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父娘の90km
「生前借りていた金を、どうしても仏前に返したい」――そんな必死の言い訳を並べ、俺は所長に頭を下げて、小野さんの娘さん宅へ伺いたい旨を伝えてもらった。一昨日、俺のスマホに連絡が入り、休日を待って電車に乗った。
直線距離で約90km。普通電車で1時間半。隣県の端の中核都市は、近くはないが、行き来出来ない場所ではない。それでも年に一度すら会わなかったのは、心の距離が近くなかった証だろうか。
最寄り駅からバスに揺られて15分。8階建てマンションの3階の一室に迎入れられた。
菓子折を渡し、仏前で手を合わせると、俺は正直に事の経緯を明かした。小野さんに疑いを抱いたこと、娘さんに噓の理由を伝えたことを謝罪する。そして、預かっていた指輪をビニール袋ごとテーブルに置いた。
「え? 指輪、ですか?」
通夜の席で短く挨拶を交わした時と変わらない、大人しい印象の娘さんは、眼鏡の奥の瞳を強張らせた。
「知りません……見覚えありませんし、母の物ではないと思います」
袋のまま手に取ると、彼女は首を傾げた。
「しかし、小野さんが持っていた質札の指輪なんです。彼の持ち物に間違いありません」
「そう……ですか」
コトリとテーブルの上に戻し、怪訝な表情が消えぬままジッと眺めている。
「私の知る父は仕事人間で、母を気遣うような人ではなかったんです。でも……一度は、こんな指輪を贈っていたのかしら」
失った伴侶の形見だから、手元に置いておくのが辛かったのかもしれない。それでも売るのではなく質に入れたということは、彼に手放すつもりはなかったのだろう。
「俺の知る小野さんは、真面目でとても優しい方でした」
「そうですか……」
少しだけ表情を緩めて、彼女は指輪を収めてくれた。家族でも――家族だからこそ知らない顔もある。この指輪が、小野さんと娘さんの距離を僅かでも近づけてくれたなら、俺の愚かな過ちも救われることだろう。
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