルゼにおしつけた。しかしユーリアは大人の病人など扱いが分からず、ましてや風貌が変わってしまったイグナーツが怖いだけのようだった。結果、アルマサナスで寮長まで勤め上げた面倒見の良いエルゼが一人で担うことになった。  もっとも、食事や清拭などは侍女たちも手を貸してくれるから、一人きりで介護をしているわけではないのが救いだ。 「このまま寝付いてしまって、当主をヘルフリートさまへお譲りになるのかしら」  歴代の当主たちの肖像画が並ぶ廊下を通り過ぎながら、ユーリアが小さくつぶやいた。 「それは……」  ないとは言い切れない。エルゼは言葉を切って唇をかんだ。  今回の失態は、家族ばかりではなく領内の頭領たちにも見られてしまったのだ。  それは年に一度、秋に催される頭領会議で起こった。頭領会議はバルシュミーデ領内にいる五人の頭領たちと当主とが話し合いを持つ大切な会議だ。  エルゼたちもアステーデの指揮のもと、銀食器を磨いたり、宿泊する頭領やおつきの者たちのために寝室のリネンをそろえたりと会議直前まで忙しく立ち働いた。  会議が始まってからは、お茶や軽食・菓子などの配膳は妻たちが担うこととなっていた。  今年は作物の実りもよく、流行り病もでなかった。領民たちは飢えずに春を迎えられそうだという知らせに、当主代理のヘルフリートはめずらしく温和な顔でうなずいた。  ただ、毎年冬場には体調を崩すし亡くなるものが現れる。どうにかよい薬などがあればという話と、来春の作付けなどの計画が話し合われていた。 「東の建物を倉庫として手を入れてはどうだろうか。家畜のための干し草をあらかじめ夏に刈って貯めておければ、冬場に家畜をつぶさなくて済む」  お茶をつぎ終え、部屋の窓際の席に座っていたエルゼは思わず腰を浮かせた。  先日の夜にエルゼが話したことではないか。 「むろん、金はないが皆のところから不要な材料を持ち寄れば、あまり費用はかかるまい。牧草のためにあたらしく開墾できればなおよい」  エルゼから聞き取った意見をさらにひろげヘルフリートは皆に説明した。頭領はそれぞれにうなずいて、了承の意を表した。 「か、蕪も」  思わずエルゼは立ち上がっていた。 「蕪も作物として優良です。葉は家畜が、実は人が食べることができますし、酢漬けにすれば保存が効きます」  ティーポットを手にしたままで発言するエルゼを手前に座る頭領が、顔をしかめて聞いていた。 「よい意見だ。蕪も植え付けるように民人たちに伝えよ」 「ヘルフリート殿、おそれ多くも御三室のお話は……」  去年、エルゼに場をわきまえよと口をはさんだとび色の巻き毛をした頭領だ。五人の頭領のなかで一番の年長者だ。同調するように数人の頭領たちの顔が微妙な含み笑いをしている。 「ああ、言い忘れていたが先ほどの倉庫はエルゼ殿からの意見をもとにしたものだった」  ヘルフリートの言葉に、室内の緩んだ空気が一気に引き締まった。 「わが領土は夏が短く冬が長い。それに冬場はどうしてもあの病が出てしまう。このままでは、家畜も人も増えず、いつまでも貧しいままだ。エルゼ殿、先日アルマサナスより届いた作物も試験的に植えてほしい。使えそうなものは、すべて使おう。民人が飢えずに冬を越すために」  ヘルフリートのりんとした声は、からかい半分でエルゼの顔を見ていた頭領たちの背筋を、すっと伸ばすほどの力強いものだった。  エルゼも自分の意見をないがしろにせず、真摯に聞き取っていたヘルフリートに感じ入っていた。  と、そこへ。不意に部屋の扉が開いた。 「貴様らはバルシュミーデ公を差し置いて、頭領会議を開いているのか」  みなの視線を集めて部屋に入ってきたのは、バルシュミーデ公イグナーツだった。言葉尻は、少し呂律が怪しかったのは酒をきこし召しているかららしかった。ヘルフリートは鼻をしかめて、椅子から立ち上がった。 「父上、ようこそお越しくださいました」  胸に手を当て、そつなく頭を下げるヘルフリートに皆もあわてて倣った。が、アステーデが明らかに遅く頭を下げたのにエルゼは気づいた。 「ここの領主は誰だ? 答えよ、ヘルフリート」 「はい、父上でございます」 「そうだ、わたしだ。なのに、わたしが不在のままでなんの会議だ」  だ、の後にバルシュミーデ公イグナーツはよろめいてヘルフリートに支えられた。伸び放題の髪と髭、しわくちゃの上着と泥汚れのついた靴は、頭領全員が見ることとなった。  あまりの無様にあきれたのか、アステーデは丸い顔を真っ赤にして唇をわななかせている。ユーリアはしばらくぶりで見る夫の姿に白い頬からさらに血の気が引いていた。 「イグナーツ様、こちらへ」  エルゼは、とっさに自分が座っていた椅子を持ってヘルフリートが支えるイグナーツのところへと駆け寄った。  ヘルフリートの隣の席を作ろうと椅子を置いたが、ヘルフリートは首を横に振った。見ると、イグナーツの体からは力が抜け小さくいびきをかいていた。 「本日は」  窓際から声が響いた。アステーデが歌手のように胸の前で手を組んで立っていた。 「本日はこれまでといたしましょう。明日、会議の続きを。皆様はいったんお部屋でお休みくださいませ」  初めこそ、うわずりかげんだったアステーデの声は、話すほどに落ち着きを取り戻した。頭領たちを部屋へと戻し、侍女や侍従らには的確に指示を与えた。 「夕食の準備を。その前に何か軽くつまめるものをお部屋へお持ちして。とっときの葡萄酒をお出しするのを忘れずに」  それから、一呼吸おいてからアステーデは言い放った。 「そのろくでなしを寝室へとお連れしてくださいな」  その場にいた者たちの背中には、きっと冷たい汗が流れたことだろう。  アステーデは体をゆらしながら、会議室を後にしていった。  飛んだ失態を白日もとにさらした。部屋を退出するとき、頭領たちは頭を寄せて小声で話していた。おそらくはイグナーツのことだろうと想像に難くない。 「イグナーツさまは、お元気になるかしら。もしかして、あの病なんじゃないわよね」 「ユーリアは心配性だね。大丈夫、ゆっくりと眠って滋養のあるものを食べたなら、きっとお元気になられる。あの病ではないよ」 「そう、ならいいんだけれど」  あの病とは、冬場に領内で発生する治療法のない病気のことだ。始め、手足がしびれてきていずれ歩くのも困難になり、やがて心の臓が止まる。 「お元気になられたなら、ラーレとカミルにも会っていただきましょう。きっと驚かれる。二人とも大きくなっているから」  そうね、とユーリアはうつむき加減にして答えた。二人が大きくなる間、イグナーツが訪れたのは片手で数えるほどなのだ。  エルゼはユーリアの手を取ってつないだ。エルゼはユーリアの冷たい指先を少しでも温めてあげたかった。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加