藍色の君

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 ひんやりとした肌が俺の肌に吸い付く。人差し指で彼女を優しく撫でてあげて、親指は軽く触れるだけにした。左手では彼女に触れながら右手ではマグカップを持つ。中身はコーンスープだ。とろりとした甘みと、時折口に入ってくるコーンの粒が好きなのだ。机の上にいる彼女に覆いかぶさるようにしていた手をひっくり返し、彼女を手のひらの上に乗せる。自分の手の中にすっぽりと収まってしまうとは、なんて可愛らしいのだろうか。マグカップを置いて、彼女を手のひらの上で遊ばせていると、スマホのアラームが鳴った。空気の読めない電子音を止めるために彼女をそっと机の上に置き、スマホを手に取った。薄暗い室内で四角い画面がくっきりと浮かび上がる。アラームを止めてスマホを足元に置いていた鞄に放り込むと、コーンスープの最後の一口を飲み干した。まろやかな余韻に浸りながら再び彼女を手に取る。ほどよい重みに、自然と笑みがこぼれた。彼女を、彼女専用のベッドの上に寝かせ、その姿をもう一度見る。美しい体は、室内のわずかな光を反射して神々しく輝いている。 「行ってきます」  部屋を見渡し、彼女たちに別れの挨拶を告げると、マグカップと鞄を持って部屋を出た。  キッチンにマグカップを置いてから家を出ると、道路の端には少し雪が積もっていた。雪は朝日を浴びてキラキラと輝いているが、彼女たちの美しさには到底及ばない。コートを着てネックウォーマーをつけていても寒くて、ホッカイロを持ってくるべきだったと思う。 少し歩くと前の方にクラスメイトの背中が見えた。挨拶をしないとバレた時に面倒なので、小走りに近づいていく。声をかけるとクラスメイトの女子は、あからさまに顔を輝かせた。マフラーの上にふんわりと髪を乗せた女子は、口元を隠すようにマフラーを掴んだ。 「おはよう、相原(あいはら)君」  薄っすらと頬を赤らめながら挨拶を返してくれた女子は、ゆみこという名前だ。漢字は忘れたが問題ないだろう。くだらない会話をしていると、どんどんクラスメイトが集まってきた。煩わしくて仕方がない。うるさくて耳を塞ぎたくなる。校門が見えてきた。高校生の集合体となってそこを通ると、憂鬱な箱庭での一日が始まるのだ。  ローファーから上履きに履き替える間も、廊下も、教室でも、俺の周りには誰かしら人がいた。朝のホームルームが始まるというのに、離れる気配がない。また自分が促さないと動かないのか、こいつらは。だが、今日はいつもより早く担任が教室に入ってきた。慌てて自分の席に戻る連中にため息が出る。長い髪をバレッタで留めた担任は教卓の前には立たず、なぜか教室のドアを押さえていた。すると、車いすに乗った少女が教室に入ってきた。突然の登場に静まっていた教室がざわつく。 「彼女は、宇都宮瑠璃(うつのみやるり)さん。今日から、このクラスの新しい仲間になります」  担任に紹介された宇都宮は、小さなメモ帳をこちらに見せてきた。 「宇都宮さんは喋ることが苦手なので、このメモ帳に書いて会話をするそうです。今は、よろしくお願いしますと書いてあります」  代読されると宇都宮は小さく頷いた。体が不自由な子や、心に何かしら問題がある子を積極的に受け入れるこの学校には、車いすに乗っている生徒は何人かいる。だが、さらに喋れないという生徒は今までいなかったため宇都宮への関心は一気に高まった。黒く長い髪は腰のあたりまで垂れ、白い肌は透き通るようで、宇都宮は絵に描いたような美少女だ。それも含めて、注目されているのだろう。  やっと見つけた。  足が不自由で、声が出ない少女。自分の理想そのものではないか。勝手にどこかへ行ったり、煩わしく近寄ってきたりすることもない。不快な声を発することもない。やっと俺は、ずっと欲しかったものを見つけたのだ。 「彼女のこと、よろしくね。