第一章 ディスコルディア

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Ⅱ呪われた子 スタントン家の夕食は毎日二十時きっかりと決まっていた。父親が仕事から帰ってくるのが十九時二十分で、シャワーを浴びて一杯するのにおおよそ四十分かかるからだ。父親が残業で帰りが遅くなる日は母親とアーサーの二人だけの寂しい食卓となった。無口というわけでもなければお喋りというわけでもない少年は、話題があれば話すしなければ黙って食事をするのだが、母親を愛している半分恐れているため彼女と二人っきりの夕食では余計なことを言わないように注意するのにほとんど口は閉じっぱなしだった。 父親が帰宅するギリギリにシャワーを浴び終えたアーサーは(いつもはもっと早い時間に済ませているのだが、レッサーパンダをシャンプーするのに時間を取られた)自室でアルバートと会話を交わしていた。他愛もない会話ではあったが話し相手がいるだけで十分アーサーは退屈しのぎになったし、単語程度でしか喋れないにしてもアルバートの相槌は彼の気分を良くさせた。 「もうすぐ夕飯だ。お前も一緒にダイニングに行くんだよ」 クッションの上でくつろいでいるアルバートの様子をベッドに寝ころびながら窺っていた。書籍に記載されていないことも行ったが大まかには悪魔を呼び出す儀式によって召喚され、自らを悪魔(正式にはアクマ!)と名乗るその生物を少年は信じていたが、悪魔らしい姿は血を欲したことぐらいで、これではただの喋るレッサーパンダだと思った。喋るだけでも珍妙ではあるが両親が悪魔だと信じる証拠にはならないのではないだろうかと気がかりだった。嘘吐き呼ばわりされるのはごめんだ。 「アーサー、夕食よ!」 一階から母親の呼び声が聞こえてくる。儀式にも使った置時計を見てみると八時一分を指していた。時計のセットはいつも一分だけ早くするのがアーサーの拘りだった。要するに今は八時ピッタリということになる。 「行こう、アルバート」 「アーサー!メシ!」 お披露目会より先に悪魔の存在が知られてしまうのは白けるので大人しく着いてくるように注意を促すとベッドから下りて部屋を出た。クッションから跳ねるように飛んで足元を付いてきているレッサーパンダを目にした途端、母親が悲鳴を上げるのが安易に想像できた。だがすぐに動物に対する嫌悪感から目の前の神秘に対する驚きへと感情がシフトされることだろう。 木製の階段を軽やかな足取りで下る黒髪の少年と茶色い毛の悪魔はダイニングへ続くドアの前までやって来てピタリと動きを停止した。中からは母親と父親の話声が聞こえ、アーサーはにんまりと笑みを浮かべた。 今から悪戯を仕掛けるような、いや悪戯のネタ晴らしをする時の感覚の方が近いかもしれない。相手の反応を想像し、悦に入る彼は誰が見ても浮かれていた。 開きかけた扉のドアノブに手をかけ、ギィと木の軋む音を立てながら緩慢に押し開けるとひょっこりと顔だけを出して両親の姿を視界に映した。 「何してるの、アーサー?早く席に着きなさい」 ダイニングは屋敷の敷地を思えばさほど広い空間ではなく、それでも置かれた白いテーブルクロスのかかる長机は三人家族で使うには大きかった。妙な距離感を保ち食事をするのがおかしなことだと知ったのは学校の食堂で昼食を食べるようになってからの話だった。古臭いシャンデリアが天井で揺れて、息子の行動に訝しげな面持ちを浮かべる母の顔を照らしていた。 父親の頭さえ突き出ることがないぐらい無駄に背もたれの高い椅子は所謂アンティーク調といった作りなのだろうが、アーサーは初めて見たとき「こんなの婆さんでも使わない!」と言ったのを覚えている。 「ママとパパにサプライズがあるんだ」 緩む頬を精一杯に引き締めてアーサーはダイニングへ足を踏み入れると後方を振り返りアルバートの名前を呼んだ。ちょこちょこと短い前足を使って少年の隣にまるで下僕の如く並んだ動物に、母親の顔色はみるみると青ざめていった。無論父親も妻が大の動物嫌いであるのは知っていた為何てサプライズを用意してくれたんだ!と彼の眼差しは語っていた。あまりにも二人の的外れな反応にアーサーは無邪気にも笑ってしまいそうになったがグッと押し堪えて、母親が金切り声を上げるよりも先に口火を切った。 