序幕  旅の涯て

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序幕  旅の涯て

 庵の縁側に腰掛け、そよぐ柳の枝を眺め。  (オレ)ァ、ふ、と息を漏らす。  庭先に植えられている、五本の柳の木。それが先生の号の由来だ。 「ン、のどかで好いな」  先生が差し出してくれた濁り酒を喉に流し込むと、どんだけ盛大にしゃべり倒したのかを実感する。こんだけカラカラになってて、しかも、そいつに気づかなかったなんてな。  それに、すぐ酔いが回る。  揺れてんのが柳じゃなく、己のほうだ、って言われても、あっさり信じちまいそうな気さえした。 「面白い話だったよ、()の字」 「あんがとよ、先生にそう言ってもらえりゃ叶ったりだ」  にしてもねぇのかよ、ツマミはよ。わざと文句を垂れたら、柳で十分だろ、って返された。この偏屈(ヘンクツ)、きっとそんなんだからかかあにも逃げられんだ。 「にしても、龍、とはね」 「あァ、見ちまったからな。信じるっかねェ」 「疑わないよ。信じもしないけど」 「それ疑ってる、ってんじゃねェの?」 「いるってお前さんが言うんなら、それでいいだろうさ。いたからこそ、お前さんはこれまでやってこれたんだろ?」 「んー、なんか丸め込まれてねェか、己?」 「アタシが知ってんのはお前さん、だからね。龍じゃない」 「じゃ、それでいいや」  風の向こうに、鉄のにおいを感じる。  もうって言うべきか、気を利かせてもらえたって言うべきか。 「寄奴(きど)の野郎、随分急かしてきやがんな。或いは休元(きゅうげん)か」 「来たのかい?」 「あァ」 「道済(どうさい)もご苦労なこったね、あんなのに使いっ走りさせられて」 「アレは融通利かねェからな。しゃあねえんじゃねェの」 「宮仕え向きじゃないとは思うんだがねぇ」 「ハハ、違げぇねェ」  柳の向こう、開け放たれたままの門から、馬にまたがり、烏帽子(えぼし)を折り目正しくかぶった細面のおさむれぇ――道済が現れた。その後ろには朝服、帯剣の奴らが続く。 「おいおい」先生が手にしていた杯を置き、立ち上がった。 「無作法だね道済、せめて頭のもん位下ろせないのかい」 「失礼致しました、五柳(ごりゅう)先生。とは申せど、此度は公務ゆえご容赦を」  先生が苦笑交じりのため息を漏らす。己もそいつを真似しようと思ったが、さすがに奴のやぶ睨みをまともに浴びちまうと、そうも行かねェ。  それにしても寄奴のヤツ、天下に鳴らす大将軍、檀道済さまを随分シケたお仕事に充ててきたもんだ。もちろん先生との知己(ちき)ってのもあるんだろうが。  きつく引き締まった口元にゃ、いかにも余裕がねェ。ついでに言や、後ろにあんだけ従えといて、己のことを軽く見る気もさらさらねェらしい。こちとら疲れと怪我とで、もうろくすっぽ動けもしねえってのに。 「随分逃げおおせたな、白髪」 「あァ、お陰でクタクタだ」 「宋王より、首だけでいい、と言われている。ここで仕舞いだ」 「あいよ」  道済の取り巻きが動くと、数人がかりで己をふん捕まえてきた。縄が己の身体のそこかしこを締め付けてくる。だが、もう痛みなんざろくすっぽありゃしねェ。 「なァ道済、先生の庭を己の血で汚してくれんなよ」 「心得ている」  初めて薄ら笑いが浮かぶ。へへ、と己も笑ってみせた。  無理に引っ立てられるようなことはねェ。先生の方に振り向くことくらいは許された。熊みてぇにずんぐりした顔。隠匿の詩人とかぬかしやがるが、道済よりもよっぽど武人くせェツラしてやがる。しこたま飲んだくれてるせいで、少しその鼻が赤らんでた。目の辺りもちょっと緩んでる気はしたが、そいつァたぶん酔いのせいだろう。 「じゃァな、先生。楽しかったぜ」 「あたしもだよ。息災でな」 「無茶言いやがる」  柳の木を間を抜け、門をくぐり。  先生が耕してきた畑を抜け、やがて道は林に差し掛かる。  行脚は、そこで終わる。 「白髪、いやさ、丁旿(ていご)」 「おう」 「正直に言えばな、貴様のことを(うらや)んだこともある」 「だろう?」 「――この期に及んで、苛つく男だ」  檀道済が刀を抜いたのが、己の見た、最後の景色だった。
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