学級委員長」  自分の役職が呼ばれ、大きく頷いた。彼女と近づくチャンスを得られたことに、胸の内から湧き上がる興奮を抑えられているか不安になる。俺の左隣、窓側の角の席が、彼女の場所となった。  家に帰ると、自分の部屋へ一直線に向かった。彼女たちにただいまを言うのも忘れベッドに飛び込む。抑えきれない興奮を発散するように、その上でゴロゴロと転がった。なんて理想にぴったりで美しいのだろうか。そして瑠璃という名前。俺が愛しているものの一つと、名前が同じだ。運命を感じる。ベッドが置かれた壁際とは、逆の壁際に置かれている棚に目を向けた。そこには俺の彼女たちである美しい宝石たちが、綿の上で寝そべり、ケースに収まっている。日の光が苦手な子もいるので、カーテンは閉め切られていて部屋は暗い。あの棚に宇都宮を入れることはできないが、前に並べることはできる。それができたら、どんなに素晴らしいだろうか。想像するだけで心が躍った。  宇都宮を自分のものにする。その計画は順調だ。彼女に学校を案内し、困っているときはすぐに助けた。うっとおしがられない程度の距離を保ちながら彼女の隣にいるようにすると、そこが俺の定位置だと周りは認識するようになった。  放課後、彼女の母親が迎えに来るまでの間を玄関で二人で待つのも、もう当たり前になっている。学校での面白い話、近所の芸達者な飼い犬の話などをしてやると、彼女は声を出さずに笑ってくれた。 「何が飲みたい?」  寒い玄関に行く前に二人で自販機に寄る。彼女が申し訳なく思わない頻度で奢り、また奢られた。優しい彼女はいつも奢られることを嫌がったのだ。彼女はメモ帳に文字を書くと、こちらに見せてきた。そこには「ココア」と書いてあったので、温かいココアのボタンを押す。彼女の白い手に乗せてやると、自分の分のコーヒーを買った。 「車いす、押そうか?」  聞いたが、彼女は首を横に振った。これまでにも車いすを押そうかと聞いたが全て断られている。ココアの缶を太ももに乗せた彼女は、車いすを動かし、俺はその横に並んだ。  正門とは反対側の玄関は目の前が駐車場になっており、その奥はグラウンドだ。ここでいつも彼女の母親が来るのを待っている。プルタブを開け黒い液体を口に流し込むと、口の中いっぱいに豊かな苦みが広がった。  ふと、彼女が俺に向かって手を振った。メモ帳を見せて会話をしたいときの合図だ。彼女の横にしゃがんでメモ帳を見ると「コーヒー、苦手なの?」と書いてある。  図星だった。  子供っぽい舌なので、苦いものや辛いものは苦手だ。でも、それでは自分で作り上げた相原のイメージにそぐわない。ずっとバレずに隠してきたのに、つい最近出会った彼女に見破られるとは思わなかった。気まずくなって彼女から顔を背けると、小さな笑い声が聞こえた。急いで振り向くと彼女は口元に手を添えながら笑っている。彼女の声は他の人間と違って少しもうるさくない。初めて聞く彼女の声に、胸が高鳴った。心を開いてくれているように感じられて嬉しい。  笑ったせいなのか、彼女の膝からメモ帳が落ちる。目の前にあるスロープを滑り落ちてしまうのを小走りに取りに行ってあげた。 「これ、紙に薄く花の模様があるんだね」  彼女の正面に立ってメモ帳を渡すと、彼女は見たことがない表情をしていた。白い肌が青白くなって眉根は下がり、唇は震えている。驚いて、心配する言葉をかけながら彼女の肩に触れると、思いっきり手で弾き飛ばされた。そのことに呆然としていると、後ろから彼女を呼ぶ声がする。振り向くと、そこには彼女の母親がいた。  彼女を抱きしめる母親の様子を眺めていると責める色を含んだ瞳が向けられ、事情を聞かれた。 「その、メモ帳を拾って、宇都宮さんに渡したら、顔が青白くなって、あの、心配で、肩に触ったら、こんなことに」  ありのままを、つっかえながら伝えると、母親は表情を歪ませた。 「この子、男の人が怖いの。