「ただのレッサーパンダじゃないんだよ。だろ?アルバート」 「アルバート!アクマ!アクマ!」 ビックリショーの優勝者はアーサー・スタントンとその相棒アルバートです!拍手喝采、スタンディングオベーションの会場で優雅にお辞儀をする様を頭の中で空想して、あり得ない話ではないとアーサーは思っていたが、アルバートをビックリショーなんかに出すつもりはなかった。『喋る動物』なら喜んで出演するが足元に佇むのは『レッサーパンダの姿をした悪魔』なのだからテレビ向きではあるだろうが、食卓を凍らせてしまうのは目に見えていた。 案の定両親も唖然としてアルバートを凝視し、困惑と驚嘆に体は顫動していた。 「いったいその動物は何なの?どうして話せるの?」 可哀想に。あまりにも衝撃が強過ぎたあまりに母はまるで五歳児のような質問を我が子に投げかけた。今にも顎が外れて口をあんぐりと開けてしまわんばかりに驚愕している。父親に至っては言葉を失ってしまったようで椅子に座って硬直状態になっていた。 「いま言ったよ、悪魔って。アルバートは悪魔なんだ!」 手に持っていた有神論的サタニズムの本を両親に見えるよう掲げてみせた。シャンデリアの明かりを反射してシジルがきらりと輝いた。 「この本の通りにやったんだ。書いてないことも少しはしたけど、とにかくこの本のおかげでアルバートを呼べたんだよ」 書庫から勝手に持ち出された自身の所有物を目にしても父親は怒る気配を見せずに、険しい顔つきで妻と顔を見合わせると「こっちに来なさい」と少年を手招きした。足を踏み出したアーサーの後を付いて来ようとしていたアルバートを睨みつけ、片手で制し「お前は来なくていい」と強い口調で言いつけた。 目の前に立った息子の肩に手を置くと、幼い子供に言い聞かせるようなゆっくりとした口調で父親は話し始めた。 「いいか、アーサー。その本はネットで注文して買ったオカルト本だ。こんな山の奥にまで届けてくれるんだからいい時代に生まれたもんだ」 同意見だとアーサーは小さく頷いたが何故か父親の癪に障ったようで眉を顰められた。 「ネットで誰でも買えるようなオカルト本で悪魔が召喚できるはずがない。もし出来たらいったい悪魔を呼び出した経験がある人間が世の中に何人いることになるんだ」 父が言っていることは最もだったが単純な確率の問題だろうとアーサーは推測した。悪魔の気分によるかもしれないし、季節や天気だとか本には書いていない条件があるのかもしれない。 「僕の運がよかったんだ」と思ったことをそのまま口にすると、父親は首を横に振って肩に置いた手の力を強めた。 「お前に悪魔を呼ぶ力があるからだよ」 「悪魔を呼ぶ力?」 あまりにも突拍子のない話に眼前に現れた非現実な出来事(生き物)のせいでとうとう頭がイカれてしまったかとアーサーは憂慮したが、あまりにも真剣な眼差しで見つめられて茶化す気にもなれなかった。黙って父息子のやり取りを見守っていたが母親が顔を真っ青にさせたまま口を開いた。 「私のお父さん、ようはあなたのおじいちゃんよ。は降霊術を使うことが出来たの」 「降霊術って幽霊とかを呼び出すやつ?」 「幽霊だけじゃないわ、悪魔や妖精だって呼べたのよ。何故か天使は無理だったんだけれど。お父さんだけじゃなくて私の兄もね」 「兄?ママにお兄ちゃんが居たなんて知らなかった」 オーバーリアクションだと言われかねない間抜けな顔で首を伸ばして、アーサーは人生十二年目にして知らされた叔父の情報に聞き返した。 「兄は隠れて暮らしてるから」 「どうして?」 「呪われてるからよ。あなたもそうなの。呪われた血筋の呪われた子だわ!」 先ほどまで落ちついて話していたのに突如母親はヒステリックにがなり立て「どうしてこんなことしたのよ!」と手でアルバートを指した。あまりの迫力にアーサーは言葉を失くして突っ立っていることしか出来なかった。向かい側に立っている彼女は今にもずかずかと長机を回って少年に詰め寄りそうな雰囲気で「落ちつけ、オリヴィア」と父親が宥めた。 「落ち着いてられないわ、だってこの子は呪われた子なのよ?周りから白い目で見られていじめられるわ」 「喋るレッサーパンダを見てどれだけの人間が悪魔なんて信じる?」 