勤続17年

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勤続17年

「いえ、ですから、小野本人にも確認致しました。当日トランクを利用されたのは菅原様だけでしたので……いえ、それはないかと」  月曜日の午前中、出勤すると、保奈美ちゃんが明らかに対応苦慮の様相を呈していた。 「何……また菅原様?」  コーヒー片手にソファに腰を下ろす。向かいの磯辺さんが眉間にシワを寄せる。 「指輪、届いてないって何度も言ってるのに、納得されないんですって」  彼女は更に声を潜めると、身を乗り出してきた。仕方なしに顔を寄せるとフローラルの香水が匂った。車内の芳香剤にしろ、あまり個人的な香りを持ち込むのは好ましくないのだが。女性――おばちゃんの乗務員は良かれと思って匂いを振り撒くので、そんな車に当たると悲惨だ。個人タクシーじゃないんだから、勘弁して欲しい。 「あのおばあちゃん、最近ボケてきてるらしいのよ。ご近所さんが言ってたわ」 「え、じゃあ、もしかしたら」 「ええ。最初から指輪なんかしてなかったんじゃないかしら」 「えー、マジっすか」 「ともかく、私共としましては、もし見つかりましたらご連絡いたしますが、今のところは……え? それは難しいかと」  ますますうんざりした顔で、保奈美ちゃんは所長に視線を送った。彼は禿げ上がった額を掻くと、1つ息を吐いてから頷いた。 「菅原様、申し訳ございません。少々お待ちいただけますか」 「はい、お電話代わりました。私、所長の鈴村と申します」  上席に引継いだ保奈美ちゃんは、向かいの新人オペレーターに一言告げて、事務所を出ていった。気分転換の小休憩をもらったのだろう。  ――キーンコーンカーンコーン 「じゃ、私達も行きましょうかー」  うーんと伸びをして、磯辺さんが立ち上がる。さて、今日も1日頑張るか。 -*-*-*-  17時間の勤務を終え、車内清掃をして、事務所に鍵の返却に行くと、ソファに小野さんがいた。 「あれっ? おはようございます」  壁の時計を見ると、8時15分。小野さんは早番だから、もう乗車している時間だが。 「ああ、おはよう」  浅黒い肌がかさついており、朝から疲れの気配が漂う。 「どうかしたんですか」  何とはなしに訊ねると、彼はフウッと溜め息を吐いた。立ち話もなんなので、斜め向かいに腰掛けた。  彼は、俺がこの会社に転職して来た直後、地理研修の指導に付いてくれた恩人だ。接客の心得と共に、この地域のアレコレを1から教えてくれた――ついでに、上手いラーメン屋と安い定食屋なんかも。 「お巡りが来るんだ。事情聴取っていうのかな」 「えっ。あ、もしかして菅原様の件ですか?」 「ああ。被害届を出したそうで、参ったよ」  渋面でテーブル上の湯飲みに口を付ける。彼は渋ーい緑茶を好むが、現実の方がよほど渋い。 「ここだけの話、菅原のお婆さん、指輪なんか付けてたんですか?」 「うーん……記憶にないんだよなぁ。こうゴロッとダイヤの付いた、太めの金のリングだって言うんだけど」  彼は左手薬指の付け根辺りで、親指と人差し指の間を1cmくらいに広げ、横にスライドさせた。年配の女性が嵌めるには、なかなかゴツいデザインだ。 「だけど、木曜日でしたっけ? 珍しいですね」 「家じゃないんだ。西町の地下鉄駅に呼ばれてな、なんでも同窓会の帰りなんだって――小花模様のブラウスなんか着て、めかし込んでいたよ」  両手で30cmくらいの長方形を、宙に描いてみせる。 「小さな赤いボストンバッグをトランクに積んでな、いつも通り降車時に玄関まで運んでやったさ。でもなぁ、トランクの中にも落ちてなかったんだよ」 「迷惑な話ですねぇ」 「俺、疑われちまってなぁ。まぁ、あちらさんも災難なんだろうけど……」  彼は、悲し気に溜め息を吐いた。実直で優しい人柄なんだ。無事故無違反で、勤続17年。彼に限って、ネコババなんかする筈ないのに。
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