相原君ならもしかしてと思ったけど、ダメだったみたいね」  言っている意味がうまく飲み込めずその場に突っ立っている内に、彼女は母親の車に乗って、いなくなってしまった。冷たい風が頬を撫でる。野球部員が叫ぶ声が、やけに遠くに聞こえた。  失敗した。  彼女を怖がらせるような真似をしてしまった。これでは彼女を自分のものにするどころか、近づくことすら許されなくなったのではないだろうか。すぐに次のプランを考えなくてはならないのにうまく頭が働かない。絶望に近い後悔が渦巻いているのに、その隅で自分が男として見られたことへの喜びが垣間見えた。  母さんが叫んでいる声がする。父さんが怒鳴っている声も聞こえた。これは夢だとはっきり分かるのに、五歳に戻った俺は部屋の隅でうずくまったままだ。怖くて堪らなくて必死に目を閉じて、耳を塞ぐがどうしても音は聞こえてしまう。なにか重たい音がして、音が聞こえなくなった。やっと怖い時間が終わって元の優しい両親に戻ったのかと思い、目を開けようとすると、父さんがそれを止めた。目をつぶったまま立つように言われ、言うことを聞く。 「そのまま目をつぶって、リビングを出たら、部屋で寝なさい」 「どうしたの?」 「大丈夫。大丈夫だ」  父さんに背中を押されおぼつかない足取りで歩くと、廊下に出された。  それ以来、俺は母さんの姿を見ていない。  目を覚ますと、ベッドの上に横たわっていた。どうやって帰ってきたのか全く覚えていない。嫌な汗で制服が肌に張り付き、涙で視界がぼやけている。どうしてこんな夢を見たのだろうか。あれは気づいてはいけないものだ。気づいてしまったら、今の生活があっという間に崩れるのが分かっている。だから、封印していたはずなのに。悪夢は変えようのない過去を突きつけてきた。  よく見えないままベッドからずり落ちて、本棚へと這いずるように進み、一冊の絵本を手に取る。ページをめくると、母さんが写った写真が現れた。長い黒髪だった母さんは、美人で自慢の母さんで、小さな俺を抱きながら、こちらに向かって微笑んでいる。その上にいくつもの水滴が落ちた。写真を握りしめながら彼女たちが座っている棚に寄りかかると、一番下の段にいる、水晶と目が合った。  宝石はどこにも行かない。絶対に俺から離れたりはしない。叫んだり、優しい言葉をかけてくれたりもしない。優しくされれば、それだけいなくなった時の恐怖が増えるから、それでいいと思っていた。傍にいるだけの優しさを愛していたのに、今はそれが恨めしい。俺の傍に近づいて、両腕で抱きしめて、なにか言葉をかけてほしくて仕方がないのだ。  下の階で、物音がした。いつもは遅く帰ってくる父さんが、帰ってきたのだ。階段を登る音が聞こえて、俺の部屋の前で止まる。 「ただいま、千紘(ちひろ)」  ノックの後に、父さんが部屋に入ってきた。髪に白いものが混ざり始めているが、きちんとした背広を着ていて、俺を養うために一生懸命に働いてくれている自慢の父さんだ。いつもではないが、授業参観や運動会にも来てくれたし、俺が宝石が好きでも許してくれた。 「どうした、具合でも悪いのか」  泣いている俺に近づいた父さんは心配する言葉をかけ、背中を撫でてくれた。さっきまで俺が望んでいたことを全部してくれる。なんでもいいから縋りたくて父さんの胸に顔をうずめると、驚いたようだが抱きしめてくれた。こんな風に抱きしめられるなんていつぶりだろうか。鼻が詰まっていて父さんの匂いがよく分からない。父さんは母さんの代わりも務めようと、努力してくれていた。 こんなとき、いつも言われる言葉がある。 「ごめんな、母さんがいれば」 「自分で殺したのに?」  口からこぼれた言葉に自分でも驚いた。父さんの体は死んでしまったように固まっている。 「知って、たのか」  やっとのことで絞り出された父さんの声は何十歳も年を取ったように掠れていた。ゆっくりと体を離され、父さんは立ち上がる。こちらを見下ろす目はやけに空虚で、なにも映していない。