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写本制作室 ―スクリプトリウムー 4
結局、十日ほどの滞在で彼らは帰って行った。
あとから年かさのものたちから漏れ聞いたことには、客人は修道院長の縁者であり、各地で写本を見て歩いているということだった。あの天使はあるだけの写本をすべて暗唱できる状態になってから帰ったそうだ。
それから二十五年ほどがたった頃、修道院長は高齢になり死の床についたのが誰の目にも明らかになった。修道院全体が、どこかざわつき落ち着かない日々が続いていた。
そして秋の日に、訪問者があった。
私はその客人方と回廊で出会い、挨拶をした……。
あの灰色の目をした人だった。しかし、少しも歳をとっておらず、逆に私のほうが年上になったように感じた。
やはり天使を連れていた。天使は以前とは別人で、黒檀のように黒い髪に黒い瞳……やはり非常に美しくあるのだが……。
私は挨拶するのも忘れ、手にした巻子を落とすところだった。
彼はやはり温和な表情で私に会釈した。
私が子どもの頃にあった彼だろうか? まさか、歳が合わない。しかし、あまりに変わらぬ風貌だった。納得できないものを感じながら、自分の傾斜机で下絵を描いていると、呼ばれて院内の応接室に行った。
そこには彼がいた。
「この写本のできがあまりに素晴らしくて……書き手に会わせてほしいとお願いしたのです」
彼は微笑み、私が写した本の天使の絵を指さした。
ありがとうございます、と礼をのべながら、私は尋ねずにはいられなかった。
「失礼を承知でつかぬことをお聞きしますが、あなた様は二十年以上まえにこちらの修道院をお訪ねになりませんでしたか? ディーターという天使を連れて」
彼はかすかに目を見張り、そしてゆっくりと話した。
「ああ、それは私の叔父でしょう。私は叔父とよく似ていると言われます。確かにディーターという従者を連れていました」
叔父……。それならば得心がいくか。
「修道院長のお見舞いに来てみたのですが……」
客人は悲しげな目をした。修道院長が長くない、という予感は修道院全体を覆っている。水面下では次期修道院長の後がまを狙うものが派閥争いが始まっている。
私は応接室を辞し図書館に戻った。私の傾斜机の隅にはディーターを描いた絵が貼ってある。子ども時代から何度も何度も書き直した。写本の天使はディーターを象るように描くのだ。
二日後に修道院長は静かに息を引き取った。
礼拝堂に安置された修道院長は穏やかに微笑んでいた。齢七十。ほとんどのものが五十前後で亡くなることを思えば十分に長寿だったと言える。
あの客人は修道院長の亡骸のそばにいた。
頭巾がはずされ、意外なほど残っていた髪の毛は巻き毛だった。
客人はいとおしげに修道院長の頭をなで、指先に髪の毛を巻きつけた。
それを見ていた私の頭のなかで記憶がはじけた。
あのときの人も……!
ーわたしの子どもも巻き毛でね……
いや、まさか。
客人が修道院長の父親なわけがない!
そんなわけがない。
私は自分の思考を止めた。…客人が修道院長の弔いを終え帰ると、私の机からディーターの肖像画が消えていた。
その後、私は書写生の主席となり多くの本を写した。生涯みることもないだろうと思っていた秘蔵の写本も目にできた。しかし古代文字で書かれた内容はわからずじまいだった。
あの客人たちは何を読みに来ていたのだろう?
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