第一章 ディスコルディア

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第一章 ディスコルディア

Ⅰ少年と悪魔 イギリスの田舎町の外れにひっそりと佇む赤い煉瓦で造られたゴシック様式の屋敷は、町の住人が近づきたがらないのも納得する物々しい雰囲気を醸し出していた。だが敷地内へと足を踏み入れてみると手入れの行き届いた美しい庭園が広がり、色とりどりの花々が花壇に咲き誇っている。美の女神ヴィーナスの彫刻が彫られた噴水からは澄んだ水が溢れだし、野生のリスが木の実を齧っていた。広々とした庭の奥には森へと続く小道があり、薔薇のアーチと木製の白い扉によってそれ以上先への進入を禁止していた。アーチやその周辺は巨大な屋敷の影が広がって太陽が燦々と輝く日中も曇天の日と思わせた。 美しい赤い薔薇になど一切の興味を示さず、無造作に跳ねた漆黒の髪を携える少年は地面にしゃがみ込んで横たわっているレッサーパンダの亡骸を木の枝で突っついていた。森の中からやって来たのだろうが今まで野生のレッサーパンダなど見たことがなかった少年は不思議に感じた(彼はレッサーパンダが希少であり、自然には生息しないことを知らなかった。無知故に目の前の亡骸となったレッサーパンダがどこからか逃げ出してきたのか、それとも自然の神が奇跡を起こしたのかと考えることもなかった)。外傷が見当たらないところから、鳥や大きな動物に攻撃されたのではないと予想が出来た。大まか毒性のものでも食べて息絶えてしまったのだろう。少年は相変わらず目の前に横たわる身近な死に、純粋な恐怖と妖しげながら妙に引かれる好奇心的な感情を瞳に浮かべて亡骸を突っついた。 「どうして死んじゃったんだ?お前が動いてるのを僕は見たかったのに」 少年の母親は大の動物嫌いで家でペットを飼うことを決して許しはしなかった。森に繋がる屋敷の庭園にはよく野生の動物が訪れるが、以前リスにパンくずをやっているのを母親に見つかって酷く叱られた。鬼のような形相で少年の首根っこを引っ張り、地下の暗いワイン貯蔵庫へと三時間閉じ込めた。 心から反省した少年はもう二度と動物とは関わらないと誓ったが、また野生の動物への接触を図っていた。しかし永久の眠りについたレッサーパンダはその愛らしい鼻をピクピクと動かすことはもうしないし、短い手足でちょこちょこと歩き回りもしないのだから問題はないはずだった。 「墓を作ってやるよ、小さいお粗末な墓だけどさ。ママにバレたら次は夜の森に放り込まれるかもしれない。お前は死んでるけど動物に優しくするのが気にくわないんだ」 右手に持っていた木の枝をポイっと放り捨てると、少年はレッサーパンダの亡骸に触れたがすぐに手を引っ込めた。 彼も他の子どもと同じように学校に通っている(家から学校までは歩くと一時間以上もかかってしまうので毎日母親が車で送り迎えをしていた)のだが、学校では三匹の兎を飼っていた。白い毛のノース、灰色の毛のボール、茶色い毛のカート。少年は友人と共に兎小屋へとこっそり進入したことがあった。何も兎たちを逃がしたかったわけでもいじめたかったわけでもない。ただ遊んでみたかったのだが、兎小屋に入れるのは飼育係と担当の職員のみだと決められていた。だから少年と友人は小屋の鍵を盗み出して忍び込んだ。その時少年は白い毛のノースの頭に触れたが、ふわふわとした毛と手のひらに伝わる優しい温もりが忘れられなかった。なんて愛らしいんだろう、と少年は兎を慈しみ愛でる気持ちで何度も頭を撫でたのだ。 だが裏庭で死んでいたレッサーパンダの体は鳥肌が立つような冷たさと、ごわごわとした触り心地の悪い毛が気持ち悪いと少年に嫌悪感を抱かせた。 動物は死んでしまうとこんなに醜くなるのか。少年は生まれて初めて知った事実にショックを受けて立ち上がった。 「人間も死んだらこんな風になるのかな。嫌だな、僕はこんな風になりたくない」 僅かに抱いていた憐れみは消え去り、少年は亡骸に対して不快感しか覚えなくなってしまっていたが、すぐに名案を思い付いたといった表情に変わると「ちょっと待ってて!」と動くはずもない相手に告げて踵を返した。 キッチンに繋がっている裏口から屋敷の中に入るとダイニングを抜け、シャンデリアのかかる開けた廊下を走った。