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次の日から輿入れの準備に追われる百合子は、白いマネキンのように無表情だった。
白無垢の姿は白百合のようだと、誰もが絶賛した。
本当に見せたかった男は、最後まで名前を呼んでくれることはなかった。
百合子の結婚相手は、昭和の男らしい亭主関白だった。
風呂は必ず一番に入らなければ気がすまないし、仕事から帰った時夕飯が出来ていなかったら癇癪を起こす。
気に食わない事があると、ちゃぶ台をひっくり返される。頬をぶたれるのもしょっちゅうだ。
散らかった食べ物を片付けるのは、百合子の仕事だった。
蛾が舞う薄暗い照明の下で、一人で割れた茶碗を拾うのだ。
百合子と夫の間には女の子が生まれた。
だがそれきり、子宝に恵まれない。
『岩のような女め。跡継ぎが産まれないのはお前のせいだ』と姑に罵られた。
「お母さん、だいじょうぶ?」
味方してくれるのは、幼い娘の皐月だけ。
(私は幸せ。
男の子は授かれなかったけど、私には娘がいる。
私には娘が全てだ)
結婚から14年目の雪の日。
夫の運転する車が事故にあった。
飲酒運転で壁に激突したそうだ。
追い打ちをかけるように、百合子に内緒で作った借金も発覚した。
葬儀が終わると、姑が百合子を呼んだ。皐月を膝に抱えると、容赦なく言い放った。
「あんた、もう実家にかえんなっせ」
「それって・・」
「出ていけって言っとるんや。
孫の皐月は私が面倒を見ます」
「なんでです??私は」
「あの子が酒に酔ったのは、あんたがちゃんと面倒を見らんかったからよ!
あんたが息子を殺したの!」
百合子は鈍器で殴られたような気がした。
衝撃を受ける母を見て、娘の皐月は祖母を見上げていった。
「私、おばあちゃんのこと嫌い」
「なっ!」
「お母さん、ちゃんとおせわしてたもん。悪く言わないで」
空気が一気に張り詰めた。
「皐月!あやまんなさい!」
百合子が叫んだときには遅かった。
「そぎゃん言う子は、うちの子じゃなか!
二人とも出ていけ!
二度とこの家の敷居はまたがせん!」
姑の雷が落ちた。
こうなったらもう、家を出るしかなかった。
ふわりふわりと雪が舞う。
百合子は娘を連れ、トタン屋根のバス停に座り込んだ。
生気のない瞳で何度もバスを見送った。
「お母さん、これからどうするの?」
尋ねられても答えようがない。百合子はこのままのたれ死のうかとさえ考えていた。
お腹を空かせた皐月が風呂敷を広げた。
家から持ち出せたものは少ない。
僅かな所持金と、アルバム。そして、
「十六夜さまの龍笛・・」
『甲斐性なしの神より人間の男と結ばれる方が、女の幸せというものだ』
百合子は娘を抱き上げ、バスに飛び乗った。
ずっと封印してきた思い出が弾けた。
無我夢中で十六夜の祠を目指し、雪が積もる山の中を分け入る。
忘れるものか、忘れるものか!
思い出さない日は一度だってなかった。
(あの人は、あの人はどうしてるだろう。
まだ、あの場所で、
もしかしたらまだ、私を・・・)
広場にたどり着いた。
目の前の光景に風呂敷がぽろりと落ちた。
「お母さん。この祠、潰れちゃってるよ?」
皐月が指差した方向。
そこにあったのは、今にも崩れ去りそうな十六夜の祠だった。
戸は外れ、草が屋根を突き抜け、蔦が絡まることでかろうじて原型を留めている。
十六夜の姿はどこにもなかった。
「お母さん?ここに誰かいるの??」
『昔と違って、俺を信仰するものは減ってきている』
「いや・・! いや・・! いや・・・・・っ!」
『ここへはもう来るな』
「あ・・ぅぅっ・・いやぁぁぁぁぁぁぁーーーっっ!!!」
百合子は雪に泣き崩れた。
悲しみと苦しみが雪崩のように襲いかかってきた。
(私が、最後の信者だった!?私と別れたあの日、信仰を失った彼は亡くなったのっ!?)
彼を拠り所にして生きていた。
夫にぶたれたときも。姑に責められたときだって。
『あんたが息子を殺したの!』
(私が二人を死に追いやった!!?)
「お母さん、泣かないで」
子供ながらに母親の異常を察した娘が涙を流す。
引き寄せ、抱きしめて、我を忘れ大声で泣いた。
(私は天にとことん嫌われている。
誰かを愛することでさえ、私には許されないのだ)
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