メモ帳を渡したときの俺も、こんな風に見えたのだろうか。自分がどんな目をしていたのかは分からないが、男が怖いならそれだけで十分怖かっただろう。  父さんの右手がゆっくりと持ち上げられる。母さんもこんな景色を見ていたのかと思っていたら、頬に衝撃が走った。吹き飛ばされて床に顔をこすりつけると、遅れて痛みがやって来た。 「母さんが! あいつが悪いんだ!」  思いっきり背中を踏まれて肺の中の空気が全部吐き出された。何度も踏まれる背骨は悲鳴を上げ、腹を蹴られると息ができなくなる。必死に自分の体を庇うが、庇っていないところを次々に蹴られた。 「俺の言うことを聞かないから! 働きたいなんて言い出すから!」  俺に馬乗りになって顔を殴ってくる父さんが、悲しく思える。俺も父さんも同じだ。愛しているものを従わせ、手元に置いて、閉じ込めておかないと気が済まないのだ。  宇都宮さんに嫌われて良かった。  今、自分の本性に気づくことができたが、もしあのまま彼女を手に入れていたら、自分はこの男のようにあの美しい少女を粉々に壊していただろう。このままでは自分も母さんのように殺されてしまうかもしれない。でも、そのおかげで彼女を守れたのだからいいではないか。守れたなんて傲慢かもしれないが、死ぬのだからそう思っていたい。  うるさいし、痛いな。  もう、この二つのことしか考えられなくなってきた。父さんは何かを叫んでいるが言葉になって聞こえてこない。すると、父さんの腕が棚に当たって宝石たちが落ちてきた。細かいものと一緒に大きなものも頭上から落ちてくる。何か鈍い音がして父さんの手が止まった。よく見えない目で見ると、父さんは頭を押さえて血を流している。顔の横を見ると、握りこぶしより少し小さい水晶が赤く染まっていた。  逃げろ、と言われた気がした。  渾身の力を振り絞り、父さんを突き飛ばした。上に乗っていた重みから解放され扉へと向かう。だが、うまく体が動かない。這いつくばっていると、後ろから四つん這いになった父さんの手が伸びてくる。もし捕まったら今度こそ殺される。 「待……、痛い!」  今度は手を押さえていた。どうやら尖った宝石のどれかの上に手をついたらしい。  愛しい宝石たちに助けられて、俺は家から転がり出た。  外灯がつき始めた薄暗い道を必死に走る。驚いて、固まる人たちの間を当てもなく逃げた。傷ついた臓器は俺を生かそうと懸命に動いているが、動くたびに全身が痛む。前もよく見えなくて足がもつれた。転んで動かなくなった俺の周りに、人が集まり始める。助けを求めたいのに声が少しも出ない。ぼやける視界の中、右手の先に青色の球体が転がっているのが見えた。服の隙間にでも入ったのだろうか、それは自分の部屋に飾ってあったラピスラズリだった。親指の爪程の大きさのそれを必死に掴む。手のひらで感じる冷たさが心地よかった。ラピスラズリの和名は瑠璃だ。  彼女にもう一度会いたい。  それだけを願って、意識を手放した。  それから俺は救急車で運ばれ、父さんは捕まった。俺を追って血まみれのまま外に出たらしい。警察に事情を聞かれ、俺は全てを話した。父さんに殴られたことも、母さんのことも。もう何年も前の話で、しかも子どもの頃の記憶だ。母さんのことは明るみに出そうにない。あの男が自供すれば話は別だが、臆病で哀れなあの男は黙秘を続けている。今もどこかで、母さんはひとりぼっちでいるのだ。  事情が事情なので俺は個室で入院している。ベッド横の棚の上には、あの時ついてきてくれたラピスラズリが、重ねたティッシュの上に座っていた。  ふと、病室の扉がノックされた。返事をすると誰かが入ってくる。その人の姿を見た途端、もう死んでもいいと思えた。 「こんにちは、相原君」  いつも通り、メモ帳を見せてくる彼女に、何も返すことができない。どうしてここにいるのか、怖くはないのか、いろんな考えが混ざって訳が分からなくなる。