床に敷かれた赤い絨毯によってローファーの音はほとんど吸収されていたが、音の反響しやすい作りになっている建物にはタッタッと少年の足音がリズムを刻んでいた。階段を駆け上り、踊り場の壁にかかった絵画の赤い服を着た女性に「ごきげんよう!」と挨拶をして二階へとやって来た少年は、<書庫>のプレートが掛かった扉を押し開けた。 少年の身長の倍はある本棚がずらりと並び、本に陽の光が当たらないようカーテンの閉め切られた薄暗い書庫は父親の趣味によって作られた部屋だった。元はこんなに収集する予定はなく二階に書庫を作ったが(父親の自室や執務室が二階にあるため)、あまりにも膨大な数の書籍が集まったせいで母親がいつか床が抜けるのではないかとひやひやしていた。少年はそうなれば面白いのにと心の中で期待しているのは誰にもナイショの話だ。 書庫の左端奥に足を運んだ少年は踏み台を持ってくるとひっくり返らないように注意しながら踏み台に乗って本棚の一番上に手を伸ばした。背伸びをしてうんと精一杯に手を伸ばすと一冊の背表紙に指先が当たった。爪を引っかけて本を落下させると少年は見事キャッチをしてみせ、口元に笑みを浮かべた。こんなところを父親が目撃すれば大目玉を喰らうだろうが、少年は父親より母親を恐れていた。 漆黒のずっしりとした書籍の表紙には有神論的サタニズムのメインシンボルとされているルシファーのシジルが描かれていた。決して少年の父親はサタニズムというわけではなく勿論母親もそうではなく、オカルト的な意味合いで面白がってこういった本も多く集めていた。少年は悪魔も神も妖精でさえも何でもかんでも実在するのだと信じていた。そんなことを他人に話せばバカにされるのは目に見えていたので打ち明けることはなかったが、一つだけ一度でいいからこっそりと試してみたい儀式があったのだ。 持ち出したオカルト本をダイニングの食卓に置くと少年は裏庭に出て、レッサーパンダの亡骸を通り過ぎると反対側にある小さな倉庫へ向かった。ドアが僅かに開きかかっている倉庫はカビ臭く中は真っ暗だ。力を込めてスライド式の扉を開けると少年の背後から太陽の光が室内を薄っすらと照らし出した。すぐに目的のシャベルを見つけた彼は手に取るとまたレッサーパンダの方へ戻っていった。 「安心しろよ、ちょっと痛いかもしれないけど生き返らせてやるから」 冷たくなった小さな体をシャベルで持ち上げ、落っことしてしまわないように細心の注意を払うと家の中へと運んでいく。どうか自室で編み物をしている母親の喉が渇いてキッチンに来るようなことがありませんようにと心の中で祈りながら、ワイン貯蔵庫へ続く地下への階段をレッサーパンダと降りて行った。 途中石畳の階段を踏み外しそうになったが、何とか暖色の光をぼんやりと放つ豆電球の揺れる地下へ辿り着くと亡骸を地面に落とした。 「すぐに用意するから」 返事のするはずない動物に声をかけた少年は階段を上り、シャベルを倉庫に戻しておくと(母親にバレたら言及されるに違いなかったから)自室から蝋燭とライターと手鏡と置時計を運び出し、キッチンでフルーツナイフを手に取って食卓に置いていた本を脇に挟むと再度地下へ下りた。 荷物を地面に下ろすと、サタニズムの本を開きペラペラとページを捲って目的の章を探した。 小説を始め勉学書や哲学本、オカルト本にも別段興味はなかったが、母親が少年を学校以外で外に出すことを嫌がり彼はほとんどを屋敷で過ごしていた。長期休暇などは特に退屈で暇つぶしに父親の趣味に手を出したのがきっかけでこの本を見つけることとなったのだ。 「あった、このページだ」少年は本を捲る手を止めると薄暗いワイン貯蔵庫で好奇心に満ちた瞳を煌めかせた。そこに記されていたのは悪魔を呼び出す儀式の方法について。まず依り代になる生き物もしくは人形の顔が映るように鏡を置き、火を灯した蝋燭をその真後ろに設置する。次に時計を五時ちょうどにセットして鏡と向かい合わせの位置に置く。最後に依り代の目の前に自らの血を三滴垂らす。そして呪文を唱えれば悪魔を降霊させることが可能だと書かれていた。こんなに簡単な方法で本当に悪魔を呼び出せるのだろうかと少年は半信半疑だったが、生きているレッサーパンダを見たい気持ちと退屈しのぎにはちょうどいいというよこしまな気持ちで挑戦してみることにした。 書かれている通りに道具を置き、フルーツナイフで人差し指を軽く切ると地面に血を垂らした。じんじんとした痛みが広がり顔を顰めたが、禁忌的な行いへの興奮が痛みを和らげていた。 