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月曜の朝、午前4時
菅原様の指輪は見つからず、ひと月が経とうとしていた。あれ以来、菅原様から配車の連絡はパタリと無くなった。恐らく他社を利用しているのだろう。社内でも、落としものの件は忘れられかけていた。
「冗談でしょ……」
金曜から土曜日の勤務を終えて、翌日曜日の休日が明けた月曜日の11時。遅番の朝礼の場で、所長が沈黙の後で続けた報告に、俺達は固まった。誰かが漏らした動揺が小波のように広がり、しかし所長の鎮痛な――保奈美ちゃんの赤い目が、真実だと語っている。
「スリップ事故なんて――小野さんらしくないですよ!」
思わず口にして、震える手を握り締めた。荒城さんが俺の肩をポンポンと撫でて、宥めてくれている。
「俺だって、現場を見なきゃ信じられなかったさ。あのベテランが……あんな、見通しのいい交差点で、ハンドル操作を誤るなんて」
昨日、日曜日の早番で出勤した小野さんは、今朝――ほんの7時間前に息を引き取った。朝4時過ぎ、交差点でスリップして電柱に激突。即死だったそうだ。客を乗せておらず、他の車も歩行者も巻き込まない単独事故だったのが幸いだった。
「辛いだろうが……皆もいつも以上に気を付けて、乗務に励んでくれ。ちゃんと休憩を取ってくれな」
所長の声も滲む。静寂を打ち破って、配車の電話がかかる。保奈美ちゃんは咳払いをして、受信ボタンを押した。
-*-*-*-
「生崎、ちょっと……」
乗車の前に所長に呼ばれ、デスクの前に行く。
「お前、小野さんと親しかっただろ。彼のロッカーの整理を頼みたいんだ」
そう言って、机の上にスペアキーを置いた。
「明日、娘さんが引き取りに来るから、乗務の前に片付けてくれるか」
「分かりました」
小野さんは独り暮らしだ。10年以上前に奥さんに先立たれ、他県に嫁いだ1人娘とは疎遠だと聞いている。年賀状だけの付き合いだとぼやいていたっけ。
ズラリと並んだロッカー。小野さんの名札に合掌をして、スペアキーを差す。仕事と割り切っても、他人の住まいに土足で踏み込むような気がして、一瞬の躊躇の後、扉を開けた。
出勤時に着てきたであろう紺のジャンパー、モスグリーンのポロシャツとベージュのズボン。下足置きには灰色のスニーカー。どれも、20時間後の退勤を待っていた筈なのに。
服をハンガーから外し、スニーカーは紙袋に入れてから、用意してきた段ボールに収める。予備の制服一式は、会社から支給されたものだから別の紙袋に入れる。最後に、上部の棚に乗った小さな黒いバッグを手にする。これも段ボールに――。
「おっと」
持ち手が引っかかって床に落とした。まずいまずい。パタパタ叩いて、箱に入れようとした時、足元にオレンジ色の紙がヒラリと降った。カバンの外ポケットから飛び出したのだろう。
「えっ」
見るつもりなんかなかったんだ。どんなに親しくても、他人の領域を覗いてロクなことはない。分かっていたけれど。
「嘘だろ、小野さん……」
オレンジ色の紙は、質札だった。
『指輪(ゴールド、ダイヤ有)25000円也』
まさか――指が震えた。
日付に視線を走らせて、グッと喉が鳴る。
先月の18日。壁のカレンダーに目を向ける。金曜日。小野さんは非番だ。
あの件は、いつだった? 菅原様の指輪騒動は――。
「生崎ー、終わったか?」
所長の声が聞こえた。咄嗟に、俺は手の中の紙をズボンのポケットに押し込んだ。
「あっ、はい。もう終わります」
「なんだ、汗なんか……いや、そうだよな。辛いよな。すまん」
冷や汗が額を埋めていた。
所長は俺の肩をポンポンと叩くと、少し休んでから乗務するようにと言って、ロッカーから小野さんの名札を外した。
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