「無意識に悪魔を呼び出してそれを私たちにサプライズでお披露目したのよ。すぐにバレるわ。もしそうじゃなかったとしても頭のおかしい子と言われるに違ない。教師は児童カウンセラーを勧めてきて『自宅で何か問題はありませんか?親子間でのいざこざや…』なんて聞いてくるのよ!今日まで何の問題もなかったわ!だって私がどれだけこの子を大事に育ててー」 早口に捲し立てるオリヴィアに、事態の収拾が付かなくなってきているのを察した父親が席を立つと彼女の側へ向かい背中に手を回した。 「一度冷静になって話そう。アーサー、今日は一人で夕食を済ませてくれ」 「明日からあなたはディスコルディアに通うことになるわ」 聞き慣れない単語にアーサーは不安げな面持ちで「何それ?」と訊ねた。今はどんなことを言っても母親はヒステリックを起こすのだろうが少年の問いかけに身振り手振りを大きくして叫んだ。 「あなたみたいな子ばかりが集まってる学校よ!」 「転校するの?嫌だよ、友達が居るのに」 「わがままを言わないで!」 もはや怒号というよりは悲鳴に近い声でその場にいた全員の鼓膜を震わせ吐き気を催わせた。とんでもない超音波のような叫びで窓ガラスさえ割ってしまいそうだとアーサーは心の中で悪態を吐いた。 父親はとにかく母と子を別々にさせたいようで半ば無理やりオリヴィアの背中を押して歩かせた。 「夕飯を食べたら部屋に戻って支度するんだ。明日の朝出発するからな」 反論は許されない空気にアーサーは閉口してうんともすんとも返事をしなかった。一切納得はいっていないが、これ以上何か言えば火に油を注ぐのと同じだった。無言を肯定と捉えた父親は僅かな安堵を表情に浮かべていて、アーサーはそれが心底気にくわなかった。 ダイニングを出て行った母親(大人しく待機していたアルバートを睥睨した)の後を追いかけた父親は出入り口で悪魔を警戒しながら足を止めると顔だけでアーサーを振り向いた。 「こいつを帰す方法は知らないのか?」 「分からないよ」 「ならあまり近づくな。学校には連れて行くが、とりあえず外にでもほっぽりだしておけ」 またアーサーは返事をしなかった。レッサーパンダの見た目をした悪魔を相棒にしたいと考えていたから外に放り出すなんてことは出来なかった。 実際は目も当てられない醜い容姿かもしれないし、人間に近い可能性もある。幼い子に読み聞かせる絵本に登場する悪魔のような見た目もあり得る。ただアーサーはどんな姿形をしていようと構わなかった。彼は唯一無二の相棒や親友に憧れていたからだ。 立ち去った父親の背中を見送り盛大にため息を吐くと、定位置に腰を下ろして一人寂しく(アルバートがずっと黙り込んでいたせいで)夕食を済ませた。 食器をシンクに運んで洗うのは面倒なので放置しておくとアルバートを連れて自室に戻った。支度をしておくように言われていたがそんな気は湧いてこず、ベッドにうつ伏せに倒れ込むと枕に顔を埋めた。足音と気配でアルバートが耳元辺りに身を丸めたのを感じ取ったが反応を示さなかった。 「アーサー!」 名前を呼ばれるとアーサーは苛立ちを隠さずに頭を上げて、思ったよりも近くに居たアルバートのシャンプーをしてふわふわになった毛が視界を覆った。 「カナシイ」 「それより不安だよ。これからどうなるんだろ?僕はママとパパをビックリさせたかっただけなのに、こんなことになるなんて」 取り返しのつかないことをしてしまったと後悔しても、彼の知るところデロリアンはフィクションだった。起こしてしまったことを嘆いても現状が変わるわけではないのを十分に理解していたが、明日から生活が一変してしまう気がして恐ろしかった。退屈な毎日に小さな刺激を求めた結果がこれか、爆笑さ!と気休め程度に自分を嘲笑って心を落ち着かせた。 「お前はどう思う?」 唇の隙間からダニと一緒に毛が入ってきそうでアーサーは腕に力を込めるとやや左横に体をずらしてアルバートと距離を取った。少年の問いかけにレッサーパンダは耳をパタパタとさせて紅い目をぐるりと回した。返答に悩んでいるようで急かさずにアーサーはじっと待っていたが、暫くして「タノシイ」と答えた相手の額の中央を人差し指で弾いた。
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