真っ黒な質のいい半ズボンに人差し指を押し付けて血を止めると腰を浮かせ、本を俯瞰すると呪文の書かれている部分に目を凝らした。決して噛んではならないと注意書きに記載されているのが少年を緊張させた。 「よし、やるぞ」 誰ともなく呟いた少年は大きく深呼吸して恐ろしい呪文を口にした。 地下にはボソボソとした囁き声がだけが反響し、その声も止むと時計の秒針が刻む音だけになった。静寂ではないはずなのに少年は無響室に放り込まれてしまった感覚に陥った。 それから一分、二分、三分…と時間が流れたが特に異変が起こる様子も起こった様子もなかった。きゅっと真一文字に締められていた少年の唇は震えながらゆっくりと開かれて小さな言葉にならない音を洩らした。暫くの間また少年は閉口していたが、やがて何も起こらないことを察すると「ちぇ、」と両手で抱えていた本を閉じた。 半信半疑だったとは言え何も起こらなければこれはこれでつまらないものだと、もう少年は目の前の死骸には一切の興味が失せたような眼差しを向けた。 母親に見つかるまえに片づけを済ませてしまわなければならない。シャベルを倉庫にしまいに行くんじゃなかったと先ほどの律儀な行動を後悔していると、ふと頭の中に言葉が浮かんだ。あまりにも突拍子もなく流れ込んできた一言に少年は目を白黒とさせたが、何となく声に出して言ってみることにした。 「彼はだれ?」 言葉が音となり、形になっていくような気がした。 「彼はだれ?」 もう一度囁く。 彼とはいったい誰のことを指しているのだろうか?何も分からないはずなのに、全てを分かっているような感じがした。 「彼はだれ?」 少年はレッサーパンダの死骸を見つめていた。 どうしてか今からその死骸に奇妙なことが起こる気がしてならないのだ。頭の中に浮かんでいた言葉はいつの間にか誰かの声になり、少年は声を復唱する形となっていた。 「彼はだれ?彼はだれ?彼はだれ?彼はだれ?彼はだれ?彼はだれ?彼はーーー」 「アルバート」 よくいるが少年の知り合いにはいなかった男性名を口にした途端、ハッと我に返ったように彼の双眸に消えかかっていた光が戻ってきた。自分はいったい何をしていたのかという自問自答に移るより早く、足元の亡骸から鼻がひん曲がるほどの悪臭が漂ってきた。鼻を摘まんだ少年は目を見開き亡骸を凝視した。言葉では形容しがたいオーラのような(色で例えるなら黒に近い紫)ものをレッサーパンダは纏っていた。すると少年の頭の中にまた声が響いた。 「名を言え」少年は血の気の引いた顔で後ずさり、"悪魔"を見下ろして悲鳴にも近い声で叫んだ。 「アルバート!」 声も悪臭もオーラも消え去り、残されたのは儀式がエセだったと発覚したときと同じ静寂のみだった。だが明らかにその場を取り巻く空気が変化していることを少年は感じ取っていた。彼の体は硬直して模型のように足は動かず、ただ黙って亡骸-悪魔の憑依した亡骸だと無意識下で確信していた-を見ていた。 レッサーパンダの瞼が静かに震えて、ほんの昼寝から目覚めるように開かれた。短い前足を使い体を起こし上げると猫のようにピンと背を伸ばして尻尾を左右に振るとくわぁとあくびをした。レッサーパンダの瞳は本来栗色だが、目覚めたその瞳の色はグラスに注がれて揺れる赤葡萄酒の色をしていた。不気味な紅い双眸が少年を捉えると彼の全身から汗が噴き出した。 「悪魔?お前、悪魔だろ?」 興味本位で悪魔を呼び出したのはいいものの、その後の対処法を少年は知らなかった。もしかしたら殺されるかもしれない。そんな恐怖心を抱きながらも怯えているのを察されることがないように強気な態度で訊ねた。数秒間レッサーパンダは少年を見上げていただけだったが、やがて緩慢に口を開き「アクマ!」と甲高い声を発した。 「アクマ!」 「そうだ、やっぱり。アルバートだろ?」 「アルバート!ナマエ!ナマエ!」 もっと底冷えするような物々しい声色で喋るものだとばかりに思っていた少年は、まるでアニメのマスコットキャラクターだと勘違いする声色に胸を撫で下ろした。たったそれだけのことだったが少年は目の前の悪魔が恐ろしい存在ではないと思い始めていた。 「オマエ、ナマエ!」 「僕の名前?僕はアーサー・スタントン」 「アーサー!」 「そう、アーサー」 名前を呼ばれると自然と笑みを零した。 ああ、何てことだ!ジーザス!