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ますみちゃんは頬を赤らめて、その顔にこれ以上ないほど美しく妖艶な笑みを浮かべた。
「真純はぁ、ずっとぉ、恋しかったんだよぉ?」
ますみちゃんの様子がおかしい。そうと気付くや否や俺はすぐにますみちゃんから離れようとする。
だが、背中に手を回されてしまった。
「変わってないねぇ、真純が小さかったときと一緒!ママより真っ白い肌で、ママより身長小さいの!」
どういうことだろう。「真純が小さかったとき」?一回どこかで、会ったことがあったか?会ったとしたら忘れるわけがない。こんな大和撫子を!
「真純の名前聞いても、思い出せなかったのが少し淋しいなぁ。真純はずっと、小さいときから、唯一のぱぱの味方だったのに!」
「ぱ…ぱぱ?!」
ぱぱ…パパ…父親?そんな!そんなわけがない!いや…あるかもしれない。
そういえば、ウイルスが流行って自粛期間に入った頃からずっと連絡をとっていない娘たちがいた。
娘たちは確か、2人だ。大学生の姉と、中学生の妹。確か名前は…名前は…何だったかな。特に気にしてもいなかったし、今の今まで忘れていたから思い出すことができない。
ただ、確かにますみという響きに、聞き覚えはあった。
「他の誰がぱぱのこと大嫌いで、他の誰がぱぱをクズだって言っても、真純はずっとぱぱが大好きだよ!」
まるで子供に戻ったような喋り方で、ますみは続ける。
「ぱぱが真純を忘れてたって、ぱぱが昔真純を存在として認識してなかったからって、真純ぱぱのこと嫌いにならない!だってぱぱだもん!だから…」
今まで俺は、一人目の妻を孕ませて、それでいて育児を手伝ったことがあっただろうか?
「ぱぱぁ、育児ってね、父親が手伝うものじゃないんだよ。ママとパパの二人の子だから、どっちかがどっちかを手伝うなんて価値観おかしいんだよ!二人で育てていくの!責任を持つの!」
育児をしろと娘たちを預けられ、何回坂に落っことしただろうか?何回娘たちが泣く姿を見ただろうか?
「おくすり苦かったの。頑張って一年間飲んだの。でもね、ぱぱがつけた傷、結局治らなかったんだよ!だからこのおでこの傷はぱぱと真純の愛の証!」
ますみちゃんが前髪を上げて、傷を見せてくる。痛々しくまだ、残っていた。
でもその傷に、覚えはない。俺は、覚えが無くなるほど何回も坂に落っことしたんだ。
「ぱぱが歪んだ価値観を持ってるなら、真純が直してあげる!だってぱぱが大好きだもん!」
俺は果たして、一度だって娘たちを「自分の」子供だと認識して愛してあげたことがあるだろうか。
「真純ぱぱが大好きだから、ずっとずぅっと好きだから、ぱぱが真純のこと初めて可愛いって言ってくれて、好きって、一緒にいるの幸せって思ってくれて、とっても嬉しかったんだよ!」
それはまるで子供の笑顔。ちゃんと両親から愛を受け取って、ママ、パパ、大好き!と笑うときの顔だ。
「やっと、やっと、18年間で初めてぱぱが、真純を存在として認識してくれた。真純と幸せそうに一緒にいてくれた。真純が小さかったときは、いつもつまらなそうにしてたのに」
――楽しい?
夢の国で、そう聞かれたことがあった。
――楽しいよ
俺は笑顔でそう答えた。でも、その質問をした人物が誰だったか覚えていない。自分より背が小さかったことだけは覚えている。
夢の国で、楽しかったのかそうでなかったのかも、覚えていない。ただ、面倒な仕事だなと思ったことだけは覚えている。
目の前の子供は、親からの愛に飢えていた。ずっとずっと、ずぅっと、俺からの愛情が欲しかったんだ。
「真純これからは、ぱぱのこと離さないよ!ずぅっと一緒だよ!永遠の愛を誓おうよ!」
怖かった。ただただ怖くて、涙が流れた。親からの愛情なら、母親からもらっているはずなのに。あいつは、過保護だから。
「真純は、ぱぱからの愛情が欲しいの!」
父親の愛情を一切受け取れなかった娘の末路とは、これを言うのだろうか。俺が彼女に、目の前の子供に、一回でも本当の笑顔を向けていれば、今の状況は起こりえなかっただろうか。だがもう遅い。
子供っぽい笑みを浮かべた目の前の娘が怖い。怖い。
身体は震え、歯はガチガチと音を立てる。
―――「あのとき落としたのは、俺の不幸な人生だったのかな」
そうだ。そうだ。だから、「落としたまま」の状態だったほうが良かった。
拾ってくれなくて、良かったんだ。拾ってくれてしまったから俺は、不幸な人生を捨てきれなかった。
「ぱぱはね、あのとき幸せを落としたから、真純が拾ってあげたの!偉いでしょ、褒めて、いいこいいこして!」
俺が落としたのは、あるいは―――。
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