そうしている間にも彼女はどんどん車いすを進めて、ベッドの横で止まった。彼女がまたメモ帳に何か書く間も、どうしていいか分からなくて馬鹿みたいに彼女の顔を見つめた。 「お見舞いです」  彼女は膝に乗せた鞄から何かを取り出すと俺に差し出してきた。それはコーンスープの缶だった。 「これ」  缶と彼女の顔を見比べていると彼女は頷きながら笑ってくれた。 「いつも、コーヒーを買う前に見てたから」  自分が思っていた以上に彼女に見られていたことが分かり、恥ずかしいがやっぱり嬉しい。素直にお礼を言うとそこで会話が止まってしまった。  窓の外では、青い空に柔らかそうな雲が浮かんでいる。ここは二階で中庭もよく見えた。桜の木はいくつもの蕾をつけはじめて、春への準備をしている。 「俺、引っ越すんだ」 「どこ?」 「新潟。ここより少し田舎かな」  俺の言葉に彼女はすぐにペンを走らせている。その姿が健気で愛おしく思えた。 「母方の祖父母が、俺を引き取ってくれるんだ。だから、高校も別のところに行く」  自分の声は震えてはいないだろうか。涙はこぼれていないだろうか。彼女との最後の会話なのだ、笑ってさよならをしたかった。 「私の話を、聞いてくれる?」  いつもより少し小さくなった文字に頷くと、彼女は続きを書き始めた。途切れながらも文字を書いていたが、その言葉をなかなかこちらに見せてくれない。しばらくして、ふっと息を吐いた彼女はメモ帳を見せてくれた。 「私ね、義理の父親にレイプされたの」  震えながら書いた文字は所々薄くて、歪んでいる。それが彼女の今の心を表しているように思えた。唇を噛んで震えながら彼女は続きを書いた。 「小学生の時、母が再婚して。怖かった。逃げられなかった」  脈絡がなくなってきた言葉にどう返していいか分からず、頷くことしかできない。 「生まれつき車いすで、動かなくて、怖くて。声が出なくて」  メモ帳の上に、水滴が落ちる。 「家に来た、ヘルパーさんが、助けてくれて」 「それで、声が?」  頷く彼女は涙をこぼしながらメモ帳を見せる。 「相原君のことも、怖かった」  胸に刺さる言葉に息が詰まる。 「父と同じ、従わせようっていう目をしてた」  俺は愚かだ。最初から彼女に嫌われていたのに気づきもしなかった。 「でも、私と同じ寂しい人なんだと思ったの」  その言葉に涙が溢れた。涙が頬に貼ったガーゼにしみ込んでいくが気にならない。俺はずっと、気づいてほしかったのだ。作り上げた相原千紘の中にいる子どものままの自分に。 「あ、いはら、くん」  子どもみたいに泣きじゃくっていると名前を呼ばれた。いつの間にか車いすを動かした彼女はすぐ隣にいて、真っ直ぐに俺の顔を見ている。黒曜石みたいな、それよりもっと綺麗な瞳の中に自分が写っているのが見えた。 「やさし、く、してくれ、て、ありがと、う」  掠れた声は空気が漏れ出ただけのような音だが、はっきりと聞こえた。震える手が伸びてきてベッドに置かれた俺の手の小指を掴む。 「隣に、いてく、れて、嬉し、かった。だから」 「待って」  そこから先は俺が言いたい。怖がらせないように小指と薬指に力を入れて、彼女の指を握った。 「宇都宮瑠璃さん、好きです」  反応が怖いけれど彼女から顔を反らさない。すると、大きな瞳が見開かれ、やがて細められた。涙に濡れた彼女の笑顔は何よりも美しくて、尊いものに思える。何度も頷いてくれる彼女を抱きしめたくて仕方がない。 「会いに行くから、待ってて」  彼女が歩けないのなら俺から会いに行けばいい。 「俺がたくさん話すから、笑って」 彼女が喋れないなら俺が代わりに話そう。でも、これだけは声を出してほしい。 「名前、呼んでほしい」  母さんがつけてくれて瑠璃が呼んでくれる名前は、俺にとってかけがえのない宝石となった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!