悪魔の召喚に成功してしまったのだ。 アーサーは歓喜に叫びまわりたい衝動に襲われたがグッと押し殺した。今すぐにでもアルバートを連れて母親の自室に飛び込みたかったが今はまだその時ではない。父が仕事が帰って来てたあとの夕食時にお披露目しようと考えた。両親の反応を想像して、少年はいたずらを企むように口角を吊り上げた。 「アーサー!アーサー!」と何度も悪魔は少年の名前を呼びながらその場をくるくると回っていた。あまりにもうるさい声だったので母親に気づかれるのではないだろうかと心配していると、運悪くキッチンへ近づく足音を耳にした。 「アルバート、静かにして」 出来るだけ声のトーンを落とし叱りつけると、アーサーは急いで儀式のために用意した道具を回収し始めた。足音はキッチンに到着すると次いで冷蔵庫の開けられる音が聞こえてきた。音を立てない限りワイン貯蔵庫に下りてくることはないだろうと大人しく待っていることを決め、アーサーが腰を屈めたところで叱咤され緘黙していた悪魔が地面に染みを広げていた少年の血をぺろりと舐めた。「うぇ、汚い」と思わず小声で呟いたが、アルバートはきらりと瞳を煌めかせて更に血を舐め続けた。 「おい、やめろってば」 悪魔を血から遠ざけようと足で小さな体を押したが意地でも動こうとはせずに、綺麗になくなるまで舐め切ったアルバートは満足げな表情でにぃと牙をむき出しにした。 血液が悪魔の主食なのだろうか?とアーサーが思考を巡らせていると、母親がまだキッチンから立ち去ってないと言うのにアルバートが大声で喋り始めた。 「チ!ウマイ!チ!チ!」 「静かにしろ」 「チ!チ!」 とんでもない血液コールが始まってしまい、少年では悪魔を止められそうになかった。いよいよ地下室の叫びに気が付いた母親が「アーサー、いるの?」と声をかけてきた。大慌てで持っていた道具を傍にあった木箱に放り込み、アルバートの体を抱きかかえると口元を手で覆い貯蔵庫の一番奥に身を潜めた。しゃがんで息を殺しているとカツンカツンと母親のいつも履いているお気に入りのヒールの音が響き渡った。未だアルバートは血液コールをやめていないようで少年の手の中で口をもごもごと動かしていたが、やがて牙を突き立てて手の皮膚を破ると溢れ出た血に舌を這わせだした。予想だにしていなかった激痛にアーサーは悲鳴を上げそうになったのを唇を噛んで回避し、どうにか母親に見つからないことを必死に祈った。 「アーサー?いるの?」 貯蔵庫はかなり広いが血を舐めるぺちゃぺちゃという音が出入り口のところまで聞こえているんじゃないかと不安になった。母親は数歩進んでもう一度我が子の名前を呼んだが、どれだけ待っても返事が返ってこないことに居ないと判断したようで「勘違いかしら」と独り言ちるとくるりと背を向けて階段を上って行った。 早鐘のように鳴っていた心臓も母親の足音が貯蔵庫からキッチンへ、キッチンからダイニングへ移っていくと通常のスピードを取り戻していき、完全に彼女の存在がなくなると安堵に息を吐きだした。悪魔によって作られた傷はもう血が止まっているようでアルバートも満足したのかそれ以上傷を増やそうとはしなかった。 「ったく、最悪だよ。これからは僕の血じゃなくて他の動物の血にしてよ」 抉られた皮膚を擦り文句を垂れるとアルバートはどこか反省の色を示した佇まいでアーサーを見つめ、傷口をぺろぺろと舐め始めた。血が目的なのではなく傷口を癒そうとしているのだとすぐにアーサーには分かった。 悪魔のはずのアルバートがこんなことをするなんて信じられなかったが、目の前で繰り広げられている動物愛(一見すれば)は本物だった。 「いいよ、アルバート。別に怒ってないから」 手を頭上へと運びよしよしと頭を撫でてやると、毛は相変わらずごわごわしていたが亡骸の時とは違い生きている温もりがあった。ノースを撫でたときを思い出してアーサーは口元を綻ばせた。 「とりあえず夕飯までは僕の部屋にいよう。ママとパパには夜に紹介するからさ。それでいいだろ?」 「ママ!パパ!」 その返事を肯定と捉えたアーサーは腰を上げて尻に付いた埃を払うと「行くぞ」とこれから自分の相棒にするつもりでいる悪魔に声をかけて、木箱に隠した道具を回収するとワイン貯蔵庫を後にした。
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