2丁目の菅原さん

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2丁目の菅原さん

「ありがとうございます。ニコニコタクシー、嶋田です」  事務所で配車係の保奈美ちゃんが電話を取る。取るといっても昔ながらの受話器を上げる筈もなく、受話ボタンを押せばデスク上のPCの配車ソフトに接続される。客との通話も、彼女の桜貝のような片耳を覆うヘッドセットのスピーカーに繋がっている。 「ああ、菅原(すがわら)様。いつもご利用ありがとうございます」  タクシー会社に掛かってくる配車依頼の一定数は、常連客からだ。それは企業でもあるし、個人でもある。近年、高齢化社会のお陰で、足代わりに近距離利用する高齢者が増えた。やれ病院までとか、大型スーパーまでとか……挙げ句の果て、大量購入した荷物を玄関まで運んで欲しいなんてリクエストすらある。しかし貴重なお得意様なので、こちらの足腰が多少痛くても笑顔で受けなければならない。そう、乗務員――運転手だって、高齢化が進んでいるのだ。  曙町2丁目2-5に住む菅原様も、高齢の常連客だ。毎週火曜日の午後3時に、西町の整骨院へ。隔週日曜日の午前9時には、巴町のスーパーへ。今日は金曜日、いつもの配車依頼ではないようだ。 「は? えっ、落としもの……指輪ですか。少々お待ちください」  カタカタとキーボードを叩く。車内から見つかった「落としもの・忘れ物リスト」を照会しているのだろう。 「今朝の時点で預かっている中にはありませんねえ。え? 小野ですか?」  イレギュラーな会話に、所長が何事かと首を伸ばしている。 「小野は、今朝交代しまして、本日非番です。昨日菅原様が乗車された715号車は、只今別の者が乗っておりまして。はい、お客様が降り次第、車内を探させますね。はい、では後ほどご連絡致します」  ベテランオペレーターの保奈美ちゃんは、そつなくこなすと通話を終了した。 「所長、昨日の17時頃、菅原様が715号車で指輪を落とされたそうです」 「そりゃまた……」  先ほどの会話から薄々察しは付いていたが、所長はしかめ面になって首を振る。  乗務員の交代は1日2回。朝8時に乗車して、翌朝4時に降車する「早番」と、昼12時に乗車して、翌朝8時に降車する「遅番」がある。どちらも3時間の休憩があり、降車後に社内清掃をする。この時、座席の隙間まで徹底的に落としもののチェックをする。早番が降車したあとは、次の乗務員が乗車する8時までの間に洗車も行うことになっている。だから、昨日の夕方乗車したお客様の落としものは、今朝の清掃時に事務所に届けられていなければ、恐らく見つかる可能性は低い。昨日の内に菅原様の後で乗ったお客様が拾って、こっそり持ち去った可能性が高い。流しで拾ったお客様なら、どこの誰なんて分からないから、はっきり言って絶望的だ。 「金目のものは出てこないよなぁ」  スプリングのくたびれたソファにダラリと凭れたまま、荒城(あらき)さんが呟いた。乗車交代までの30分ほどの間、事務所の一画は乗務員の休憩室兼情報交換の場だ。どこそこの裏道が片側交互通行になっているとか、あそこは渋滞しやすいとか……カーナビでは把握出来ない生きた情報を共有する貴重な時間。 「だけど、菅原のお婆さんが木曜日に乗るなんて、珍しいですね」 「うん? なんだ、生崎(きさき)、詳しいな」  斜め向かいでお茶を啜っていた山本さんがギョロリと大きな目を上げる。 「あ、俺、先月まで火木土の遅番だったんですよ。野口さんが辞めちゃったんで、月水金に移ったんです」 「ふーん」  ――キーンコーンカーンコーン 「お、行くかー」  遅番の始業開始5分前を告げるチャイムが鳴る。ムクリと起きた荒城さんに続いて、俺達は裏の駐車場に向かった。
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