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「……アニキ……アラガネのアニキ!!」
よく響く少女の声で現実に呼び戻された。
何度も見る夢だが、未だに慣れることはない。呑み込まれる瞬間、肝が凍り付く感覚を味わった。
姿勢は廃車のシートに寝転がったまま、見下ろすとそこには大きなバッグを背負った小柄な少女がいた。少女の格好は、素肌の上に前開きのノースリーブベストを羽織り、胸には黒のチューブトップ。下はベルト部に鋲を打ち付けたようなバルーンショートパンツ、腕や脚にはバンテージを巻いて指ぬきグローブをはめている。ライトブラウンのショートヘアが活発そうな印象を与える。
「なんだ、カスガイか。配達終わりか?」
「はい!! 今日のパンを配り終えたところです」
元気に答える少女の名は鎹。
俺と違って街のパン屋に住み込みで働いている真面目な奴。
見た目通り活発で、率直で人当たりの良い性格。なのだが、俺の舎弟を勝手に名乗って付きまとっている変わり者だ。
「アニキはサボりですか?」
「馬鹿言うな、休憩中だよ。それに世間的にはまだ始業前だろ」
空は青い。つまり工場はまだ稼働していない。工場が煙を上げる時、この街の歯車は回り始める。
勿論、俺は工場の定めた始業時間なんて守る気は端からないので、こんなものはただの方便だ。
相棒から頼まれた仕事を差し置いて惰眠をむさぼっていたのでサボっていることには違いないのだから。
「じゃあ、ウチも休憩しちゃいます」
そういうと鎹は鞄を投げ捨て、スクラップの山をよじ登り始める。
「おいおい、気を付けろよ」
「大丈夫です、よっ」
ここはスクラップ置き場。廃棄機械が綺麗に積み上げられているわけではない。言うならば砂上の楼閣。ちょっとしたズレでこの砂山は崩れ落ちる。
だが、鎹は廃棄機械の出っ張りや錆びて動かない歯車に手を引っ掛けて猫のような身軽な動きで俺のいる頂上の廃車まで詰め寄った。
「やっと顔が見えました。おはようございます、アニキ」眩しいくらい明るい笑顔で挨拶する。
「おはよう、もう少し寝かせてくれても良かったけどな」シニカルな笑顔で返す。
「じゃあ、ウチも一緒に寝ます」
皮肉の通じない鎹は、俺の隣に同じように寝転がった。
「えへへ、アニキと添え寝だ」
鎹は俺の腕に抱きついた。鎹の体から焼きたてのパンの良い香りが漂ってくる。鬱陶しいが、振りほどくほどでもない。
「今日は冷えるな」
「そうですねー」
「お前はそんな格好で寒くないのかよ」
「走ってたら暖かくなりますよ。いつも走って配達してますから」
鎹は確かに体温が高い。くっつかれているからよく分かる。だから素手素足が丸出しの格好でも平気なのだろう。
俺なんて年がら年中、上下ロングのつなぎ服だ。仕事服なので仕方ない。
「空、綺麗ですね。青いです」
「お前も空は好きか」
「好き? 好きかどうかなんて考えたことないです。でも高いところは好きです」
「馬鹿だな、お前」
「えっ、なんでですか?」
「そういうところだよ」
鎹は数秒考え込む。
「うーん、でもアニキが好きなんだったらきっとウチも好きです」
「なんでだよ」
「さあ、なんででしょう」
鎹は子供っぽく笑う。俺より四つも下なので全然子供だが。
子供は嫌いではないが苦手だ。何を考えているの分からない。いや、何も考えていないのかもしれない。そう考えてしまうのも俺もまだ子供だからか。
「お前さ。怖くはないのか」
「えっ、アニキは怖いんですか、空?」
「いや、俺じゃなくて、スズがさ」
「スズのアネキが?」
「空を見るのが怖いっていうんだよ。見上げると、あの怪物がいるんじゃないかって、不安でしょうがないって」
寧ろ恐れていない奴の方が少ないだろう。
「そうですよね。ウチたち、“あれ”に家も家族も奪われたんですよね。ウチ、そのとき小さかったからよく覚えないんですけど、アニキたちは……」
鎹が言葉を言い淀むのも仕方ない。十年前、俺たちの家族は奪われた。
街は火の海となり、人は灰の像となった。
残ったのは焼け焦げた鉄屑の山と癒えることない絶望の傷痕。
「だから皆、恐怖する。強大な力の前には人は無力であると思い知らされたから。そして空を見ると思い出す、あいつらを」
絶対的な存在。
この世の化身ーー“竜”に。
「ウチには分からないです。だって恐怖って目に見えないものじゃないですか。空は目に見えるのに……目に映るところに竜はいないのに」
鎹……こいつは馬鹿なりに色々考えている。見えるから怖い、見えないから怖くない、ではなく見えないから怖い、目に見えるものをちゃんと見ている。
「それは俺も同じだな。恐怖とは目に見えないもの。目蓋の下に映るもの。だから俺たちは鍍金を被る」
「つまり……どういうことですか?」
鎹がそう尋ねると、けたたましくサイレンが鳴り響いた。街全体に響く轟音。音の出処は、この空中都市の中枢ーー工場。
摩天楼のように聳え立つ煙突から煙が登り始める。瞬く間に空を灰色に染め上げる。俺だけの青空が汚される。心まで靄に覆われそうだ。
「さてと、お仕事始めますか」
枕代わりにしていた作業帽を被り、陰鬱な気分になりつつあった頭を切り替え起き上がる。
「えっ、答えてくださいよ、アニキ。モヤモヤします」
鎹はまだ腕を離してはくれない。
「あー、つまりだな。竜のことなんか忘れて、今を楽しく生きようってことさ」
俺は灰色の空を指差して答える。
この空のように。全てを塗り替え忘れよう。
「そういうものですか」
まだ腑に落ちていない様子。
「そういうものだ、大人はな」
鎹の手前、さっきは知ったような口を利いたが、実を言うと俺にも昔の記憶はない。気がついたときにはここにいた。屑鉄の中で俺は見つかった。そして、錫と出会った。
だから俺は竜を覚えてはいない。竜の恐怖も本当は分からない。
竜を覚えていないが、竜を知っている。
夢の中で竜と邂逅する。
その理由を俺は知らない。
知ってしまうと何かが壊れてしまいそうで、それが怖くて心に鍍金を張っている。
「そういうことにしておきます、子供なので」
鎹はようやく腕を離してくれた。
大きく伸びをして、俺に向き直る。
「ところで、今日は何を修理してるんですか、ジャンク屋さん」
「さあな、何を改造してるのかは、スズに聞いてくれ。俺はただ解体するだけだ」
眠れる機械を墓場から呼び起こす。それが俺の仕事。
制服の背中に刻まれた屋号は、ジャンク屋『ブリキ棺』幼馴染みの錫と二人でやってる奇怪な仕事。俺が解体して、あいつが修理す。
解体屋、鑛の一日はこうして始まる。
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