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セラミックの床に響く無機質な足音。私は密かな高揚を胸にドアの前に立った。
――虹彩認証クリア。高等植物研究所主任補佐・宇緑茜。
静かにドアがスライドする。そこから先は、まるで空気が違っていた。
汚染されない清浄な緑の匂い。深く吸い込むのは畏れ多く、私は浅く息を弾ませながら進む。
広漠な部屋の中央には円筒型のカプセル。その周囲に廻る縁に、凭れかかる人影があった。
そちらへ視線を向けながら、私の瞳は焦点を結べない。
果たして、目に映してよいのだろうか。私の人生すべてを捧げてきた、崇高で尊い人を……。
刹那、何が起こったのか。その人の微笑みが瞳に像を結ばせたのか。それとも、意識を搦め捕られてしまったのか。
「……っ」
薄緑の髪を揺らし微笑む、その人は。
――プランツ・ラダー、すべての草木を統べる者。固体名を『スバル』という。
「おいで」
初めて聞くその声。澄んだ声音は魂まで染みこんで、私を操る。歩み寄る足取りは軽く、足音をたてなかった。
「……やっと、逢えたね」
拡げられた腕の中、私の体は吸い込まれるように収まった。
「茜。待ち望んでいたよ、君を抱きしめることを」
「スバル?」
覚えているの? 幼い頃、連れられてゆくあなたを目にしただけの私を。
「いつも茜を見ていた。すべての植物はぼくの端末、君の部屋のペペロミアもね。ぼくはいつだって、君を見つめていたんだ」
「……!」
プランツ・ラダーは全世界の植物と繋がっている。私はそれを論文にして昇進し、スバルに逢う権利を得た。
けれど、あまりに筒抜けだったと頬が熱くなる。彼の腕を意識してしまい、私は身動ぎをした。
「逃がさないよ。ずっと待っていたんだ」
「スバル」
「君に、焦がれていた」
頬に触れるのは赤い血の通わない、冷たい植物の肌。
「僕たちがヒトを模すようになって十年。僕は君だけを求めていた」
私が幼い頃、ヒト型をとり始めた植物たち。指導者と見なされたスバルは、植物の叛逆を恐れる政府に捕らえられた。以来、研究所の最奥、禁域のようなこの部屋に閉じ籠められている。
「スバルが逃げたいなら、私は……」
私はついに、研究所の職員として言ってはならない言葉を口にした。彼は静かに首を振る。
「地上は汚染されヒトも植物も生きられない。ヒトは地下に潜った。だけど光合成をするぼくたち植物は、ヒトの手を借りずに生きられない」
「ええ」
「だから植物は、ぼくらを生かしてくれるヒトを愛している。けれどもヒトは、植物を愛し返してはくれない。彼らにとってぼくたちはただの食糧だから。けして、伴侶として愛を注ぐ存在ではないんだ」
「私はっ」
ヒトならざる瞳に映る絶望。私はそれを雪ぎたい。
「私は誰よりあなたを愛してる。あなたに逢うためだけに研究所に入ったのだから!」
彼の瞳がふしぎに燦めく。無機物とは違う、やさしい光。
「ぼくも茜を愛してる。ヒトで唯一人、君だけを」
唇に触れられ、抗い難く惹き寄せられる。やがて落ちてくるのは、ひんやりとした口づけ。
彼の端末になったみたいに、スバルの息吹が身体に満ちてゆく。
そして、カプセルへと導かれた。ここは、清潔で寝心地のいい、植物のためのベッド。
「君を愛させて。君のすべてをぼくにしたい」
頷くと、白く冷えたスバルの体から伸びる蔦に抱き留められた。
「は……」
繊毛に素肌を撫でられ、私は吐息を漏らす。
身動ぎし、声を漏らす度。体温が上がり、カプセル内に湿度が満ちてゆく……。
私はスバルの唯一植物らしくない箇所を、自らの身体に受け容れた。雄蕊の変容であるそれは、ヒトに合わせてなのか血が通うごとく赤く、肉々しくケモノじみていた。
私はスバルと溶け合い、ひとつになった――。
…∽‥∽∽‥∽…
「主任。良かったんですか」
「何がだ」
高等植物研究所のモニタールーム。壁面には『スバル』の脳波――ヒトでいうなら――が映し出されている。プランツ・ラダーたるスバルにはナノマシンが埋め込まれ、常に生命活動が監視されているのだ。
波形が『スバル』だけのものなのかは、調査の必要があるが……。
「宇緑のことです」
宇緑茜。スバルを誰よりも愛したその女は、この場にはいない。
「仕方ない。奴が本気になれば、人類を滅ぼすことなど容易なのだから」
宇緑には伏せられていたが、近年、汚染された地上に芽吹く植物が発見された。どんな有害物質や病原菌を有しているか判らないそれは、『スバル』の指示で地下への侵入を開始するだろう。
否、地上の植物もまた『スバル』自身だ。意識を共有する彼らは、どの個体も『スバル』の端末にすぎない。
「でも」
「政府の決定だ」
「そう……ですね」
モニターの波形が昂ぶり始めた。『スバル』と――『スバル』に取り込まれた宇緑茜の、愛の交歓だろうか。
「我々は、せめて……」
波形が踊る。高らかに愛を謳い、哭いている。
「せめて、彼女とスバルの愛を祝福しよう」
――彼女がすべてを引き換えに手に入れた愛が、何より至上でありますように。
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